カムカムに学ぶ聖書の真実

2022年6月11日

2022年春に放送は終了したが、その後も『カムカムエヴリバディ』の評判がいい。最初は戦争が絡み、どうしても暗く悲惨な印象があり心配されたが、後から思えば、それがどれほど必要な始まりであったかも分かる。秀逸な作品であった、と多くの人が認めるドラマであった。
 
ラジオ英語会話の平川唯一の祈りが、まるでそうさせたかのようであった。もちろん、そのラジオ番組が、ドラマのとおりの狸囃子の歌で“Come, Come, Everybody”と始まっていたことから、ドラマのタイトルが決められている。ドラマでは描かれないが、平川唯一は、筋金入りの信仰をもつキリスト者である。若くして、ふとした偶然のようにしてアメリカで暮らすことになり、現地で信仰を与えられた。まるで英語を知らない中、17歳で小学生となるが、努力により大学は演劇科で首席の成績を収める。教会の副牧師を経験した後、ハリウッド映画にも出演したが、この辺りは、ドラマの中の算太や最後の映画制作などと結びついているものと思われる。
 
終戦の詔勅の英訳を担当するなど、建築士としても名高いウィリアム・メレル・ヴォーリズと同じように、終戦直後の日本の立て直しに大きな影響を与えたキリスト者の一人である。
 
こうした点は、マスコミの話題にもならず、情報通のクリスチャンのSNSにも、上がっているのを見たことがない(きっとあるだろうが)。もったいないことだと思う。平川唯一の信仰には、実に学ぶべきことが多いと私は考える。
 
いわゆる「カムカム英語」として知られるその英語会話の放送は、綿密な原稿に基づいてなされた生放送であった。誠実な姿勢は、当時の人々の求めにも合致し、空前の英語ブームをもたらした。ドラマの中で、「赤ちゃんのように」と、演ずるさだまさしが繰り返し語っていたが、もちろんそれは平川唯一本人の言葉である。これにより学んだ日本人の英語が、戦後の高度経済成長をもたらした、との評価もある。
 
この平川唯一へのリスペクトあればこそ、のドラマのタイトルであったはずだが、恐らく脚本家は、かなり調べているはずである。彼のアメリカでの通称は、新島襄に因んだ「ジョー」であった。ドラマをご覧の方は、この名がドラマを最初から最後まで大きく引っ張っていったことを思い起こすであろう。また、彼が岡山出身であったことも、ドラマの舞台を岡山としたことの理由だと私は見ている。
 
以上のことは、4月の私の記事でもほぼ触れている。今度は、ドラマの演出について少し語る。ドラマの展開で驚かされたもののひとつに、悲劇の安子編から、るい編に変わったときの明るさである。大阪に出て来たるいが、いきなり街で通行人と共に踊るのである。完全にそれはミュージカルであった。
 
もうひとつ、クライマックスで、ひなたが、祖母の安子であるアニー・ヒラカワ(この名が平川唯一へのリスペクトであることはドラマ内でも明らかにされている)を追いかけるシーンに注目したい。すでに70代の年齢であるアニーに、30代のひなたが走っても追いつけないのである。これもありえないことだ。周囲の風景が、過去の物語のポイント地点を示しつつ、何kmか知れないが相当な距離を走った末、物語の重要な場所としての神社にて力尽き、ひなたに抱えられて、るいの歌う会場へと向かう。
 
どちらも、奇妙奇天烈である。以前私は、ミュージカルが苦手だった。どうしていきなり登場人物が歌い始め、周りの者が一糸乱れるダンスを見せなければならないのか。現実にはありえないだろう、と。後者の長距離走も、現実離れしすぎである。
 
だが、物語とはそういうものである、と後に理解した。物事の真実を伝えるためには、継起順に科学的現象のように記述することが必要なのではない。このドラマでの真実を私が勝手に解釈することは控えるが、これらのシーンによって、視聴者の心には、物語の真実がきっと浮かび上がるのである。つまり、何かの象徴がなされているものだと、ちゃんと理解できるものである。
 
それは、制作側の意図としての真実でもあるだろうが、作品として生まれた以上は、受け取る側それぞれに与えられる真実でもある。それにより、一人ひとりは、伝えられることを、自らの生きる糧とする。それが確かに伝わっていたからこそ、このドラマの評判がよいということにも、なるのである。
 
私は、教えられる。これは、聖書、特に福音書のエッセンスではないか、と。新約聖書の福音書は、イエスの生涯を描く。だがそれは、私たちの理解する伝記ではない、と言われる。だからまた、それは史実ではないとか、イエスは実際こんなことはしていないとか、ぶつぶつ呟かれることとなっている。そのために、せっかく一度は神を信じた人の信仰が揺らいだり、他の人々からは、そもそも信用できないと言われたりすることがある。
 
私たちの感覚からして、ありえないことが、そこに書かれている。だがそれは、確かな真実を語っているはずなのである。誰も、お伽噺をそこに書いて、楽しませようなどとはしていない。ミュージカルの演出でもいい。象徴的な描写でもいい。決して嘘が書かれているのではない。それを、実際にはどういうことが起こっていたのか、などと詮索するのは野暮である。るいの心の中では、あのダンスは本当にあったのである。逃げる安子の中では、あの風景のすべてが確かに存在していたのである。
 
イエスの旅は、ガリラヤに始まり、エルサレムで終わる。ヨハネ伝はそれを幾度か往復させる。他の福音書は一方通行のようであり、特にルカは明確にエルサレム志向が強い。マルコはガリラヤへの思い入れが強い。マタイは旧約聖書の歴史を確実に背景とする信念を表に出す。イエスは度々奇蹟を行い、人々を癒す。癒すのが救いであるのか。もちろん救いでもある。不当に差別されたいた人が、どれだけ救われたか知れない。でも、そんなことが起こるはずがない、と一蹴する必要はない。それは、確かにイエスのしたことなのだ。
 
ミュージカルは嘘の人生描写ではない。人の真実がそこに描かれているはずである。私たちの人生は、履歴書に記すものだけが真実であるはずがない。ちょっとした風に心が揺らぐのも、出会った人に光が投げかけられたと喜ぶのも、すべて人生の真実である。
 
聖書のドラマは、『カムカムエヴリバディ』よりもなお、人の真実を描き、誰をも必ずその物語の中に登場させる。すべての人は神のもとに存在しているからだ。聖書の物語の中で、まずは勘違いをしている者として登場し、イエスと敵対する。そしてイエスを殺した自分を見出す。その後復活のイエスと出会って、イエスに従う者に変えられて、登場する。できるならもう一度イエスの歩みの後をついていきたい、と願うならば、イエスは何度でも、そのチャンスをくれる。その行く先は、神が約束している、そう信じつつ、私たちは与えられた自分の道を旅していくのである。



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