正解は定められない中で

2022年6月23日

物事には、よい面もあるが、悪い面もある。それが人間世界での法則だとしよう。では、もしもすべてにわたりよいというものがあったとしたら、どうだろうか。あるいは、人間はそういうものを望むのではないだろうか。
 
そこに、神についての、ひとつの規定が見えてくる。すべてにわたりよいもの、それが神だ、と。
 
そんな馬鹿な。この世の中を見たまえ。なにもかもよいなどということがありうるだろうか。ヴォルテールの『カンディード』が散々揶揄したように、楽天主義については、痛烈な批判がある。そのすべてにおいてよいという神を信じる者もまた、すべてよいことばかりで生きているのかね。要するに、神なんて、ないのだよ。そんな理屈も聞こえてきそうだ。
 
だが、すべてよいものとして前提されたところにこそ、神と私たちが呼ぶ方がいる。その前提の上で展開したものが見当たらないから、前提が間違っている、というのは、現象的なもの、あるいは科学的な検証の方法による筋道である。その理屈は、科学的方法によっては、神がいるとかいないとかいうことは決定できない、という程度のことを明らかにしているに過ぎない。
 
すべてよいというものがあることは、信じるかどうか、という話の中で捉えられることである。それは万人にとり同じように存在するものではない。万人にとり存在するということは、実は万人において、切実な自分との関係がない、ということになりうる。人気アイドルは、誰かひとりのものになってはいけないのである。
 
一種の理想主義だなどと言われそうだが、理想主義というものは、一定の普遍的な解決をもちだすのが普通である。いま述べているのは、それではない。神は普遍的に存在するのではない、という切り出し方をしているからである。これは、神学や教義とは大いに違う言葉遣いをしている。だから、このままでは、信仰する方々からも、誤解を受けることになるだろう。
 
世の汚さを、私は痛感している。それどころか、人間はどこまでも汚いものを有していることを嘆くばかりである。だが、そのように「人間は」と一般的な言い方をするとき、えてして、そこに自分は含まれないような考え方を、人はやってしまうのだ。自分は例外として、ああだこうだと論評する。ついには神までも、自分の判断で、存在させたり非存在としたりしてしまう。でも私は、最も汚い者ではないのか。誰も、自分が一番汚い者だということを、実は知っているのではないのか。そしてしばしば、自己欺瞞の中にあり、ええかっこしを演じているのではないのか。
 
よいものとしての神を、誇るべき理性を用いて、否定する人がいたとする。しかしもしもその人が、たとえば、この世の出来事に、不条理を感じる、という言葉を、つい零すとする。だったらそれは、すべてよい世界を、前提にしているに違いない。それなしには、不条理などという言葉を思いつくはずがないからである。このような、自分では気づかないような、自分の前提というものは、案外ちゃんとあるものなのである。
 
こんな短い言葉の並びで、なにもかもを説明することなどはできない。ただ、普遍的な教義を唱えれば信仰していることになる、という幻想については、大いに疑って戴きたいのだ。私はその神とどういう関係なのか、私はいまここから、どう思い、どう行動するのか。神に、イエスに、あるいは神の霊に、どう導かれているというのか。そもそも導かれたいのか。
 
イエス・キリストがここにいたら、どうされるだろうか(尤も、いる、という確信がなければ、信仰しているとは言えないだろう)。もしかするとキリスト者や、教会組織は、その問題意識をもつ必要を、すっかり忘れてはいないだろうか。この問いは、一定の解答がひとつ与えられるものではないだろう。教義や規則というものは、その答えをひとつに定めてしまうものだ。
 
だが、それが求めるあり方ではない、と私は理解している。きっと、一つに決まった答えなど、ないのだ。その上で、私たちは一人ひとりが問い続け、その都度何らかの答えを以て、生きていくのだ。イエス・キリストならどうするだろうか。私たちは、イエス・キリストに信頼されて、どのように考え、どのように実際私たちが行動するように期待されているだろうか。これを問い続けるのだ。それが、生きるということになっていくのだ。
 
イエス・キリストと共に生きる。あるいは、イエス・キリストが共に生きていてくださる。この営みが刻まれて、人類の歴史はここまで進んできた。私もまた、その中に確実にいる。自分はその神の歴史の中の、当事者である。いまここから、新たなその歴史を刻むのである。間違いもたくさんあるだろう。損な道を選択することもあるだろう。それでも、その都度イエス・キリストに問いながら、正解は神のみぞ知る課題を悩むのである。逃げずに、受け止めるのである。但し、自分が出しゃばることと混同しないように、気をつけておくことは、大切である。さあ、あの十字架を見上げることが、私の十字架を背負うことになるだろう。しかも、それはやはり主イエスが背負っていることに、なるだろう。だからそうしているならば、否応なく、イエスに従っていくしかないのである。



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