【メッセージ】父になる

2022年6月19日

(ルカ6:27-36)

あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。(ルカ6:36)
 
◆父の日
 
父の日は、母の日だけではよくないというので、付け加えられるようになった。そのような話を聞いたことがある人がいると思います。しかしどうやら、一年か二年くらいの間に、別々に母の日、父の日が始まったというのが本当のようです。母の日は、アンナ・ジャービスの母の亡くなったのが5月だったことに由来し、父の日は、ソノラ・スマート・ドッドが、父の誕生月の6月に記念の礼拝を開いてもらったことに由来するのだといいます。ただ、国の記念日となったのが、母の日のほうがずっと早く、父の日が半世紀も遅れたことは事実です。
 
もはや、どちらも、商業主義に飾られた感がありますが、どちらも教会発祥の記念日でした。
 
皆さまの中には、「父」という語を聞くだけで、辛くなる方もおいでかと思います。一緒に暮らせないでいるお子さん、忌まわしいことを思い起こさせると苦しむ方、いまそのために労苦を背負っている方などへの配慮が、私には足りません。いえ、そもそも教会に来ているかぎり、毎度毎度「父」という語を耳にしなければなりません。神は「父」なる神だと、どうして呼ぶのでしょう。どうして神に「父」と呼びかけて祈らなければならないのでしょう。
 
申し訳ありません。今日はその「父」を主題としてお話しします。どうか、お許し下さい。そして、可能であれば、どうかご辛抱下さい。
 
説教題は、もう9年も前の「そして父になる」という映画の題を重ねてみました。福山雅治・尾野真千子・真木よう子・リリー・フランキーといった役者による二組の夫婦が、子どもを取り違えられたことが分かった後の姿を描くドラマでした。子どもたちが6歳になったとき、それが発覚します。エリート建築家の福山は、いくらか高いところからものを見ている態度でしたが、自分の家で育てた優秀な子と、別の素朴な環境で育ったものの自分の遺伝子を受け継いだ子と、さてどうするかという問題で、悩むのでした。
 
実の子を互いに戻すのか、育ててきた今の環境で引き続いて育てていくべきなのか。結論は、映画では見せません。どちらにしても、福山は、これを通じて本当に「父になる」ことになることを期待させます。実に辛い設定を、是枝監督はつくったのですが……。
 
◆敵を愛せ
 
36:あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。
 
父の日として選んだことを弁えるにしても、今日のルカによる福音書6章では、「父」という語はここにしか出てきません。それは、父親のことを描くような場面ではありませんでした。ここは、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」(27)を教える場面でした。この教えは、ルカよりもむしろ、マタイの山上の説教において、よく知られています。
 
しかし、私は言っておく。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)
 
敵を憎むどころではなく、迫害する者のために祈れ、というのですから、ルカの「親切にしなさい」よりきついとお感じの方もいるだろうと思います。このように、ルカとマタイとでは、同じような教えが取り入れられていても、ニュアンスが違うことが多々あります。どうしても私たちは、有名なマタイの山上の説教の方を基準に考えてしまいがちですが、今日はそれは一旦忘れて、ルカの世界に浸ることにしましょう。ルカもまた、敵のために祈ることは告げております。
 
28:呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈りなさい。
29:あなたの頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。
30:求める者には、誰にでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り戻そうとしてはならない。
 
ルカのここでの要求は、かなり具体的です。敵に対しての場面で、マタイは、基本的に「祈れ」と言うばかりです。ルカは、実際行動としてどのようにするべきか、を教えます。ルカはしばしば、具体的に描いてくれているように見えます。そして、敵を愛するということが、たとえば「人によくしてやり、何も当てにしないで貸しなさい」(35)というようなことであることを告げた後、「そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる」(35)というご褒美を掲げます。
 
このような積極的な行動を、果たして本当に私たちはとることができるのでしょうか。ルカは、マタイと同じように、消極的な理由の述べ方もしています。
 
◆普通、そうだろう
 
32:自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。
33:また、自分によくしてくれる人によくしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。
34:返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。
 
「罪人でも」というのは、いかにもルカの好みそうなフレーズで、畳みかけるようにもってきますが、マタイは、うちひとつを「徴税人でも」としていました。職業差別ですが、当時の社会からすると、人々が律法関係で軽蔑する代表としての「徴税人」の登場は、お許し願おうかと思います。それよりも、このルカの「罪人でも」の連続は、なかなかくどいですが、繰り返しにより分かりやすくなっているのも事実です。
 
要は、「誰だってそれは当たり前のことではないか」ということです。自分を愛する人を愛する。自分に優しくする人に対して優しく振舞う。当然返せよ、という前提で初めて貸す。与えるのではなく、返してもらうために貸す。どれも、至って普通のことです。イエスは、これらを悪いことだとしているわけではありません。ただ、キリストの弟子として不条理な仕打ちを受けても、それを幸いなこと、神の国はあなたがたのものだ、と告げた直後の、この場面です。当たり前のこと以上の幸福がどこにあるのか、を問題にしようとしています。
 
やって悪いことではありませんが、やっても特別な意味のないこと、普通のことでしかない、一種の道徳です。しかしキリストの教えは、世の道徳とは、ひと味もふた味も違うことになります。
 
◆低レベル
 
では、どこに違いがあるのでしょうか。それは、この場面からだけでは答えが出るものではありません。
 
35:しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。
 
それだけのことです。これは、なかなかできそうにありません。いえ、待って下さい。一度立ち止まって、考えてみましょう。私たちは、いえ、いまは「私は」としておきますが、自分を愛してくれる人を、愛していると言えるでしょうか。――自分によくしてくれる人に、よくしているでしょうか。――そもそも貸し渋っていることはないでしょうか。具体的に例を挙げるようなことは控えます。どうぞ、皆さまも自分の心に問いかけてください。少なくとも私は、冷静に振り返ってみたとき、そういう自分を見出します。つまり私は、そもそも「罪人でも」のレベルにも到達していなかったのです。
 
実に低レベルなところにいる自分というものを、見せつけられてしまいました。よかったら皆さまも、自分を買いかぶりなさいませんように。多くの方が、私に近い思いを懐いたのではないかと推測します。
 
私は、自分の無力さを改めて思い知らされます。通常の行為で十分なのではない、神の国においては、普通以上の愛の業が必要なのである、などと、聖書の解説書には書いてあることがありますが、私は、その通常の行為ですら、できていないのでした。
 
がっかりかもしれません。でももし、本当にそのように思えたならば、この聖書の言葉が響いてくるかもしれません。
 
36:あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。
 
神が、恩知らずにも悪人も、「情け深い」(35)からだと言ったのに続いて、その「情け深さ」について、「あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい」(36)と言葉が連なり、そしてこの場面が閉じられるのです。「聞いているあなたがた」(27)は、神と同じように、悪人に対してですら、情け深さ、慈しみの心をもつべきだ、と言うのです。いえ、「もつことになる」のでしょうか。
 
◆慈しみ
 
ところで、「慈しみ深い」と聞いて、違和感をお持ちの方もいたと思います。これは新共同訳では「憐れみ深い」となっていました。手話だと、「慈しみ」のほうは、「泣く」動きに続いて、差し出した手の甲の上で、反対の掌を回します。可愛がるような動作です。「憐れみ」も「泣く」に続いてですが、片方の掌を胸に当てるようにして、反対の掌をその甲の上で回します。こちらは、感情に訴えるイメージがあります。しかし、聖書の訳語としては、「慈しみ」と「憐れみ」は、しばしば交差します。どちらでもあまり違いはない、ということなのでしょうか。
 
ただ、新しい聖書協会共同訳では、感情のほうではない選択をしました。神にとり、これは情の問題ではない、という宣言だと受け止めてみたいと思います。
 
感情というと、「慈しみ」という言葉で、心にひとつの讃美歌が浮かんできます。
 
 慈しみ深き友なるイエスは、
 罪、咎、憂いを取り去りたもう。
 心の嘆きをつつまず述べて、
 などかは下さぬ、負える重荷を
 
テレビドラマでも、教会のシーンで取り上げられる讃美歌のベストワンでしょう。「いつくしみ深き」ですが、ここは確かに「慈しみ」という日本語で始まるのが印象的です。しかし、これを英語の詞で見てみましょう。
 
 What a friend we have in Jesus,
 All our sins and griefs to bear!
 What a privilege to carry
 Everything to God in prayer!
 
おおまかに意味をとると、「罪と嘆きをすべて背負うイエスという方が、なんと友になってくれたんだ。どんなことでも神に祈ってよいとは、なんとありがたいことなんだ」のような雰囲気でしょうか。日本語の歌詞の方が、ずいぶんと情緒的になっているのが分かると思います。
 
しかし、映画「そして父になる」が突きつけていたように、いったい「父になる」というのはどういうことなのか、それは感情の問題ではなく、ひとつの決意のような意志を求めるものではないか、そんなところに思いを馳せるべきかもしれません。
 
◆ヘセド
 
私の心の中に、「慈しみ」という語で、もうひとつ浮かんできた聖書の言葉があります。詩編23編です。
 
6:命あるかぎり
恵みと慈しみが私を追う。
私は主の家に住もう
日の続くかぎり。
 
生涯、神の国にいるような志または信仰ですが、生きている間、「恵み」と「慈しみ」が私を追ってくるのだと言います。たとえ逃げようとも、それが追いかけてきて、私を離さないのだ、という強い信仰です。
 
この最初の「恵み」と訳されたのは「トーヴ」、つまり普通の「良い」という言葉です。「慈しみ」のほうは「ヘセド」、いわば「愛」です。人の愛に使われなくもないのですが、基本的に神からの愛です。神の愛が、私を追いかけてくる。なんというステキなイメージでしょう。神は私を愛してくださり、どこまでも追いかけてきてくださるのです。
 
しかし、新改訳聖書では、特に詩編において、この「ヘセド」の多くを「恵み」と訳しているそうです。日本聖書協会のほうでは、基本は「慈しみ」でしょうか。だから、この詩編23:6において、それらは新改訳ではこれとは全く逆の順序で並んでいることになります。いえ、訳語を問題視しているのではありません。この辺りも、どうやら日本語にするときに、公式的に対応しているのではなく、様々な考慮の上に、ヘブライ語と日本語とが、交錯しながら結びつけられているというのが実情のようです。
 
ここで「慈しみ」という訳で現れたのは、ヘブライ語の「ヘセド」です。空知太栄光キリスト教会の牧師の解説によると、この語には常に「力、堅固さ、着実さ」というような意味が伴い、「契約の両当事者が互いに他方に対して守るべき忠誠と誠実の態度をあらわす」のだそうです。これが、神の側からのものとなったときには、簡単に言うと「契約における確固とした愛」のことである、と説明がなされています。

 
とても、感情に基づくようなものではありませんでした。神の「慈しみ」は、契約を前提とする関係の中に成り立つものでした。契約となると、旧約の世界では「律法」の契約隣るでしょう。新約では、たとえばルカによる福音書の中にあった、最後の晩餐の席でのイエスの言葉が思い出されます。
 
食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である。(ルカ22:20)
 
イエスの十字架が、ただの感情や浅薄な知恵によってなされたとするなら、神をあまりにも蔑ろにし、見くびった態度ではないかと思います。また、信仰があると自負する人が、十字架の意味はこうです、と覚りきったようなものの言い方をすることに対しては、私は断固として抵抗します。すべての意味は、あなたと神との間で問われるべきものであるし、あなたと神との関係の中で与えられるものであるはずです。数学の公式のように、普遍的な教条が掲げられて、それをオウム返しに唱えていればすべてが分かる、といったものではないのです。だからこそ、それは神の出来事であるのです。
 
◆そして父になる
 
神の出来事は、唐突に起こります。人が策を練って生み出したのではないからこそ、神の出来事であるからです。私が祈っていたから起こった、私が求めたから与えられた、という、私がイニシアチブを握った中で起こるのではありません。最後に、私の身の上話をご紹介します。
 
幼稚園に、三男が通っていた時のことでした。妻は昼の仕事、私は夜の仕事なので、お迎えに行くのは私の役目でした。午後2時に幼稚園の営みは終わりますが、その後も園庭で子どもたちは遊びたがります。お迎えの多くはママさんでしたが、その時にはママさんたちの恰好の社交場ともなるのでした。昔なら井戸端会議というところを、そこでは園庭端会議というところでしょうか。
 
その頃はいまより私も出勤が遅かったので、時間的にゆとりがありました。遊ぶのならどうぞということで、黄色い帽子の息子を、自由にしばらくさせておくことが多かったのです。いつどこで時間ができても有意義に過ごせるように、私は本を持参していますから、その間、本を読んで待つことになります。
 
その日私は、ヘンリ・ナウエンの本を持ってきていました。教会の棚から借りたものだったと思います。有名な、放蕩息子についての本(『放蕩息子の帰郷』)でした。ナウエンは、レンブラントの放蕩息子の帰郷という絵に魅了されます。そしてまず自分を、放蕩な弟に重ね、次にそれを妬む兄に重ねます。それから「父となる」ことへと魂を向けられていく過程が描かれていました。ナウエンの本の中でも、珠玉の作だと思います。
 
36:あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。
 
ここでは聖書協会共同訳を用いていますが、この箇所こそが、ナウエンに呼びかける神の声でした。ナウエンはこの言葉を、福祉活動の道に入る召命の言葉として聞いたというのです。しかしこのとき、実は私も、意味は違うにしても、同じ神の声として聞いたのです。聖書の言葉が、脳天を貫くのを覚えました。
 
私は、全身が震え、子どもたちが遊ぶ目の前の風景が、先程と全く違った明るさで見えました。神に召されたのです。この言葉で、明確に。そこで、どうしても読みたくなって、この本をこのたび注文し、家に届けてもらいました。そして熱い心で再び読み、満たされた心を与えられました。
 
親は、子どもと契約を結んだわけではありません。しかし、親になるというのは、見返りを求めぬ愛を以て生きていくということだ、と痛感しました。子どもに教育投資などという言葉を使うことはもってのほかです。ふざけてでも口にしたくはありません。親は子どもに何を言うべきか。それは、ただ「生きろ」というだけのように思えます。
 
その子にとり、親と呼べる存在は、基本的に二人という場合が多いこととします。絶対服従などというと今時は流行りませんが、子どもが小さい時にはもちろん、そういう訳です。親として、絶対的な権限をもって接することができる人格は、普通、自分の子どもだけとなります。
 
これを安易に神と人との関係と同じだ、と称するつもりはないのですが、それでも、私が多くの人の「父になる」ための招きだという体験だと受け止めたのも事実でした。ひとを生かすために、ひとに命を届けるために、私は神の言葉を何らかの形で取り次ぐことができるのだ、と気づかされたのです。
 
私は誰の死をも喜ばない。立ち帰って、生きよ――主なる神の仰せ。(エゼキエル18:32)
 
これは、主に背いたイスラエルに向けて、背きを棄てて新しい心を造り出せ、とまるで泣き叫ぶように主が訴えているという様を、エゼキエルが伝える場面です。「生きよ」と切なる呻きを以て訴える神の思いが、ほんの少し、そのはしくれ程度ではありますが、私に迫っていたのです。
 
我が子へも、もちろん言います。しかし、我が子のみならず、イスラエルの民に、いえ、この時代を同じくして生きているすべての人々に対して、私は叫ぶ使命を与えられたのでした。「生きよ」と、声を嗄らして訴えたい。どんなに煙たがられても、叫ぶしかない。なあなあで仲良し仲間で当たり障りのないように、適当にやっていけばいいじゃないか、と誘われても、それでは命がなくなってしまう。
 
なぜって、神が私に「生きよ」と言ったのですから。その神が、確固たる愛によって私と契約をしたのであれば、私もまた、確固たる愛を以て、命を得よと言い続けなければならないのです。「父である」などと豪語せず、「父になる」ために。



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