【メッセージ】見よ。

2022年5月22日

(創世記28:10-22,マタイ28:16-20)

見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。(創世記28:15)
 
◆「見よ」の証明
 
のっけから、中学の数学の話などして、無粋ですが、失礼します。(a+b)2 を展開する乗法公式です。覚えておいでですか。(a+b)2=a2+2ab+b2 でしたね。どうして中央の項に、係数2が付くのでしょうか。最初、戸惑いませんでしたか。(a+b)(a+b) の項を順番にかけて展開していけば、この公式が導かれます。ただ、この説明方法は、実は歴史的にはかなり新しいやり方です。
 
古代エジプトでは、分数計算が発達していました。細かな計算ができ、しかも、あの巨大なピラミッドを、計算ずくで建築したのですから、なかなかの数学の知識があったはずです。ただし、エジプトでは、実用できればよいのであって、現代の私たちにつながるような「証明」には関心がなかったようです。長さが3:4:5の比で三角形をつくると、直角ができることは、経験上知っていましたが、どうしてそうなるのかを論ずる気にはなれなかったように見受けられます。
 
そこへいくと、古代ギリシアでは、なぜそうなるのか、に関心が現れました。それがやがて哲学を生み出していくことになるのですが、ピュタゴラス派が、3:4:5 から直角ができることも把握することになります。但し、古代ギリシアの数学は、まだ非常に具体的な感覚に支えられていました。近代のように抽象的になりきってしまう思考法には、まだ至っていなかったのです。そこで、具体的な図形により証明することがありました。
 
かの乗法公式の証明についても、図形を利用しました。中学校の数学の教科書にもよく載っているのですが、このような図形を描いて、証明するのです。しかも、その証明には、数式は不要です。あるのは、ただ一言。「見よ」でした。見れば分かる。説明は要らない。そういうことでした。皆さんも、見れば、納得しませんか。関心のない方、ごめんなさい。見れば分かる、というふうにだけは、認めておいてください。(参考:『数学する精神 増補版』/加藤文元/中公新書)
 
◆聖書の「見よ」
 
この「見よ」という言葉は、実は聖書にはたくさんあるのです。新共同訳聖書でも、新約聖書だけで59節に訳出されており、旧約聖書だと、398節もあります。「訳出されて」と言ったのは、実は後で言うように、訳に出していない箇所も多数あるためです。こういうわけで、ここに引用して紹介することは控えます。

これに似た効果に「聞け」というのがあると思います。こちらは、新約聖書には5節のみ、旧約聖書でもようやく100を越えるくらいでした。言うことを聞け、というのもありますが、神の言葉を聞け、というスピリットが、私にはピンときます。黙示録で1箇所だけ見られる「耳ある者は、聞け」(13:9)が、あまりに少なくて意外でした。旧約聖書でも、人が人に「聞け」と言う場面がとても多くて、神の言葉を聞け、と呼びかけるのは、幾人かの預言者が目立ちます。ただ、聖書をご存じの方は、あまりにも鮮烈ですので、次の申命記のフレーズが印象に残っているかもしれません。
 
6:4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。
6:5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
 
イエスが、最も大事だとする旧約聖書の言葉です。私もまた、「神の言葉を聞く」ということが、信仰の上でも、神との出逢いの中でも、たいへん重視すべきことだと理解していました。この聖書の「聞け」という言葉も、聴覚的に音を聞くことはもちろんのこと、「聞き従う」こと、つまり行動に移すようなダイナミックな動きを含む使い方をする語であるようです。日本語でも、「言うことを聞く」というのは、聞いて実行することを意味しています。
 
これに対して、「見よ」のほうはどうかというと、ギリシア語でも、ヘブライ語のほうでも、似たような使用法をもっているようです。もちろんそれは、視覚的に「見る」意味ももちますが、それよりもむしろ、「さあ」「そら」と、調子よく呼びかけの合図のようにしばしば使われるものであろうかと思います。実際に目で見るということに限定する必要はないようです。
 
今日お開きした、創世記のヤコブの物語にも、それは登場し手いました。
 
◆ペテルでのヤコブ
 
創世記は、天地創造からイスラエル民族の成立と言えるほどの歴史を描いています。主なる神と向き合った、アブラハムという男を「信仰の父」とし、その子イサク、さらにその子のヤコブが、古代イスラエルの重要な三代です。このヤコブは、エサウという兄に続いて双子で生まれた弟でした。生まれながらにして、エサウの足を引っ張るようなことばかりします。イスラエルでは、兄は家督相続において大きな特権をもっていましたが、母親に激愛されたヤコブは、父のイサクを騙して、その兄の権利を奪ってしまいます。
 
兄に命を狙われたとして、ヤコブは母方の親戚の許に逃げます。ここから先は、もうこれはアドベンチャーとしてもわくわくするような面白さのある物語ですから、まだご存じでない方は、ぜひ近いうちにお読み下さい。きっと大河ドラマにもなりうる内容だと思います。
 
ヤコブが、兄に殺されかねないことから、両親に送り出されて、家を出ます。目指すは、母ラケルの兄ラバンのいるハランという土地。その旅に発ってすぐ、というのが、今日の聖書の箇所でした。
 
ヤコブが、ある場所で日が暮れ、夜を過ごします。ヤコブは、枕になるものを探しますが、石しかありません。この石が、最後に、記念碑となりますから、決して小さいものではないと思いますが、とにかくこの枕にした石には、深い意味がこめられることになります。
 
その夜、ヤコブは夢を見ます。この夢の中で、ヤコブは神の命令を受けます。
 
28:12 すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。
28:13 見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。
28:14 あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。
28:15 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
 
なかなかの祝福です。ヤコブは心強く思えたことでしょう。このときヤコブは、神との出会いを体験しました。この夢は、ただの夢だとは思えなかったのです。昔は特に、夢というものは神のお告げのように捉えられていました。聖書には、この「夢」を通して、神の思いが人に伝えられる場合がたくさんあります。さらに、王が見た「夢」の意味を解き明かすという才能の有無が、物語を大きく動かすこともありました。
 
今の時代に、夢はどう扱われるでしょうか。新興宗教でも今ありそうなものですし、夢には何か意味があるのではと思うのは、現代心理学でも考えることです。白昼夢という言葉がありますが、確かに、起きている状態で、幻覚がしてあらぬものが見えるというのは、いろいろ危険なことがあるかもしれません。また、起きている状態で、声を聞くということに悩む人がいます。精神的な病気として差別されたり、気味悪がられたりもしますが、そう簡単に消えるものではないと言います。最近では、これと上手に付き合おうということで、「幻聴さん」とその声を指して付き合うというようなこともあります。
 
いったい、この夢というものは、それほど信用が置けるのでしょうか。夢は、ただの夢に過ぎないか、あるいはその人の願望や記憶が、勝手なイメージをこしらえているだけのものはないのでしょうか。
 
◆感覚を超えて
 
漢文で学習しました。「胡蝶の夢」という言葉があります。荘子という人の話です。自分が蝶になった夢を見た気がしていたが、蝶の自分が本物で、人間でいるような夢を見ているような気もして、夢と現実とが区別できなくなった、そういう故事に基づいています。これは突き詰めると、実在と観念といった問題にも絡まり、いろいろなことを考えさせてくれるテーマです。
 
しかし、単純に考えるならば、夢には感覚が伴わないから、それは現実ではない、と決める人もいるでしょう。ではその「感覚」とは何でしょう。五感に決まっている? すでにご紹介したことがありますが、「共感覚」という特殊な感覚を訴える人が多数います。たとえば音を聞くと、その固有の音に、色彩を感覚するというのです。ある言葉に、何かしら味を感覚するという人もいるそうです。五感が様々に交錯するように感じられるのですが、一説には、数十人に一人程度いるのではないか、とも言われています。
 
それで、夢に対して、何らかの感覚を有する人がいたとしても、否定し尽くせるものではないような気がします。あのヤコブの年寄り子であったヨセフは、「夢見るヨセフ」とも言われ、夢のもつ意味を説く能力があったように描かれています。後々現れたダニエルという預言者は、他人の見た夢の中まで見抜いたような物語が、聖書に載っています。
 
そこまで特殊な才能とは言えないかもしれませんが、私のような凡人でも、実は感覚が交錯していて当たり前であるかのような、言葉遣いをしています。「文章を味わう」とは、本を舐めているのとは違います。「怪しいな、臭うぞ」と、嗅覚で判断しているわけではありません。「黄色い声」とはどんな声でしょうか。「苦しむ人々の声が聞こえる」ことがありますが、聴覚ではないと思います。
 
それはメタファーに過ぎない、と言われるかもしれません。ではどうしてそれがメタファーになるのでしょうか。言葉によって導入されたかもしれませんから、文化によってもそれらは異なるかと思いますが、それであっても、私たちは後天的に、キャーキャーいうその声を、「黄色」だと、何らかの形で感覚しているに違いありません。
 
「聞く」ことが、何々ヘルツの振動数であるかによってすべて測れるわけではないと思うのです。「言うことを聞く」のは、その命令に従う、行動のことを言っていたはずです。「聞け、イスラエルよ」は、音声を聞き取れということではありませんでした。
 
だったら「見る」というのも、もちろん、視覚における出来事だけを指しているのではないと思われます。実際、光の波長の問題ではないし、こと視覚においては、「錯覚」が実に様々に起こることが確かめられています。私たちは、目で見て知覚し、認識することが実に多いものですが、その視覚は、見えるままに信じてはならない現象が、数限りなく報告されていることは、いまはご紹介できませんが、きっとご存じの方が多いことでしょう。
 
つまり何が言いたいかというと、「見る」とあるから、視覚の話なのだ、と決めつけると、世界を狭くしてしまうということです。感覚は交錯するし、誰でも感覚が入り乱れた言葉を了解しています。「見よ」という言葉が、様々な含みをもっていることを覚えたいのです。
 
◆明らかであること
 
ヤコブの夢の中に、「見よ、主が傍らに立って言われた」(13)という描写があります。さて、これは誰が誰に「見よ」と言ったのか、よく分かりません。強いて言えば、物語の著者が、読者に対して言っているのです。するとここは、先程申しましたように、「そら」というかけ声のようなものだと理解したほうが、すんなり読めます。読者に注意を促しているわけです。
 
ところが同じ夢の中で、今度は間違いなくヤコブが「見よ」と出会います。「見よ、わたしはあなたと共にいる」(15)と主自身がヤコブに対して言ったのです。これは、主の言葉の中ですから、「見よ」のまま受け止めておくことにします。
 
エサウが追いかけてきて、自分を殺すのではないか。両親から離れて生きるとなると、もう親の顔を見ることができないのではないか。行き先のラバンという人は、自分をどのように扱ってくれるだろうか。ヤコブは様々な不安の中にあります。この春から、大学生隣り、一人暮らしを始めた人もいるでしょう。心細いこと、限りないものだと思います。私も、京都に来たとき、不安を覚えました。幸い、母が何日が部屋を整えてくれたので、生活のほうは土台をこしらえてもらいました。とはいえ、料理一つしたことのないような者が、経済的理由で自炊を誓ったのですから、それからどうなるのか、未来は見えていませんでした。
 
ヤコブに、主が呼びかけた言葉、「見よ、わたしはあなたと共にいる」の「見よ」ですが、よく考えてみれば、これはやはり視覚だとは言えません。神が横にいるのを視覚的に見ていたら、ファンタジーです。「見よ」が「そら」だとしても矛盾はないと思いますが、やはりこの「見よ」は、ギリシア語であることから、最初にご紹介した、数学の証明に関与させて捉えてみようかと思います。
 
ギリシア語の図形の証明での「見よ」は、もちろん視覚的な「見よ」のことです。けれども、英語の見るの「see」が、同時に「分かる」をも意味しうるように、この「見よ」も、分かることを含んでいると思えますし、さらに言えば、「見れば分かる」という含みを鑑みて、「これは明らかなことだ」というメッセージを伝えていたのではないでしょうか。この図形を見よ、明らかであろう、と言いたいのだとすれば、「見よ、わたしはあなたと共にいる」は、「明らかなことだ、主はヤコブと共にいる」という事実を突きつけていたことになりはしないでしょうか。そして、「共にいる」のほかにも、明らかなことがここに並んでいるのでした。
 
28:15 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。
 
主が何をするか、ここから三つピックアップしましょう。「共にいる」「守る」「見捨てない」が、私には強く響いてきたのです。これらは、ねちねちと理屈で説明する必要はありません。端的に、明らかに、神は私と共にいて、私を守り、私を見捨てないと知ったのです。
 
ヤコブは人を出し抜くなど、人の気持ちを解せず、我が強い人間である印象を与えます。与えられた知恵を、自分のためにだけ使えばよいと考えているようにも見えます。それでいて、いざ独りになると不安でたまりません。ひどく臆病です。私には、このような性格が身近に感じます。自分を見ているかのようです。ヤコブと同様臆病を覚えたときに、神はこの言葉を私にも与えてくれました。それも、私が何かをしたからとか、何々がどれそれであったからとか、説明めいたものは何ひとつそこに必要がありませんでした。証明も理屈も要らない。ただ「見よ」、つまり「明らかだ」、それだけでいい。確かに主は、あなたと共にいて、あなたを守り、あなたを見捨てない、今日はここを、心の支えとしてお伝えしようと思いました。
 
◆大宣教命令
 
さて、今日はもうひとつ、新約聖書からも言葉を聞きます。教会暦でいうと、今週「昇天日」というものがあります。これはルカによる福音書に基づくのですが、復活のイエスがしばらく弟子たちに大切なことを伝えた後、復活から40日目に、その姿が天に消えていった、という記事に基づきます。このファンタジー的な場面こそ描いてはいませんが、マタイによる福音書の中にも、この「昇天日」に関係しているであろうと思われる記事がありました。
 
ユダが死んだために、イエスの十二弟子は、いま11人です。山というのは、恐らく低い丘のようなものだろうと推測しますが、そこで弟子たちはイエスに会い、ひれ伏します。トマスでありましょうが、疑う者もいたとかすかに触れられています。
 
28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
 
これは、よく「大宣教命令」と言われ、イエスが弟子たちに託したミッションがまとめられていると理解されています。私たちがキリストの弟子を継承するならば、これを自分に対するものとして受け止めなければならない、という、よきまとめです。父と子と聖霊の、いわゆる三位一体の根拠のひとつでもあると言われていますが、そこに関わると、神学の議論に走ってしまいます。それは神学者の講演会にお任せして、最後の節にいま注目しましょう。
 
28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
 
「あなたがたと共にいる」については、実際、どのようにして共にいるのだ、と懐疑的な人々が意地悪く迫ってくるかもしれません。そうです。「神が存在するなら、神を見せてみろ。見せたら信じるぞ」というような台詞は、実際ありうるものでしょう。「神の声を聞いたなどというのは嘘だ。神の声を本当に聞いたなら、それは幻聴だ」というのもあったかもしれません。こういう問いかけに、たじろがないでしょうか。「共にいる」とはどういうことか。幻想に騙されているのではないか。
 
これに対しては、たとえば「共にいる」という感覚も、何か共感覚のようなもので、触覚的なものに限られない、というように答えるのはどうでしょう。
 
先程ヤコブの不安な心を強くしたものも、神が「共にいる」という神からの言葉でした。11人の弟子たちを強くしたのも、神が「共にいる」というイエスの言葉でした。ただ、今日のテーマである「見よ」は、ヤコブの場合にはありましたが、マタイのほうでは見られません。
 
いえ、そうではないのです。実はマタイのこのラストにも、「見よ」があるのです。
 
28:20 わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。
 
これは、新改訳聖書2017です。「見よ」という言葉があります。つまり、ギリシア語本文には、「見よ」という語が、確かにあるのです。それを、新共同訳は、訳出しませんでした。それどころか、新しい聖書協会共同訳でも、「見よ」はここには見られません。それどころか、聖書協会共同訳は、先のヤコブのところにあった二つの「見よ」も、訳していません。言い分はあるのでしょうが、あるはずの語を、ないかのように扱ったということについては、聖書を信頼する信者の期待を裏切っているようにも思えます。ただの合いの手だとして、不要だと判断したのなら、今日の私のお話は、すべて不要だったことになってしまいます。
 
◆神の家
 
見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。復活のイエスが弟子たちに伝えたことは、これでした。「見よ」は、「明らかだ」という力強い宣言として受け止めるべきだ、と私たちは理解しました。弟子たちは、まだびくびくした心持ちであったことでしょうが、力づけられたのだろうと思います。イエスが共にいるという「あなたがた」は、この場面では、もちろん弟子たちです。しかし、聖書はいつでも、いま読んでいる人を、つまり私を、その中に連れて行く力をもっています。それは信じたときにそうなるのですが、いまここにいる私と共に、世の終わりまで、イエスがいてくださるということを意味しています。しかも「見よ」ですから、事実そうなること、それに神が保証をしてくださっているように受け止めるべきです。私たちはそれを「信頼」できるのです。
 
しかし、「見よ」と言われて、こちらが見ることがなければ、神の言葉は空回りとなります。イエスがあなたに「見よ」と投げかけました。あなたは、それに応えましたでしょうか。神を信じるというのは、神からのこの問いかけに、応えることだと私は思います。ただ人間が一方的に何かを信じるのではなく、神がイニシアチブをとる問いかけに対して、応答するというイメージです。
 
「信じる」とは、神が存在するか・しないか、というレベルの関心を表すものではありません。確かにあなたが、神と出会い、神と関係ができること、神との結びつきが与えられることを意味します。しかもそれは、あなたのほうからその神との関係を切るようなことさえなければ、いつまでも神は共にいる、そういうありがたい関係です。イエスの言葉は、力強く、私に迫ってきます。
 
「見よ」、世の終わりまで、いついかなる時も、イエスは私と共にいる。この力強いイメージが、マタイによる福音書の大切なイメージです。福音書の最初の章で、すでにそれが約束されていました。
 
1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
 
神は共におられる。イエスが実際に、生活の中で、「インマヌエル」と名を呼ばれることはありませんでした。しかし、イエスと共に神がいることを、常に示していたことは間違いないでしょう。福音書は、そういう歩みを私たちに見せてくれました。また、イエスと共に神がいるのみならず、この福音書を読む読者もまた、神が共にずっといるということを、アピールしてきたのだと私は思っています。福音書の最初から最後まで貫かれたこのポリシーは、それを抜きにしてこのマタイによる福音書を読むことがありえないほどの、重要なテーマであるはずです。
 
このマタイ伝のテーマは、創世記からのみ生まれたのではないとは思います。けれども、創世記のヤコブの物語の中に、間違いなくそれは根ざしていました。もう一度創世記のその箇所を味わいましょう。
 
28:15 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。
 
力強い神の約束を、新約を経た私たちもまた、同じように聞くことができるのは、幸いです。ただ、最後に、少しだけ気になる点を取り上げることにします。連れ帰る「この土地」とはどこなのでしょう。「ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった」(10)という「ベエル・シェバ」は死海の南端の西、そこから向かう「ハラン」は、そこから750kmほど北北東に進んだ地です。その「とある場所に来たとき」に一夜を過ごした地で、夢を見たのですが、そこを「ベテル」と名づけています。「ベテル」は、その過程の4分の1ほどの場所で、死海とガリラヤ湖の間だと言える場所と考えられています。
 
いえ、地理的な問題ではない、としましょう。名前です。「ベテル」は「神の家(ベト・エル)」という意味をもつ言葉です。「必ず神の家に連れ帰る」という意味で、神の言葉が響きます。神が共におられ、神の家に連れ帰る。ああ、それは神の国に導くことのように聞こえないでしょうか。なんと力強い約束なのでしょうか。なんと慰めに満ちた言葉なのでしょうか。
 
この約束を見捨てない、と告げた神の言葉、いつも共にいると告げたイエスの言葉、私たちは、さらに聖書の言葉を信頼し、握りしめて、ここから立ち上がって歩き始めましょう。力強い約束を、今日握りしめましょう。「見よ、わたしはあなたと共にいる」のです。



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