父の日に寄せて
2022年6月19日
父の日は、母の日ができたから仕方なく、という通説があるが、どうやらそうでもないらしい。アメリカの教会がやはり始まりらしいが、父母を敬えというイスラエルの教えは、人間の心の中でむくむくと頭をもたげてくるものなのだろう。但し、アメリカにおいても、祝日のような扱いにするには、母の日のようにすんなりはいかなかった模様である。
父親というのは、子どもがいてこそそう言われるのだが、母親に比べると、実感が伴わないのが正直なところである。いわゆる、腹を痛めて産んだ、という体験がない故に、どうしてよいか分からずオロオロするような始末である。
それでも、長男が生まれた朝の感覚は、今なお覚えている。朝方だったが、世界がまるで違って見えたのである。あの眩しさ、そして空気。胸の奥まで風がそよぎ、街行くひとに、一人ひとり叫び聞かせたいような、喜び。いや、これはどのように表現しても、言葉が追いつかないものだろうと思う。ただ、とにかく違う世界が眼前に拡がっていたのである。
息子は、なかなか父と肩を並べることができない。まずは結婚したら、少し近づく。だが、自ら子を有してこそ、ようやく同じ土俵を見ることができるかもしれない。まだ戦えるものではないにしろ、同じ「父親」としての立場を知ることになるからだ。
あの頃はまだ「イクメン」といった言葉はなかった。だが、離乳食から公園散歩など、ささやかではあるが、育児については担っていた。私の仕事が、午後しばらくしてから夜中というリズムのために、一日の前半はそういうことができたのだ。細かなことは申し上げる暇がないが、妻には本当に苦労をかけた。よくぞ産んでくれたとも言えるし、経済的に苦しい中で、よくぞ支えてくれたと思う。すべてを献げてそのようにしてくれたという意味では、彼女ほど「献身」して尽くしたひともいない、とまで言うべきだと思う。
私の誕生日は、あの年から、結婚記念日となった。生涯最高の贈り物をくれたということで、感無量である。偶々、それが父の日に重なることがあり、結婚式はまさにその年だった。そして、奇蹟の皐月晴れ。私は、自分の誕生日を、ただ受ける日としてではなく、与える日としても迎えることになる。
明くる年の冬至の前日に、長男が誕生した。その日、私にとり、世界が変った。
そんな私を支えてくれた私の父も、ずいぶんと年齢を重ねてきた。だらしなく、人前に何も誇るようなところのない息子でしかないし、いつまでも生活を助けてもらうばかりだった。もしかすると、私自身が父親となったときのような気持ちに、いくらか似た気持ちを、味わったことがおありだろうか。いや、もっとそれを超えているような気がする。なにしろ高度成長期、一年中働いてばかりいるような父であったのだから。私のように、働いているのかどうかよく分からないような、のらりくらりしたような生活ではなかった。まさに、食うために労していたのである。
だから、私は偉そうなことは、全く何も言えない。そんなダメな父親を通して生まれた三人の息子は、なかなかの見所のある、三者三様の人間である。どの家族にも、改めて礼を言うしかない。その意味では、私は確かに果報者である。
そのように、私が父になるという過程は、ふらふらと情けないような道だった。だが、聖書は、「父になる」という筋道に、驚くべき真理を隠し持っていた。ヘンリ・ナウエンが辿ったその輝きの、ほんの一部かもしれないが、私もそれにより照らされるのである。