私の4630万円
2022年5月20日
世間は、4630万円の話題でもちきりである。「山口県阿武町が新型コロナ対策の臨時特別給付金4630万円を誤送金したと知りながら、別口座に移し替え不法に利益を得た」若い男に対して、ついに逮捕状が出たのである。
ある日、通帳に数千万円が振り込んであるのを知った。これは儲けものだ。もう自分のものだ。好きに使っていいはず。間違いだったとしても、振り込んだほうが悪い。
報道も捜査もよく分からない。全部使ったという弁解だったが、事実どうだったのかなど、事件についてあれこれ言おうとするつもりはない。弁護士ではないから、容疑者の弁護をしようなどとも思わない。ただ、私が関心を持ったのは、テレビで、ある芸能人が、いわゆるコメンテーターとしてだろうが、この事件について発言したことに、世間の反応があったという点についてである。
この人は、当然容疑者について、したことをよいなどとは言っていない。ただ、逮捕以後実名が出たわけだが、ネットでは「その前から実名含めたプライバシーの情報が出回って」いたのだと指摘。それはいわゆる「デジタルタトゥーという見方で言うと、強烈に残ってしまう」だろうと述べたのだという。
その上でさらに、「もちろん勝手にお金を動かしたのは悪い」としながらも、「でもひとつの役所のミスがきっかけでひとりの若者の人生がめちゃくちゃになってしまうという見方もしてしまう」という考えを話したのだという。
視聴者は、ここにナーバスになった。もちろん一部の人々ではあるのだが、ネットにおいて、「すぐに返せばよかっただけの話」「どこの同情の余地があるの?」「すぐ返せば済んだんだから自業自得」「自分で自分の人生を狂わせたんだよ」「ミスと他人のお金を使った人間の話を一緒にしちゃダメ」との反応が多く見られたのだという。
問題点は、いくつかある。まず、ひとたび「炎上」すると、ネット界ではよってたかって、吊し上げが始まるということ。だが、「ネットいじめ」の問題を通じて、匿名であったり、気楽に叩ける情況であったり、ネットにおける「正義」の怖さということも、少しずつ知られるようになった。そもそも容疑者の実名が、逮捕に先立ち、ネットに明らかにされていたということ、これもまた、非常に問題のある事態である。このようなことで、自死をした人がいたという報道は、少しも教訓になっていないことが露呈した。「正義」の旗の下では、何をしてもよいという風は吹き止まない。
もうひとつ、役所のミスが人の運命を左右したことを忘れてはならないと、この人が指摘した点である。どんな理由であれ、ミスにより誤った額を送金してしまったことが、すべての発端であった。その人というのが、寄りによって、悪い相手だったというのも本当だが、その悪い行いだけが、唯一悪であるかのように、世間は攻撃してきたのである。
私は、この芸能人が、ひとつの視点を出したことには、意味があると考えている。もちろんその人は、弁護したとまでは言えない。また、ミスをしたほうが悪いなどと言っているのでもない。それでいて、忘れがちな別の視点を提供したのである。特に、「役所のミスがきっかけでひとりの若者の人生が」という観点を、多くの人が忘れていたというのは、検討に値するし、また、どこかで弁えていなければならないはずだ、と私は考えるものである。
ばかな。こんな非常識な奴は、どこまでも非難しなければならない。悪は悪だ。自分で責任を取らないといけないし、返金は当たり前だ。役所がミスをしたといっても、やったのは本人だ。何を同情する必要があろうか。――こんな声が聞こえてきそうである。その気持ちも分かる。だが、少なくとも私は、その声にそのままのっかることはできない。
私も、別の視点をもっている。買物をしてレジでおつりを渡される。と、百円多い。こんなことはないだろうか。さあ、どうする。「おつり、多かったですよ」と返すのも、ひとつ。しかし、「まあ百円くらい、気づかんかったことにしとけば、問題はないやろ」と、そのままにするのも、ひとつ。後者の場合は、「いまからレジに戻って返しても、却って忙しくしてしまうし、次の客にも悪いしな」などと言い訳を考えることもあるだろう。
経験はないだろうか。私は、ある。あるから、この心情もよく分かる。
もしもだが、後から、その店でいろいろ調査したと言って、おつりが百円多かったのを、あなたは取得してしまいましたね、と捜査が及んだら、どうだろうか。返せないはずはないだろうが、これは罪ですよ、と迫られたとすると、どう感じるだろうか。
ありえない。4000万以上の額と、百円とをいっしょにするな。確かに、その通りだ。では、いくら以下ならば、問題にならないのだろう。給与明細の額が、どうやら一万円多いらしい、さあ、会社に返すだろうか。人により、判断はいろいろだろう。ヨブのように、すべてにわたり潔白を主張する人もいるだろうことは予想する。立派なことである。だが、会社のボールペンを持ち帰ったり、会社の電気を使いスマホの充電をしたりすることは、大したことはないと思う人は、いるのではないか。電気については、窃盗罪の判例があることを、法学の講義で聞いた人もいよう。また、会社の通勤定期券を、通勤でないときに使うことはできない、というクリスチャンの話を、三浦綾子さんが紹介したことがある。
キリスト者は、聖書を読んでいる。何やら難しい神学論争を勉強して、聖書の深い理解をしたつもりになっている人もいるだろう。だが思い起こせば、私なども、初めて聖書を読み始めたとき、マタイ伝の山上の説教に、胸を刺された。
しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。(マタイ5:22)
普通にやっているようなことに対して、なんと厳しい罰が待ち受けているというのだろう。
しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。(マタイ5:28)
これは、特に若い男性にとっては、実に厳しい脅しである。いや、若いかどうかには関係がない。セクハラが、加害当人にとっては存在せず、被害当人にとって重くのしかかるという現実がある以上、いくらでもあるに違いない。
私は、百円をごまかした自分も、この容疑者と、殆ど違いがないのだ、と思っている。それが、聖書から、私が与えられた視点である。