【メッセージ】共にいること
2022年6月26日
(マタイ28:16-20; 創世記9:8-17)
私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ28:20)
◆大宣教命令
ここは、よく「大宣教命令」と言われる箇所です。マタイによる福音書のラストシーンであり、復活したイエスが、弟子たちに最後の命令を下します。読者は、それを聞いて、今度は自分自身で歩んでいくという、門出になるわけです。尤も、そこには「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20)という、強い支えがあります。主がいつも共にいる。キリスト者にとり、大きな慰めを覚えます。
先月も、この箇所をお開きしました。しかし聖書は、同じ箇所からも、その都度新しく、様々な景色を見せてくれます。私の、また別のところにぐいぐいと食い込んで来ます。復活したイエスとの出会いについては、福音書はこのように限られた記事しか伝えてくれませんが、同じその記事からでさえ、異なった気づきが、いろいろ与えられるのです。
そうなれば、一人ひとり、それぞれが復活したイエスと、様々な出会い方をしている、ということも明らかです。今日は私に与えられたひとつの光の道をお伝えできれば、と願っています。しかし、そこから皆さま一人ひとりが、神に生かされる力を与えられることが、一番だと思っています。
マタイといえば、ゴリゴリの律法重視者のように言われることのある著者です。マタイによる福音書は、なにかと言えば律法を持ち出し、律法を完成する存在として、イエスを描き出そうと努めているように見えます。そのため、これは律法を基盤として生活しているユダヤ人のためにこそ書かれた福音書であろう、と言われることもあります。
けれども、それはユダヤ人を救うため、と限るものではないことが、このラストシーンからも分かります。
19:だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。
この福音、つまり神の救いの素晴らしいニュースは、すべての民へと及ぶというのです。そのために、あなたがたがここから出て行って、拡がりなさい、という意味になります。なに、心配することはない、あなたがたと共に、この私がいるから。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20)のだから。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。/その名はインマヌエルと呼ばれる。」これは、「神は私たちと共におられる」という意味である。(マタイ1:23)
福音書の最初のところで出されていた、この「インマヌエル」という語は、もう二度と出て来ません。由来は旧約聖書のイザヤ書の、7:14と8:8にありましたが、新約聖書では、唐突に出てきたこのマタイだけです。ここに、「神は私たちと共におられる」という意味であるとの説明がありましたが、このことが、福音書のラストで回収された、と見てもよいでしょう。マタイによる福音書は、神が私たちと共にいることを、信仰の根本に与えてくれるように読んでよいのだということです。
◆イエスと出会う者
ここに現れたのは、復活したイエスです。但し、復活したということは、一度死を味わったということです。つまり、十字架を通してこそ、そこにいるイエスだということです。
福音書は、その十字架へ至る過程を、ずいぶん長く描きました。どこからか、という理解は人により異なるでしょうが、最後にエルサレムに入る場面からを、そのように受け取るとしたなら、マタイでは21章からです。全部で28章ありますから、四分の一は十字架の場面です。イエスの誕生と復活の場面を描かないマルコの福音書においては、八分の三に及びます。
「神は私たちと共におられる」(1:23)と告げられ、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20)と与えられた言葉を、今日は握りしめたいと願います。問題は、その、人間から見た「私たち」、そして神から見た「あなたがた」という存在です。いまそれを便宜上「私たち」で統一しておくことにします。
神は私たちと共にいる、という生まれ方をした、このイエスが、いまやイエス自身の口を通して、いつも私たちと共にいることを告げました。ああ、神が共にいてくださる、これは心強いものです。ところが、忘れます。「神」と口にしたとたん、日本人は、神社の神の感覚に取り囲まれてしまうことがあるのです。八百万の神など、考えているはずがないではないか、とお怒りの方もいるでしょうが、さて、どうだか、というのが私の見解です。
思わず何かに手を合わせたくなるようなことは、ないでしょうか。祟りなどという言葉が、少しでも気持ち悪く感じないでしょうか。鎮守の森に、何か神々しい気配を覚えるような気が、しないでしょうか。やっぱり七五三は大事だ、と考えたことはないでしょうか。おみくじや占いに、興味はないでしょうか。地鎮祭に心が和んだことはないでしょうか。
心の弱い方がいました。教会に来ていました。でも、よくよく話を聞いてみると、自分を受け容れ。ありのままで赦してくれるので安心だ、というところが、教会に来ている思いの根幹にあることが窺えました。一人の信徒としてのその方の考え方を、私はとやかく言うつもりはありません。もちろん、説教をするような立場にある人がこんなふうでは、私はその教会に残るつもりはありませんけれども、信仰の捉え方が様々あることについて、何がどうだとは申しません。しかし、このように、「そのままでいい」に甘えているような受け取り方をしている人は、もう少し多いような気がしてなりません。気がかりなことがあるのです。そのような人は、一般に弱いのです。弱すぎて、ちょっとしたことに、心が折れてしまう可能性が高いのです。
「そのままでいい」「あなたはあなたのままで」が、まるで嘘なのではありません。しかし、そこへ行くまでに、ある道を通って行くのでなければならないのです。そして、復活のイエスに出会うのでなければなりません。出会うためには、十字架のイエスにまず出会っているはずです。十字架のイエスに出会い、自分もある意味で死を経験し、さらに復活のイエスにより、自分もある意味で復活を経験するのです。この経験があったとき、主が共にいてくださること、自分が主と共にいることをまざまざと知るのです。
こうして、信仰のエッセンスにまで、一度になだれこんでしまいました。但し、これは経験の問題なので、理屈で説明して、なるほど、と思って戴くことはできません。しかしそうなると、信仰が神秘的に過ぎる、と引かれてしまうかもしれません。さしあたり、もう少し、一定の説明によって、この「共にいる」ということについて、もう少しアプローチすることはできないか、それを模索してみようと思います。
◆共に生きる
「Stand by me」というフレーズは、名曲や名画もありますし、ついにはドラえもんの映画の題にもなって、子どもたちにも知られるようになりました。「私の傍に立っていて」というのはあまりに語を拾っただけで、その意味は、「そばにいて」から、さらに精神的に「支えて」というところだろうと思います。
また、ワーシップソングでも「I will be with you」というタイトルやフレーズが多数見られます。これは見ての通り「わたしはあなたと共にいる」という、神の意志を表します。今日のマタイによる福音書の最後では、「共にいる」は英語でも現在形で表します。英訳では例外なく「I am with you」となります。それがもう、定められた永遠の真理であることを感じさせます。
こうした言葉は、特に近年、よく聞かれるようになりました。「共に生きる」というフレーズが、とても優しく善良なものに聞こえる環境になってきました。あまりに心地よいので、魔法にかかったようになります。なんとなくそれを口にすれば、ステキなことのように思えるので、社会で蔑ろにされていると思われる人々と「共に生きる」、というキャッチコピーが飛び交うことになります。差別された人々と「共に生きる」、障害者と「共に生きる」、そうやって、弱者の味方をすることは、教会のひとつの役割のようにすら見えてきます。
私は、いつもそこにためらいを覚えます。そうした運動にケチをつけるつもりはないのですが、私は、すんなりそこに入れません。なぜって、私は全くもって、「共に生きる」ことなどできないからです。
「共に生きる」とか「寄り添う」とか、口にすると、少し清々しい気持ちになります。麻薬のような言葉です。けれども、実際に共に生きている人は、ごくわずかです。ポーズだけでなしに、寄り添っている人は、ほんの少数です。私などは特にそうで、ハンディキャップのある人と共に生きているなどとは、口が裂けても言えないし、こんな奴に寄り添われていたなどと聞いたら、当事者は蹴飛ばしてやりたくなるだろうと想像します。もちろん、何かしら援助を受けた場合、表向きは、ありがとうございました、と言うかもしれません。そうしなければ、してくれたことに対して失礼だし、また次に助けてもらえなくなるかも知れないからです。しかし、障害者関係の内実の声を聞けば聞くほど、迷惑でも甘んじて受けなければならないとか、的を外しているとか、ちっとも分かってもらえないとかいう声が溢れていますし、最悪なことに、自分では善いことをしているつもりらしいがとんでもない、という場合が多々あることに気づかされます。
障害者を特集した論文の雑誌で見たのですが、「わっぱの会」という名古屋の団体について私は知りました。障害者差別とたたかう団体として、1970年代に誕生します。隔離されていた障害者を共同作業所で働けるように運動を起こします。それを援助するかのような健常者が、実は全く差別なく「共働」するというのが、そのスタートからの理念でした。うわべだけ知っただけの私からは、その働きをご説明することは控えます。よろしかったら、「わっぱの会」の働きについて、検索からでもご覧下さい。
このようなところまでやってこそ、なんとか「共に生きる」ということが言えるのだ、と私は受け止めています。「教会で祈っていますから、共に生きているのですよ、しっかり寄り添っているのです」などと、まさか口に出す人はいないでしょうが、心の中では、ちょっとそういう気持ちになっていた人はいませんか。どう思われようと、それは自由ですが、私は、その気持ちを肯定することはできません。
高校生のときに自閉症の子どもと少しばかり触れあったことがあったとか、献血活動をしたとか、点字や手話を通じていくらか社会を見ることがあるとか、施設に寄付をしたことがあるとか、そんなことには、「共に生きる」の欠片も含まれていないということを、私は常に根柢におくしかないる、と項垂れるばかりです。また、介助者と障害者との間に、複雑な関係性があるということにも、言及しておく必要があると考えます。仕事とはいえ、共に生きることを強いられている介助者の苦労は、心身共に、並大抵のものではない、ということです。暴力や暴言が混じることも当然のことのように考えられるとも言われ、それが時折事件となって報道されますが、なにも特別なケースではない、という声も、あの論文の雑誌には記されていました。
◆誰一人取り残さない
ところが、ごく当たり前に、共に生きているものたちがいます。たとえば、地球上の生物です。そこで、旧約聖書の創世記9章へ、いきなりタイムトリップします。有名な「ノアの箱舟」の物語の最後の場面です。神は洪水を起こして、人類を滅ぼしかけました。但し、まともだったノアとその一家だけを選び、箱舟を作らせてそれに乗り込ませ、救うことにしました。そのとき、陸上の動物をほぼ一つがいずつ乗り込ませ、それぞれの種を維持できるようにしておきました。いま、水が引き、再び地に立ったノアに向けて、神が声をかけます。ノアと契約を結ぶのです。ノアとその家族、さらにその子孫たちとも、この契約を立てるのだ、と言った直後に、このような言い方をします。
10:また、あなたがたと共にいるすべての生き物、すなわち、あなたがたと共にいる鳥、家畜、地のすべての獣と契約を立てる。箱舟を出たすべてのもの、地のすべての獣とである。
生き物たちは、あなたがたと共にいます。鳥・家畜・獣が皆、共にいます。そして「あなたがた、および、あなたがたと共にいるすべての生き物と、代々とこしえに私が立てる契約のしるしはこれである」(12)と言って、虹を見せるのです。虹が現れたとき、神は、「あなたがたと、またすべての肉なる生き物と立てた契約を思い起こす」(15)と言い、「雲に虹が現れるとき、私はそれを見て、神と地上のすべての肉なるあらゆる生き物との永遠の契約を思い起こす」(16)と誓います。「すべての」生き物というとき、それはもちろん、ノアや人間と「共にいる」生き物であるということになります。
私たちは、この「共にいる」はずの生き物が、だんだんいなくなっていることに、気づいています。身近だったはずのスズメもめっきり少なくなりました。福岡県では、生きた化石と言われるカブトガニが絶滅危惧種であるのは仕方がないかもしれませんが、トノサマガエルも明確にレッドデータに入っています。ゲンゴロウに関しては、すでに絶滅種にカウントされているほどです(日本のレッドデータ)。子どもたちも、生き物と触れあう機会自体が絶滅に近く、バーチャル体験で暗記の対象にしかなっていないため、もうツユクサもレンゲソウも、オオバコもナズナも、全く未知のものと化してしまっています。
子どもたちは、環境問題とか自然保護とかいう合言葉だけは学びますが、実際に出会った体験があまりに少ないのです。他方、大人たちは、それはSDGsのことだね、などと言いつつも、さして深刻には考えていない様子。いやいや、SDGsというのは、自然保護のことではありません。それは専ら、人類が生き延びるためにどうすべきか、という極めて人間社会中心の視点なのであって、生き物すべての命のために、ということではありません。共に生きる生物たちを主役にしているのではなく、人間が存続するために、つまり人類が絶滅しないようにするにはどうすればよいか、という観点から、17の具体的な目標を掲げたものです。
このSDGsがひとたび流行すると、今度はそれをビジネスに活用して自社を繁栄させよう、自国が国際的に優位に立てるように図ろう、という方向にばかり目が向くのが、これまた人間です。かつての「エコ」ブームもそうです。「エコ・ファッション」を流行らせようとするなど、全く元の理念を食い潰そうとするだけの、酷い扱いでした。いままたSDGsも、それに近い程度にしか考えていない大人たちがいます。だから、若い世代が猛然と抗議したというのが、まずグレータ・トゥーンベリさんでありました。倫理学の世界でも、いま存在しない人に対する倫理、すなわち世代間倫理が、すでに発案・検討されています。
このSDGs、つまり持続可能な開発目標の、基本的な原則を、私たちは弁えておくべきです。それは「誰一人取り残さない」という原則です。2015年の国連総会で定めたこれらの目標と理念は、2030年までに実現しようとするものでした。もう半分の時間を費やしてきました。しかし人類は、恐ろしいほどに、これに鈍感ではないでしょうか。「誰一人取り残さない」ということから、どんなに遠い日常生活と政治的情況を、私たちはつくつているでしょうか。
しかこの「誰一人取り残さない」というのは、聖書とキリスト教にとっては、福音として受け止め、生かし、そして伝えていくべき理念ではないか、とも思うのです。
◆パートナー
博愛という言葉があります。すばらしい理念ですが、私には大きすぎます。「世界平和のために祈ります」と美しい言葉を放つ口が、目の前の人と争ってしまうのが日常です。大きなことは口に出せるのですが、平々凡々たる生活の身近な問題については、何も言えなくなってしまうのです。
イエス・キリストと出会ったとき、私は、自分が誰をも愛せない人間だということを、思い知らされました。キリストの十字架を見上げたとき、私は完全にそれを教える剣で、胸を刺されたのです。それで、誰か一人でも愛することができるように、という悔い改めの祈りをした、それが最初の「祈り」と言えるものでした。
では、信じたらそれができるのか。できたのか。私は自分でそれができたなどとは言えないと分かっています。ただ、それを果たすパートナーが与えられたことは確かでした。まさに「共に生きる」パートナーです。この言葉はまた、部分を意味する「パート」からできていますから、互いに部分となることを意味します。つまり揃い合って、ひとつを形成するのです。
いまの時代、もはや「家族」の定義すら難しいものですが、法的にどうとかいう問題ではなくて、互いに支え合うパートナーが現にいるということは、なんたる助けだろうかと思います。いま、多数の立場の言い方を使わせてもらいますが、結婚という形で共に生きる配偶者の存在は、私のように一人ではまともな生き方ができなかったような者にとっては、必要不可欠な半身に違いありません。時に背中を押され、時にブレーキを踏まれ、まずは共に向き合いながらも、やがて同じ方向を向いて歩く、かけがえのないパートナーです。
但し、あるとき少し年代が上の女性から、こっそり言われたことがあります。夫婦がいて、ひとりだけが信仰をもっているというのは、辛いものがあるのよ、と。その方の夫は、理解ある人で、時折教会に顔を見せてくれていましたが、信仰をもつというところへは決して入ってきませんでした。そうした中で信仰生活を守り、教会で笑顔と共にそれを語るその女性の、心に抱えた労苦というものは、とやかく他人が立ち入ることのできない、厳しいものであるのだろうと思い、敬服するばかりでした。
この夫婦の関係というものは、親子という関係とは少し違います。親子の関係は、切れることがありえません。しかしパートナーとの間には、いわゆる血のつながりはありません。遺伝子レベルでの関係がないということです。だから、その出会いは貴重です。選び、選ばれるという出会いにより結ばれた関係であり、そして結婚という「契約」を結んだことになります。
◆契約
そうです。私たちと神との関係も、そうなのです。ノアは、神との契約を結びました。人と人との結婚という契約とは少し異なりますが、神が、つまり神の方から、ノアを代表とする人間との間に、契約をもちかけ、契約を結んだということです。
神の方から、共にいる生き物ともまた、契約を立てると言いました。人が、こうした生き物たちとも共に生きていることが前提となっています。それはまた、神もまた共に生きるのだということなのでしょう。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)という言葉を今日、私たちは胸に納めました。神の約束を握りしめて、私たちはここから出て行くことになります。
神の約束は、なんともったいないことでしょう。神の言葉は、なんと真実なことでしょう。イエスは人に裏切られましたが、神は人を裏切りません。「私たちが真実でなくても/この方は常に真実であられる」(テモテ二2:13)と証言される主の真実は、まさに信頼できることです。この「真実」という言葉は、「信仰」または「信頼」という言葉の形容詞形です。真実であるから信頼が置けるのであり、私たちが神に信頼を置くことが信仰であると言える関係になります。
契約は、神の方から一方的にもちかけられたようなものですが、それは、神がその契約を保証していることを意味することになるかと思います。契約の成立と履行は、神の手に委ねられており、神が必ずそれをなすという前提で動くことになります。だから、人の不真実に関わりなく、神は必ずその契約を守るということになります。神が「共にいる」と言った以上は、何がどうあろうと、必ず「共にいる」ことを成し遂げるということです。
神が私たちと共にいて、私たちは生きている限り、神と共に生きることになるのです。
なぜなら、神はすでにもう、契約のための大いなる支払いを済ませています。イエス・キリストを十字架につけ、無残な死を示すことで、この犠牲の上に契約を結ぶ者の罪を赦し、復活の命を与えてくださったのです。そこは、初めてお聞きの方には唐突のように思われるかと思いますが、そこが、キリスト教を信じるということのエッセンスですので、ご辛抱ください。イエスは、神の使命を受けてすべての人の救いのために、その命を棄てました。それは、私たちに真の命を与えるためでした。
まさか。そんな都合のいいことがあるだろうか、とお思いの方もいらっしゃるだろうと思います。誰かが命を棄てたから、他の誰かの命が助かるなどという、実に頼りない約束など、ありうるだろうか、と。
けれどもそれは、私たちが日常的に知っていることで、まことにありふれたことであるはずです。私たちは毎日それを経験しています。
動物が、植物が、命を棄てて、私たちの食べ物となり、私たちはそれを食べることによって、命を保っているではありませんか。誰かが命を棄てて、それにより私たちは命を得ているではありませんか。そんな当たり前のことを、神ですらできないなどと、神を見くびることなど、できるわけがないのです。
◆虹あるかぎり
12:さらに神は言われた。「あなたがた、および、あなたがたと共にいるすべての生き物と、代々とこしえに私が立てる契約のしるしはこれである。
13:私は雲の中に私の虹を置いた。これが私と地との契約のしるしとなる。
14:私が地の上に雲を起こすとき、雲に虹が現れる。
15:その時、私は、あなたがたと、またすべての肉なる生き物と立てた契約を思い起こす。大洪水がすべての肉なるものを滅ぼすことはもはやない。
16:雲に虹が現れるとき、私はそれを見て、神と地上のすべての肉なるあらゆる生き物との永遠の契約を思い起こす
時折空にかかる虹を見ては、私たちは溜息をつくような感動を覚えます。グラデーションの色合いは、七つと数えようが、五つしか言葉にしないでいようが、私たちに自然への畏敬を感じさせるに十分です。その虹が、神とノアとの永遠の契約の証書である、と創世記に記録されているのです。たとえノアの子孫が、ノアの体験の出来事を忘れたとしても、空には虹が残ります。私たちは今もなお、その虹を見上げては、神と人との間の架け橋だと認識し、胸の奥に吸い込む息の中に、神の息吹を覚えるような思いを懐くことができるのです。
虹は、恐らく世の終わりまで空にかかり続けるでしょう。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)というイエスの言葉を、いつまでも響かせることでしょう。
この虹は、空にだけにしか見えないものではないような気がします。私たちにとり、虹を映すものは何でしょうか。
私たちの「虹」は、時に、聖書の言葉でしょう。聖書を開いて見えた言葉、あるいは覚えていた聖書の言葉が、窮地に陥った自分を救い出すことがあるでしょう。疑いと絶望の中に孤独を感じた私たちが、もう一度信頼を始める土台となることができるでしょう。
私たちの「虹」は、時に、出会った人の真心でしょう。 それは教会の内部にあるなどと主違いをしてはいけません。神はあらゆる人を通じて、私たちに愛や真実を教えてくれます。これを昔のキリスト者は、出会うひとがみな「キリスト」である、と言うことがありました。誰をも大切にすることの意義をそれで知りました。真実を尽くしてくれた人、決して裏切らなかった人、私たちは大きな愛に包まれ、支えられ、励まされて、今日まで生かされてきたのだし、今このときも生かされているのです。
また、私たちの「虹」は、時に、苦しむ人々の姿であるかもしれません。人の痛みを見聞きして、私たちは落ち着きをなくします。なんとかしてあげられないか、と自分にできることを探します。ただ胸を痛めるということでもよいのです。また、神に祈るということもあるでしょう。私たちは、愛とは何かを、他人から注がれるばかりでなく、自分の中から問われるようにして、体験することになります。これは、神の痛みと神の愛に気づかされる機会にもなります。自分の無力さを悲しみながらも、いっそう神とのつながりを覚えることができます。
これらはいずれも、神が共にいることの証拠であろうと思います。私たちは事ある毎に、神が共にいることを実感することができます。また、実感しなければならない、とも思います。あなたもまた、ひとりのノアとして、神との契約の前に立っています。真実そのものであったイエス・キリストの姿を、その契約の証しとして目の前に掲げるならば、あらゆるものが、神の愛と真実の証しとして感じられるようになるでしょう。
さあ、今週、あなたはどんな虹を見るでしょうか。私もまた、虹への気づきを、愉しみにしたいと願っています。