【メッセージ】聖霊についての二重の経験

2022年6月5日

(使徒2:14,22-24,32-33,36-40)

悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう。(使徒2:38)
 
◆聖霊降臨
 
キリスト教信仰には、神の出来事としてのポイントがあります。いまそれを、十字架・復活・聖霊という三つとして押さえてみることにします。十字架と復活については、言うまでもないことです。イエス・キリストが十字架にかかり、罪の赦しを成し遂げたことを、私たちは信じています。それは復活という形で、ただの死に終わらない永遠の命、復活の命をもたらすこととなりました。神も、神の言葉も、生きているということです。
 
三つめの聖霊、これが今日の中心です。聖霊とは何か、それを共通に理解するために、先週まで、聖霊が約束されて訪れるという予告のようなものを扱ったり、それを待つ準備の段階に触れたりして、聖書の言葉に耳を傾けてきました。いよいよ今日が、エポックになる時を記念する日です。「ペンテコステ」などという、いかにもの用語を使いますが、日本語にすると「五旬節」です。ユダヤ文化で、エジプトを出るという太古の昔の、だが民族にとり限りなく大きな事件を記念する祭りが、過越祭でしたが、その50日後の祭りですから、「五旬節」です。「旬」とは十日間を表す言葉ですね。これはユダヤ文化では、麦の収穫祭でした。豊かな作物の実りを祝います。
 
いまの教会では、春の時期に特別な決まりを設けて、3月から4月の、或る日曜日を復活祭として祝います。その日から数えて50日目ですから、七週後の同じ日曜日が、この「五旬節」になります。従って、毎年5月から6月のどこかにあたります。今年2022年は、6月5日がそれに該当しました。
 
この日、ドラマチックに聖霊が降りてきた、と使徒言行録は記しています。何人いたか分かりませんが、イエスが殺されて後、弟子たちは、今度は自分たちかと怯えながら生活していました。使徒と呼ばれる弟子を筆頭として、イエスを慕う者たちが、共に集まっていたようです。
 
昔からペンテコステの礼拝では、多くの教会が、この聖霊が降りた時の話、つまり聖霊降臨の出来事を説き明かします。それも恵みですが、少しばかりひねた私は、その聖霊降臨の直後を取り上げることにしました。とはいえ、簡単に聖霊降臨の様子を扱っておくことにしましょう。
 
五旬節の祭りのために集まっていると、突然大きな音がします。すると、炎のような舌がわかれわかれに現れました。そこにいた一人ひとりの上に舌が留まります。このとき、皆が聖霊に満たされた、と使徒言行録は記します。その聖霊は、めいめい他国の言葉で何かを喋らせました。
 
物音を聞いて、周囲から多くの人がこの建物を覗きます。エルサレムは祭りの最中ですから、ユダヤの神殿を詣でる信徒が、遠い地をも含め各地から集まっていました。その人々が、聖霊を受けた集団を見て、驚きます。なんと彼らは、覗き見た人々の、故郷の言葉をめいめい喋っているではありませんか。当時知られていた、世界各地の言語がそこに飛び交っているのです。人々は、「いったい、これはどういうことなのか」と戸惑います。
 
そこで、ペトロが、使徒を代表して、人々に大声で説明を始めます。ここからが、今日お読みした聖書の箇所の場面です。
 
◆ペトロの説教
 
ペトロがかなり長く、理路整然とこの不思議な現象の弁明を語る場面は、よく「ペトロの説教」と題されて紹介されます。しかし考えてみれば、このときペトロもまた炎の舌の力を受けたばかりです。律法学者でなく、一介の漁師であったペトロが、最大3年間イエスに従った程度で、よくぞこれだけの説教が、アドリブで話せたものだと驚きます。
 
それを不自然に思うのだとしたら、この箇所は、書いた人――ルカによる福音書と同一人物と考えられていますから、これをルカだと呼ぶことにしておきます――、つまりルカが、後から物語にするために、説明をこの場面に入れた、としておけば、何の無理もないだろうと思います。この異様な現象について、教会としても、後によく考えて分析し、意味づけを行った。それをこの場面で説明して物語を描くこととなった。またそれは、教会に、信仰箇条を明確化し、教会に加わるにあたり何をすればよいのか、をきちんと掲げておくという役割も担ったのではないか。私はこのように推測します。ここに記されたことは、教会教育のために、たいへん役立つ内容だからです。
 
しかし脇道に進みすぎず、初期の教会が、どのように聖霊降臨を考えていたかということに、耳を傾けることとしましょう。
 
今日はそのために、途中をかなり省略しながら読むことにしました。省略したのは、旧約聖書を引用したところです。まずはヨエルという預言者の言葉、ここは非常に有名ですが、今日は取り上げません。次が、ダビデの詩です。ダビデ王は音楽や文学にも秀でていました。最後もダビデです。ルカは、ダビデをも「預言者」だと説明していますから、ここでは旧約聖書の預言の言葉を引用した、と言ってよいでしょう。つまり、キリスト自身が旧約聖書の約束の現れてあると共に、この聖霊降臨の出来事もまた、旧約聖書の約束に基づいているのだ、と説明しているわけです。
 
それは、いわば論文で言うならば、根拠となる書物を引用するようなものです。それを丁寧に辿ることが、もちろん記者の意図を知るための重要な方法となるはずですが、主張の中身は、引用箇所を無視して辿れば、筋道は分かりやすくなります。その効果を狙って、根拠や理由の説明を、今日は省いて読むことにしました。そうすることで、いっそう、ルカがペトロを通して伝えたかったことが、スムーズに聞こえてくるのではないかと考えたからです。細かな論拠はともかくとして、何が言いたいのだろう、何を伝えたかったのだろう、という筋道を、聞きたいと思ったのです。
 
このペトロの話を聞いていきます。そのとき、私たちは大きく二つの部分に分けてから、聞きたいと思います。まず一つめは、22節から36節、それからもう一つは、37節から40節。最初のところは、ペトロが一気呵成に語った部分です。先程の旧約聖書の預言者の言葉の引用は、すべてこの中にあります。二つめは、ペトロの話を聞いた人々の反応と、それに対するペトロの応答が記されています。
 
◆聖霊の経験(1)
 
それではまず、最初の36節までを概観します。ペトロはイスラエル人に向けて呼びかけます。しかし、聞く人たちのかなりの部分が、この前の部分で明らかなように、遠隔地に住み、ユダヤの信仰を守っています。祭りだからイスラエルに巡礼のように旅行しているのであって、住まいはばらばらです。その、ぱらばらの土地の言語が、この場所で語られているために驚いていたのです。ペトロからすれば、そして恐らくルカからすれば、外国住んでいても、この人たちは「イスラエルの信仰の中にある人たち」であることが分かります。
 
ペトロは、ナザレのイエスが特別な存在であることを主張します。イエスは、多くの奇蹟を行いました。不思議な業を行いました。これはよく知られているのだと言います。このイエスを十字架につけて殺したのは、ユダヤ人たち、あなたたちなのだ、と突きつけます。
 
あまりに堂々としていて、もしかすると身の安全が保証されない事態を招きかねない言い回しです。私なら怖くて言えません。そう、ここにくるまで、ペトロをはじめ弟子たちは、イエスの残党ということで、捕らえられて主と同じように死刑になるかもしれない、という恐怖と戦っていたのでした。つい先程まで、その思いを抱え、隠れるようにしていたところ、大きな音とともに聖霊を受けるという出来事があって、すっかり人格が変えられたかのようになりました。イエスを証しし、あなたがたが殺したのだ、と告げています。
 
このイエスは、殺されましたが、神が復活させてくださいました。イエスは死に敗北したのではないのです。この復活について、私たちは証言するのだ、とペトロは力強く言います。イエスは復活し、やがて神の許に帰り、約束の聖霊を注いでくださいました。それが、いまあなたがたが見たことの説明です。こういうわけだったのです。
 
イスラエルの人たち、あなたがたはイエスを十字架につけて殺しました。しかしこのイエスを、神は崇めるべき主、キリストとしたのです。ペトロはこうして、言いたいことを言い切った、としています。ペトロの説教は終わりました。
 
33:それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。
 
振り返ります。イエスの弟子たちが集まっていたその中へ、聖霊が降りました。あなたがたは、その音に寄せられてここを覗きました。そして、目撃しました。世界各地の言語が飛び交い、神を褒め称えています。ペトロはそれを、聖霊を受けたためにこのようになった、と説明しました。
 
イエスの弟子たちに、聖霊が注がれた。このことを、あなたがたはいま目撃している。
 
これが、あなたがたの、第一の聖霊の経験です。聖霊が不思議なことを起こしている。それをいま確かに目撃しました。聖霊の存在を、経験したのです。
 
新型コロナウイルスのニュースが流れないことのない日が、もう2年以上も続いています。すべての人が感染したわけではありません。実際私も、感染は恐らくしていないだろうと思う程度で、確証はありません。ワクチンを接種していると、症状が抑えられますから、感染してキャリアとなっていても、症状が出ないので、気づかない可能性があるからです。ですから感染していないという保証はありませんが、少なくとも感染症に苦しんでいるということはありません。
 
ではその私は、コロナ禍を経験していない、と言えるでしょうか。そんなことはありません。博多駅や天神を歩くことは、もうずいぶんありません。一定の範囲でしか行動していないのが実情です。いえ、そんな個人的な事情はどうでもよいのです。それよりも、世の中には苦しんでいる患者がいます。日常的に危険と隣り合わせで使命感だけで闘っているような、医療従事者がいます。手続きに忙殺される保健業務の関係者がいます。その方々と私が同じであるなどとは決して言えませんが、そうした人々を知り、そのために祈ることで、私もまた、コロナ禍の中にいることを知ります。コロナ禍を経験していると言っても、決して嘘にはならないだろうと思うのです。
 
聖霊に、酔ったかのようにしているイエスの弟子たちを見て、各地に散らされているなどのイスラエルの人々は、聖霊をある意味で確かに経験したのです。
 
◆聖霊の経験(2)
 
このペトロの説明に、現場に出くわしたイスラエルの人々は、怒ってもよかったのです。私だったら逆上したかもしれません。以前イエスが共にいたときには、イエスの言動に、ユダヤ人たちは憤り、石を投げて殺そうとしたり、捕まえようとしたりしました。今回も、暴動になりかねない刺激的なことをペトロは言っています。しかし、意外にも、人々はペトロの前に、下手に出ました。自分たちは、どうしたよいのか。これは、イエスをあなたがたが殺した、という指摘を、真っ向から受けてしまったということを意味します。イエスを殺してしまったではないか。もとより、遠い地方に住んでいて、この祭りのために上京した人たちに、イエスを殺した、などとぶつけても、たぶんお門違いです。基本的に関係ないでしょう。それなのに、この人たちは、殺したよね、と言われて、どうしよう、と焦っています。素直と言えば素直、不思議と言えば不思議です。
 
38:そこで、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう。
39:この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもたちにも、また、遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が招いてくださる者なら誰にでも、与えられているものなのです。」
 
これは、その時の人々にただ言いたかったというだけでなく、後の教会の洗礼や信仰についての、信仰告白のようなものを置いていることになりはしないか、と感じます。最初のほうで申し上げたように、ルカが、信徒教育も兼ねて、教義や教会に加わるために必要な知識や条文を、こうやって置いて見せたのではないか、ということです。この言行録は、そうしたテキストとしての役割が、きっとあったはずだ、と。
 
そのテキストは、私たちにも役立つものでした。たとえば、「あなたがたの子どもたちにも、また、遠くにいるすべての人にも」とあるのは慰められます。後の時代の、離れた地域にいる者たち、つまり現代の私たちも、射程に入っていることを知るからです。主が招くものなら、誰にでも与えられている約束がここにあります。なんとうれしい知らせではありませんか。この約束は、確実にいまの私たちにも届けられているのです。私たちが望めば、この主の前に出て、約束の聖霊を受けることができるというのです。
 
そのときこの聖霊は、誰のために来てくださるというのでしょう。あなたがたにも、つまり見ていたイスラエルの人たちに及びます。彼らは、もはやただの見物人ではありません。目撃者であり、証人です。ご存じでありましょうが、「証人」という言葉は、「殉教者」を意味する使い方があって、要するに証人となることは、命懸けであるということを意味していると理解できると思います。
 
イエスの弟子たちが集まって、聖霊を受けるのを目撃した。この人々は、この後、自ら聖霊を受けることになるのだという約束が、ここに与えられたのでした。ペトロが最後に付け加えたように、「邪悪なこの時代から救われ」るように、この物語を知った者は、聖霊を求め、受けるようにしなければなりません。それが「私たちは何をすべきでしょうか」という問いに対する答えになるのだと思います。
 
聖霊を経験する二つめの道は、これです。悔い改めて、イエス・キリストの何より洗礼を受け、罪の赦しを与えられることです。そうすれば、聖霊を受けることになるのです。他人が聖霊を受けているのを目撃し、それを確かなこととして証人となることが第一の経験であるならば、その聖霊を自ら受けること、その約束を信じて、信仰生活に入ることが、第二の経験である、ということになります。
 
◆聖霊とは
 
ところで、そもそもその「聖霊」とは何なのでしょうか。これまで、了解したつもりで聖霊のことを語ってきました。しかし、事はそれほど簡単ではありません。これを探究しようものなら、いまから数日間は研究会を開かなければならないでしょう。そうした仕事は学者の皆さんにお任せして、私たちは、恵みを受けるために、聖霊を思いましょう。
 
聖霊とは何か。キリスト教世界でも、いろいろな考え方があります。歴史的にも、さんざん議論されては、互いに相手を非難し合うようなこと、時に戦いに発展するようなことさえあったと思われます。ただ、この聖霊とは、何らかの人格的な交わりが可能なものであり、神と呼んでも差し支えない方である、というのは標準的なところでしょう。「霊」とは呼びますが、「物」のようには聖書では記されていないからです。
 
地上を歩み十字架にかかり復活したイエス・キリストは、「霊」と呼ぶのは憚られます。また、天地万物を支配する神は、この心の中に入るほど小さな方ではないような気もします。目に見えるような存在としてやってくるのではありませんが、確かに何か神の心が届く、また神の働きがこの私に及ぶとき、見えない霊というあり方で、神がここに来てくださった、ということを感じます。
 
ここのところ、私の精神は、壊れかけていました。叫びました。あまりに理不尽なものが、教会ごっこをしているような中に巻き込まれて、そしてそのおかしさに誰も気づかないでいることができるという、摩訶不思議な事態を経験したのです。しかし、その叫びは、神に届きました。そして神は、思わぬところから、私を助けてくださったのです。それも、望外の、手の届かないようなところから、手が差し伸べられてきたのです。求めよ、さらば与えられん、という言葉もまた、本当であることを、改めて思い知らされました。
 
神は、奇しき業により、人の心に働きかけ、事を起こすお方です。聖書にあるようなことが、現実に起こることを、私はまざまざと見ました。神は真実であるということが、力となって、魂の底からぐいぐいと起き上がり、心を支配するのを覚えました。これはまさに、聖霊の働きでありました。私の中から何かをしたのではないし、私の中で発憤して何かをしようと刺激したのでもありません。自分の中には何の力もない、ただできることを誠実にしようというだけの中で、神は確かに真実を以て応えてくださったのです。
 
聖霊はまた、私の中に知恵を与えることがあります。自分では思いつかないようなことを、教えてくれることがあります。自分ではもう怠けようとしていたところに、聖霊が来たゆえに、さらにやり遂げていくことを選ぶこともあります。多少派手に、あるいは劇的にそれがなされることもありますが、静かな感動を呼ぶごとく、穏やかに神が自分に作用するのを覚えることがよくあります。それに気づかせて戴いたことが、とてもうれしく感じられることも事実です。
 
しかし世の中には、激しく、なにかどうかしたのかと思わせるように、聖霊が降るのだ、という点を強調するグループもあります。今回の、外国の言葉を喋っていたというように、いまでもなお、外国語を突然喋り出すような体験をもつ人もいます。これを「異言」と呼ぶならば、パウロがコリント人への手紙第一で警告したようなことが、そのまま当てはまることになるでしょうが、少なくともパウロもその異言の存在を否定などしていないのですから、それがいまの時代に起こっても、別に訝しく思う必要はないと思われます。
 
37:祭りの終わりの大事な日に、イエスは立ったまま、大声で言われた。「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。
38:私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる。」
 
ヨハネによる福音書7章の中でイエスが叫んだようなことが、私たちの目の前でも起こることがある、というわけです。ただ、この表現は、もう少しシンボリックに捉えることもできるでしょう。聖霊を受けて、私が生かされるとき、私の内から、その命の水が外に出るようにして、ほかの人にも影響を与えるということは、ありうることだと思います。それは私が偉いから、などというわけではありません。私の中に来てくださった神が、あるいは聖霊が、別の人に及び、作用したということです。
 
この聖霊は、まるでただの「霊」のように見られてしまいがちですが、神のひとつのあり方だとすると、これを「神さま」「イエスさま」と呼ぶのに倣って、「聖霊さま」と呼ぶとよい、と言う人がいます。日本語として少し抵抗がありますが、言おうとしていることは理解できます。それならば「神」「イエス」「聖霊」と呼ぶことが、とくに悪いようにも思えませんので、呼び方に圧力をかけるようなことはしたくないと思います。ただ聖霊は、神と呼んでその言葉を使うのが相応しくないように思えるとき、神を呼ぶために用いられても、全く問題はないだろうと私は思っています。
 
ですから、私たちは安心して、聖霊を求めましょう。それは、ルカによる福音書が11章で、神への信頼を聖霊ということに関して、触れていることでした。
 
11:あなたがたの中に、魚を欲しがる子どもに、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
12:また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
13:このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる。
 
◆聖霊は人を変える
 
さて、今日触れた場面では、弟子たちが、聖霊が降ることで、一気に別人のような変貌した、というように描かれていました。私は、それを必ずしも一瞬の変化と決めつけなくてもよいのではないか、とも考えました。ただ、聖霊を受けると、新しい人生が始まるほどに、人間を変えることがある、というのは、確かなことだと思います。
 
この弟子たちは、すっかり変えられました。びくびくしていた弟子たちが、この出来事で変えられたのです。そして次には、堂々とイエスの証しに出かけていきます。このように、別人のように変わることができたこと、それがまさに、イエスの復活の間接的な証拠だと言ってよいのではないか、と言う人がいます。イエスの復活がもしも嘘であれば、こんなふうに弟子たちが変貌することが理解できなくなる、というのです。
 
劇的に変えられて、信仰をもつという人がいます。私などは、それが当たり前だと思っていたのですが、どうやらキリスト教会の社会では、そういうものでもないらしいことが徐々に分かってきました。私も、劇的な体験があって回心したのでなければ、信仰があるとは言えない、などとは決して思いません。ただ、信仰に入るときの事件というものがドラマチックにある、そんな人も、もちろんいるわけですし、神との「出会い」がある人には、なにかそれなりの恵みがあるのではないでしょうか。
 
いまからそのエピソードを長くお伝えすることはできなくなりましたが、淵田美津雄さんという方について、短く触れることにします。私はかつて、この人の自伝を読みました。聖霊により変えられた人が、すごい人生を歩むようになるものだということが、よく分かりました。
 
お名前だけで、お分かりの方もいただろうと思います。淵田美津雄さんは、海軍の軍人でした。1902年生まれですから、1941年当時は39歳。12月、ハワイ作戦に加わり、攻撃隊の総指揮官として、真珠湾を攻撃したその人でした。
 
1945年8月5日まで広島にいたが、それをそこを離れたために原子爆弾を浴びずに済んだという辺りも、何か導きがあったのかもしれません。戦後、極東国際軍事裁判でも大きな罪を免れ、公職追放程度で済んだのさえ、不思議な気がします。
 
戦後、宣教師のパンフレットでキリスト教に触れ、教会に通い始めます。特に「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」(ルカ23:34)の箇所で、完全に人生が変わりました。1951年に受洗し、その後幾度もアメリカに渡り伝道します。真珠湾攻撃は、アメリカにとり憎しみの対象でした。アメリカ国内が、初めて外国から攻撃を受けて基地が破壊されたのです。どれほどの憎しみか。それは、二度目に外国から攻撃を受けた事件を知る人には、お分かりだと思います。そう、ニューヨークのマンハッタンにそびえるワールドトレードセンターに、ハイジャックされた航空機が突入した、2001年のあの事件です。
 
淵田美津雄さんは、真珠湾攻撃の総指揮官であることを語り、その上でキリスト教を語りました。アメリカ人が皆キリスト教信仰をもっているわけではありません。また、信仰しいると形ばかりで言う人も少なくありません。いまの日本人で、仏教がどう扱われているかを思えば、近いものがあろうかと思います。当然、危険な目にも遭いました。しかし、和解を訴え、戦争の愚かさを語り、憎しみを止めることを、求め続けたといいます。
 
◆神を証言する
 
こんな大きな仕事ができるほどに強い体験があったということも、ひとつの神の導きであったことでしょう。けれども、あなたにも、あなたにしか証しできない、キリストとの出会いが、きっとあるだろうと思います。また、クリスチャンとしての生活が始まった後でも、あなたの目を大きく開かせ、改めて感動し、生き方をほんの少しでも変えるような出来事が、あったのではないかと思います。
 
それが、聖霊の働きだった、と申し上げると、後出しじゃんけんのように思われるでしょうか。いいえ、誰がどう思おうと、神は真実です。神はあなたを変えます。変えました。あなたがイエスを見上げたとき、イエスと出会ったとき、あなたは何らかの形で、それを変えられたに違いありません。それを、証言するのが、証しです。自分の精神遍歴を語るのが、証しではありません。身の上話ではありません。それは体験談に過ぎません。そうではなく、神があなたに何をしたのか、これを証言すること、それこそが、証しなのです。
 
私たちは、ひとの証しを聞きます。その人の上に及んだ神の真実を目撃します。それは私たちにとり、聖霊の働きを知る経験となります。
 
さらに私たちは、その聖霊が自分にも及ぶことを体験します。自らの罪を示され、救うのは神しかないこと、イエス・キリストの許にしかないことを痛感することにより、そこから救いの道が与えられます。通常ならば、そんなことの何が救いなのだ、と言われても仕方がないようなことの中に、私たちは確かな救いを覚えます。それが、私の身に及んだ聖霊の働きの証拠であり、聖霊の出来事なのです。
 
今日は、聖霊に関する、二つの経験をお伝えしました。教会や聖書についてまだ馴染んでいない方は、まず最初の経験を、今日はなさることができます。私は、そして教会に通う人々は、聖霊に確かに生かされている者たちです。これを、ご覧下さい。人間としては不完全であり、つまらないことばかりしているけれども、へこたれません。前を向きます。それでいて、さらにまた自分がひとを傷つけていることに痛みを覚え、日々凹みつつ、しかし天を見上げて歩き始めます。そんな者たちを、どうぞご覧ください。聖霊が確かに働いていることを、ご覧ください。
 
それから、もしよければ、聖霊が自分にも訪れるように、お祈りください。それは、見えない形で、もしかすると自分でも気づかない形で、やってくることでしょう。えてして、後から振り返れば、あのときに自分が変わっていたんだ、と気づくようなことがあるもので、そのときには自分で気づくことがありません。それでもよいのです。たとえばルカによる福音書の中のイエスは、11章で、こんな約束を私たちに告げていました。

13:このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる。
 
こうすればよい、というハウツーがあるわけではありません。マニュアルなど、ありません。けれども、条件というのではなしに、私たちが心構えのように、知っておくとよいことはあります。神の前に、素直な心で、自分の中にある罪を認めることです。
 
38:悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう。
 
「そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」とは書いてありますが、今日はこのように理解しておくことにします。「聖霊の賜物を受けていることに気づくでしょう」と。



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