前提となるもの

2022年7月3日

ひとが発言をするというのは、不思議なものだ。頭の中に構築したものをゆっくりと出す、という場合もあるが、たいていは、口に出しながら考えているものだ。だから、自分でもよくそんなことを考えていたな、と驚くようなことが、口を突いて出てくることもある。言ってみて初めて、そうなんだ、などと感心するようなことがあるのだ。
 
もちろん、その逆もある。あんなことを言わなければよかった、と後悔することもある。それの度合いが多いと、自己嫌悪に包まれるが、かといって、話すことをやめるわけにはゆかない。ひとはたいてい、ブレーキをかけながら、発話活動をしていると言えるのだろう。
 
このように、思いもかけない言葉が出る、ということがあるものだが、その「思いもかけない」ことというのが、自分でも気づいていない、自分の本心であったり、自分の中の前提であったりする、というふうに見ることもできるような気がする。ひとは、自分の中に、何かしら前提を根柢にもっており、発言したことから、その前提というものが、他人から見えるという場合があると思うのだ。
 
たとえば、私たちはしばしば「不条理だ」と世の中を嘆く。「理不尽だ」というのも、同じような意味だろう。それを推し進めたところに、不条理文学というのが生まれたのかもしれない。アナキズムも、どうせ不条理だしね、という社会観に基づいているように、当人は意識しているのだろうか。
 
けれども、「不条理」だと嘆くということは、その人は「理」であるべきだ、という価値観を前提として有しているわけである。そもそも「理」なるものが存在しないと思っているのであれば、それを「不条理」という持ち出し方ができないのではないだろうか。それは、「希望」なるものが本当に「ない」ではなく、「ある」のだからこそ、「希望がない」と嘆くことができるようなものである。
 
「世の中は、間違っているぞ」との憤りがあるのも、正しい世の中というものを、その人が心の中で思い描いているからに違いない。ただ、その前提を自己認識できないでいると、しだいに自分の感情が正義であり、真理であるかのように、勝手に決めつけてしまうのが、少々知識を有した人間の陥りやすい罠である。語っているその内容に囚われて、その背景に気づかない人も多いが、適切な観察と思慮に基づけば、その人の考えの前提は、しだいに見えてくるものである。こういう人は、知識は身につけたが、いうなれば霊において成熟していないのである。
 
霊という持ち出し方をすると、また分からなくなるだろうが、私はそこに、神という他者との出会いや交わりというものを、必要としたいと見なしている。神と「共に知る」はたらきや、神との「現実的な交流」、そしてそれをひとつの「物語」につながるようにしていくこと、こうしたことの大切さを、いまぼんやりとだが、考えている。霊というから、スピリチュアルなことを重んじよ、と言っているのではない。

 
そうしたことを形にしていくためにも、良い本との出会いは、実に助かるものだと思っている。最近また、良い本を知ることが続いている。恵まれたチャンスに、感謝している。



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