本当にそれは言論の問題なのか

2022年7月10日

暴力と言論について、新聞が一斉に取り上げている(新聞の立場によっては、やたらこれを強調しているところもある)。言っていること自体に大きな齟齬はない。だが、実にさまざまな暴力があり、言論という建前をとって暴力を遂行しているということもある。経済的条件をちらつかせて暴力をぶつけていることもある。水を垂れ流し、電気をふんだんに使う私自身がまた、誰かにとっては暴力をはたらいていることになるのだ。自分が暴力など無縁だ、と自分で決めつけることこそが、暴力かもしれない、と改めて自戒する。
 
新聞や各報道は、一斉に「言論」と「民主主義」を、問題の核心に決めてかかっている。それらが無関係だとは、もちろん言わない。だが、本人の供述は最初から、そしてその後の捜査も、違うところに中心があることを示している。
 
故人がかつて総理大臣であった時代に、さんざん非難し、揶揄さえしていたようなキリスト教会関係者が、こぞって元総理大臣のファンのような発言を繰り返すのを見ると、昨日の私の「時代は一気に変わり得る」の意味が、恐ろしいほどに分かる。そして、一斉に、言論の自由だ、民主主義を守れ、と連呼する。
 
だが、何が彼をそうさせたのか、への視点をかき消すような連呼であるのなら、それは、社会一般の私たちの責任となるだろう。「正義」の名の下にいきり立つ人々の見ているところは、的を外していないか。
 
故人の祖父が、特定の党を敵視することで、特定の団体と結びついていたことは有名である。そして故人も、その関係でその団体と深い関わりがいまなお続いていることもはっきりしている。つい先日、自民党の国会議員が参加する会合の冊子が問題視されたが、同じような方向を向く集会に、去年も賛同のメッセージを送っているという報道がある。
 
その会合で問題になっているのは、キリスト教関係者の文章であった。今回の特定の団体も、キリスト教関係である(という言い方をすると「関係がありません」という声が聞こえてくるが、社会一般の視点からはそう見えておかしくはない)はずだ。
 
オウム真理教以来爆発的に蔓延した「宗教は怖い」の思想が、今度は「キリスト教」に置き換えられ、塗り固められかねない勢いである。
 
今日は主日礼拝。教会では、説教壇で、説教が語られるであろう。政治的なことを語る場ではない、というところも多い。それはそれでいい。だが、そこから果たして、命と希望を語ることができるのか。キリスト教会が、もしそれを問われている意識をもてないとしたら、本当にコンクリートのように固定してしまうかもしれない。



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