読めていない・聞けていない
2022年6月27日
トリセツなどという言い方が通用するようになったのは、いつ頃からだろう。西野カナの歌が広めたのは確かだが、私自身はもっと以前から使われていたような気がする。根拠は見つからないので、話半分に聞いて戴きたい。
取扱説明書。製造物責任法にも関係して、どんな商品にも説明書が付くようになった。危険性については特に、警告をしておかなければ、責任が問われることになる。ところでこうしたトリセツ、私たちは、しっかり読んでいるだろうか。
子どもたちに、ゲームなりなんなりの、トリセツを読んでいるかと尋ねると、大抵の子は、読まないという。子どもが読んで分かりにくいというのもあるが、ほぼ習性的に、まずはいじってみて、それから感じを掴む、という接し方が当たり前になっているかのように見える。
もちろん、個人差はある。ちゃんと読みます、と答える子もいる。また、自分が扱いきれないような物については、やはり説明書は読む、とも言う。誰もが読まない、などと言っているのではない。
ただ、的確に読めているかどうか、は怪しい。怪しいからこそ、「論理国語」なるものが取り沙汰されるのである。事実、論理的な文章を読む能力は、確実に下がってきている。近ごろは、算数の問題でも、まず「問題文の意味」から、懇切丁寧に説明してやらなければ、何を問われているのかさえ分からない場合が目立つ。つまり、あらゆる科目で、まず問題文の読み方から教えなければならない、というわけである。
あるいは、意味の理解について早合点が多々ある。もちろん昔から、うっかりミスはつきものだった。ただ、それがうっかりとも言えない深刻さが、現実にあるのだ。「〜の気持ちが書かれてある文の最初の五文字を答えなさい」くらいになると、もう情報量が多すぎて、小学校中学年でもお手上げだし、受験を目指す六年生でも読めない子がいる。どのように思い込むかというと、「〜の気持ち」が表現されている五文字を探してそこを答えるとか、その文の最後の五文字を答えるとかいう、信じがたいことが、塾の教室での日常なのである。
どうして「ひらがなで」とあるのに漢字で答えるのか。ア〜ウから選べというのに、Bなどと答えるのか。親はおそらく「どうして問題文をちゃんと読まないの!」とお叱りになるだろう。だが子どもたちはそう怒られても、「読んでるよ」と抵抗する。事実、読んでいるのだ。そして、本人は、ちゃんと読んでいるつもりなのだ。
読解力の問題でもあるし、注意力の問題でもある。これを根性論で教え諭そうとしても、そんなことで直るのならば、学校も塾も要らない。私たちは、これに対して何らかの具体的な対処法を、子どもたちに教えることになる。たとえば、板書する。「よく読む」、そして「読む」に下線を引き、そこから矢印を伸ばして「書く」と記す。「書くんだ」と指導するのである。アンダーラインでもいいが、しばしば、囲みを書くように教える。関連語を矢印で結ぶのもいいし、星マークを付けるのもいい。他の文字や記号でもいい。「読む」という、形のないことではなく、「書く」という、形に現れる行為を実行させるのである。
聖書を読むときにも、私の目は節穴であることがよくある。先日も、説教で指摘されてハッとした。ここで「あなたがた」と言われているのは誰のことですか、というのだ。それは「弟子たちだろう」と思っていた。しかし、そうではないということで説教の指摘が続いた。聖書を開くと、確かにその通りだった。こういう説教は、実にありがたい。独断と偏見から救い出してくれる。
私たちは、読んでいるつもりで、実は読めていない。聞いているようで、実は聞けていない。それが私たちの日常なのかもしれない。聖書や説教に慣れてくると、そこはこういう意味だ、と思い、「知ってる、知ってる」と牧師の話を形の上では聞いているようでも、実は何も聞いていないということが、よく起こる。それだと、牧師が見出したおいしい指摘を、見逃してしまうことになるかもしれない。
逆に、「牧師」の側が、中身のない話、あるいは自分自身よく分かっていない話のための作文を読んでいるような場合に、聞く側が、聖書のあの話のことを言っている、そうだね、とばかりに、ちゃんと言っているかのように聞いてしまうということが、起こり得る。たとえ「牧師」本人が霊的に無知であるために、支離滅裂な筋道でただそれらしい単語を並べているだけのものでも、聞く側が勝手に話を組み立てるというバイアスをかけて、よい「説教」だった、などと勘違いしてしまう場合が多々あるのである。ありのままに聞く、ありのままに受け取るということから、私たちのあり方は如何に外れているものか、と思い知らされる。
どんなオピニオンでも、キリスト者だから正しい、というような思い込みが、もちろん最も悪質であることは、言うまでもない。