【メッセージ】いかすことば

2022年5月15日

(詩編119:50)

あなたの仰せが私を生かす。
これこそが、この苦しみの中の慰めです。 (詩編119:50・聖書協会共同訳)
 
◆沖縄本土復帰50年
 
太平洋戦争後、沖縄はアメリカの統治下にありました。琉球政府という形をとり、自治権はありましたが、アメリカはその決定を破棄する権限をもっておりましたので、アメリカの意向に逆らうことはできませんでした。朝鮮戦争やベトナム戦争において、沖縄は重要な役割を担わされます。しかし米軍関係の事故や事件が多発し、県民の不満が増大したこともあり、日本への復帰の声が強くなります。それでも、沖縄側でも、日本政府側でも、復帰への賛否が二分されていました。表向きは、コザ騒動という、米軍兵の起こした事故からの暴動が大きな影響を与えたと言われていますが、政治的には二重三重の絡みがあったようで、日本政府は、対価の支払いを伴いつつ、ついに沖縄が日本に返還されることとなりました。その記念式典が1972年5月15日に行われ、沖縄の復帰が実現します。ちょうど50年前の今日のことでした。
 
沖縄の人、つまりウチナーではなく、ヤマトの人間である私が、偉そうに言うつもりはありません。分かったような口を利こうとは思いません。何も分かってはいないのです。沖縄を思いながら「島唄」をつくった THE BOOM の宮沢和史も、沖縄音楽のまねごとに過ぎない、と沖縄から当初激しい反発をくらったほどです。それも当然だろうと思いますし、だったらなおさら、ヤマトの私が沖縄に「寄り添う」だなどと言ったら、失礼千万なことでしかないとは弁えております。
 
ただ、沖縄に対して、加害者としての意識で臨むのであれば、少しは話すことを許して戴けるでしょうか。太平洋戦争において、沖縄を「捨て石」扱いし、悲惨な目に遭わせ、皇民化教育を以て沖縄の人々を無残な死へと追い詰めた国の人間なのだ、という意識から、私は離れることができません。
 
沖縄についてこうしたことを知ったのは、私が成人してからのことでしたが、新婚旅行で沖縄を選んだのは、戦跡や資料館を訪れるという目的があってのことでした。当時は沖縄戦についての本が手近にはあまり手に入らなかったので、沖縄で直に買い求めました。教会でも、沖縄戦のことをレポートして紹介しました。
 
それから後、5月15日よりも、実は4月28日のもつ意味のほうが、沖縄の人々にとって大きいのだということも知りました。いわゆる「屈辱の日」です。サンフランシスコ平和条約発効により、沖縄が日本から法的に明確に切り離されて、今年で70年でした。
 
基地問題も、その後解決されたとは言えません。自然を破壊することに近年のヤマトの政府が強圧的に実行に至ったことにも、責任を感じます。でも、繰り返しますが、分かったような口を利くつもりはありません。ささやかに祈るばかりです。映画「小さな恋のうた」(2019)を見ましたが、米軍基地に住む少女に届ける歌として、MONGOL800の名曲を、若い俳優たちが大変な努力をして演奏していたのを、頼もしく思っている、というくらいが、私にはちょうどよい位置なのだろうと思います。
 
NHKのいわゆる朝ドラも、この4月から、沖縄を舞台にした物語が始まりました。沖縄の復帰の前後を描く物語は、やはりこの復帰から半世紀という節目を意識してのことに違いなく、ここのところ、深夜を中心に、多くの特別番組が放送されました。録画して、少しずつ視聴しているところです。
 
◆イスラエルと沖縄
 
沖縄戦こそ、私には強烈な歴史でした。それまでは、原爆が戦争で最も悲惨な出来事だという印象が与えられていましたが、一瞬の原爆もさることながら、ねちねちと死がにじり寄ってくる沖縄戦の惨さは、私にとり、さらに痛ましいものにすら思えました。
 
沖縄戦についていま語り始めると、それだけで一時間を越えてしまいそうです。それは礼拝の場では控えます。ただ、触れておくと、日本人のものの考え方や傾向性について、いろいろと努めて理解しようとしているのも、この沖縄戦へ至るまでの人間のしたこと、考えたことへの関心からです。それだけは説明させてもらった上で、ここからイスラエルの歴史と沖縄とを少し重ねながら見つめてみたいと思います。
 
沖縄は、戦争で徹底的に破壊され、人々が殺害されました。沖縄の考え方として有名になった「ぬちどぅ宝」ですが、それに反する思想を送り込まれて、天皇のために死ねという力に狂わされていきました。沖縄は、日本や中国の間にあり、アメリカからするとソ連(ロシア)を警戒するための重要な位置にあります。大国の交通の要所に位置しています。
 
イスラエルも、これと似たような環境にありました。エジプトとバビロニアやペルシアといった大国の緊張関係の中で、中央の交通の要所に位置していましたので、政治的駆け引きの中で、弱小国イスラエルは常に危険な中にありました。あのバビロン捕囚のように、国外に要人がごっそり連れ去られるようなことも何度かあり、神殿もそのとき破壊されてしまいました。異教の民族に荒らされたのは事実ですが、旧約聖書は、イスラエル内部に、外国の宗教がはびこっていたことが、この惨めな亡国の原因だと指摘しています。
 
連れ去られたイスラエルの要人たちは、数十年後にペルシア支配の世になり、寛容政策によって、イスラエルの地に戻ることを許されました。人々は、神殿再建を図りました。いろいろな妨害に悩まされながらも、以前より小さいとはいえ、城壁や神殿が再建されたことで、人々は号泣したと記録されています。しかしまた、やがてローマ帝国の支配下に入り、うまく立ち回ったヘロデが王としてこの地を治めますが、それがローマの傀儡政権であったことは、言うまでもありません。
 
沖縄は、半世紀前に日本に復帰したわけですけれども、もともと琉球王国だったこの地が、清との間に政治的軍事的な緊張を絡めながら、琉球藩から沖縄県へと明治政府により強行的に決められた過程がありました。いわゆる「琉球処分」です。先日放送された、NHKの番組で、俳優の北村一輝さんの祖先に琉球王国の役人がいたことが紹介されていました。その人は、琉球処分に反対して、清に助けを求めようとして日本政府に逮捕されたものの、少しも怯むことがなかったというエピソードを聞いて、私は感動しました。
 
琉球処分の結果は、最終的には、日清戦争により沖縄の位置が日本側に安定することになりましたが、果たして日本の一部となったことが、手放しで良かったのかどうか、それは私には判断できません。
 
その後、沖縄戦を経てアメリカの支配下に置かれ、20年後に再び日本に復帰する。ウチナーにとり、これは一体何であったのか、当の方々に耳を傾けたいし、思いを馳せたいと思います。
 
◆比嘉佳代さん
 
ここで、ある沖縄の方をご紹介します。勝手に個人のことを持ち出すことに、デリケートでありたいと思う上に、ご本人の許可を得たわけでもありません。もちろん、私が個人的に知る方でもありません。ですから、ウェブサイトに公表してある点についてだけ、お伝えしたいと思います。
 
「株式会社おきなわedu学童保育あんじな」を創業したのが、比嘉佳代さん。放課後等デイサービスや多機能事業所、学童保育、保育園まで事業が拡大しています。
 
かつて仕事で活発に働いていたとき、第二子を身ごもります。出生前診断で、お子さんがある病気をもっていることが分かりました。産んだ後、障がいのある子の母親は、以前のように仕事ができないと言われ、なんとか子育てと仕事を両立させたいと考えます。そこで、ある人のアドバイスをヒントにして、以前のような会社勤めではなく、独立して働くことを決意します。
 
そこから経営を学ぶと、その学びの場で、同じように障がい児をもつ母親たちとの出会いがありました。事は運び、それから2か月後にはもう会社を立ち上げています。学童保育園「あんじな」です。安心な場所という意味を表す名前なのだそうです。
 
それから数年のうちに、先程挙げましたような、放課後デイサービスや保育園を始めるに至りました。大人に理解されず暴力という形で自分を表すしかなかった子にも、感情で叱るようなことをせず、徐々に心を開くように導きます。子どもの話を聞くということに気持ちを傾け、一人ひとりとの信頼関係を作ることを大切にしているのだそうです。
 
職員とも十分なコミュニケーションを図り、生き生きと働く職場となっているとの記事がありました。福祉関係の仕事とはいえ、自分を捨てて働くのではなく、まずは自分自身を大切にできるような職場であるべきだ、という比嘉さんの気持ちは、確実に実を結んでいるようです。
 
私はこうした記事を見て、これは教会が目指すものではないかしら、と思わされました。そして、私の経験した多くの教会が、そう望みながらも、それに反することに夢中になり、どんどんいつの間にか違う方向に転がっていってしまったことに、歯痒さを覚えたことを、思い起こしました。教会が、いくら神の言葉に従うなどと口にしながらも、神の言葉を人間の原理によって操っていたのでは、逆に世の中に迷惑ですらある非常識を、正当化してしまいます。比嘉さんのような、地の塩として働いているような人々の姿から、もっと学んで然るべきではないだろうか、と常々思っています。
 
◆琉球新聞のコラム
 
さて、この比嘉さんについて調べたのは、実は、「琉球新聞」のコラムを最近読んだためでした。私は毎日、いくつかの新聞の社説やコラムに目を通しています。琉球新聞もそのひとつですが、記者ではないゲストのコラムのコーナーがあります。「南風」というそのコラムは、いつも優れた視点を提供していると思います。4月30日にあったその文章に、私は心を捕らえられました。しばらくの間、それをそのままお読みすることにします。琉球新報の方、著作権の問題がありましたら、どうぞご指摘ください。引用部分を削除しますので。
 
 
<南風>人は見たいように見る  2022年4月30日【琉球新報】
 
 ロシアのウクライナ侵略で、心を痛めている人は多いのではないか。直接的に戦争を知らない私たち世代は、遠い国で始まった争いに、感情を押し殺しがちである。コロナ禍で、日々の暮らしをこなすため、自分の心や誰かを守るため、何が正しくて、何が間違っているか考える間もないくらい、必死に生きているのではないか。
 
 いつの時代も争いが起きる時、人は自分が正しいと感じている。自分を愛し、自分は価値ある存在だと感じられることは大切なことである。会社でも国家でも、自信と誇りを持つことは良いことであり、健康的な自己愛は、自分だけでなく、周囲の価値も高めるものである。自分(自分の会社や生まれた国)を愛し、そして他の人(会社、国家)を尊重することにつながる。
 
 ところが、不健康な自己愛傾向は、自分には価値があるが、周囲の人には価値がないと感じる。この自己愛傾向が強いと、相手の態度への評価がゆがみ、常識の範囲内のクレームや、許せるほどの小さな出来事も、ひどい侮辱や、とんでもない出来事と感じてしまうようだ。そのため、自分の怒りや攻撃も、正当なものだと感じてしまう。そして争いが起きてしまう。
 
 「人は見たいように見、聞きたいように聞き、信じたいように信じる」。昔好きだったドラマ(注「リーガルハイ」2012)の主人公のせりふである。自分の思想が偏りそうになった時、あるいは偏ったと自覚した時、原点に立ち返るために私にとって必要な言葉である。
 
 人は何より「自分は中庸である。自分には正当性がある」と思い込んでいる時が一番危険である。自分の考えに批判的であることは、労力を使うが、それ以上に重要なことである。自分で気づかずに掛けた色眼鏡を外すことができてはじめて、自分を変えることができるのであり、大切な行動だと肝に銘じている。(比嘉佳代、おきなわedu代表取締役)
 
 
少しばかりつながりが悪く分かりづらいところはありますが、触れていることについては、大いに共感を覚えます。争いは、自分が正しいと思い込んでいる故に起こる。自分を愛することは大切だが、自分だけを愛するようになると、相手が悪い一方になり、自分の怒りや攻撃は正義と考えるようになる。人間の認識は、必ずしも客観的ではなく、主観を根拠に正義を断定してしまうことがある。それが主観に過ぎないと気づくことができるようでありたい――こうしたことを伝えたいのだろうと推測します。
 
このような自己義認は、自分で自分を正義と決め、相手を悪と決める。互いにこれをやってしまったために、対立は争い、そして戦争に展開する。それは、相手を殺し、自分をも殺すことになってしまうでしょう。聖書をたとえ読んでいても、キリスト者が、相も変わらずこれを繰り返しています。自分が王様になると、互いに殺し合うようになるのです。自分が正しい、という思いから逃れられなくなるからです。
 
◆詩編119編
 
さて、そろそろ聖書の話をしなければ、開いた意味がなくなりそうです。今日は、ひとつの節だけを取り上げました。旧約聖書の詩編119:50です。詩編で50節という数字だけでも「おや」と思いますが、この詩編119編は、全部で176節あり、ひとつの詩を1章と見なすと、聖書の中でも最も長い章だと思われます。8節から成る連の中の節すべてが、ヘブライ語のアルファベット順の文字で始まるようにつくられており、非常に技巧的な構成になっていますが、これは詩編ではよくあることです。
 
ヘブライ語アルファベットは22文字ありますから、8×22=176節が並ぶことになります。その殆どすべての節の中に、「神の言葉」を意味する語が盛り込まれているという点でも知られています。律法・定め・命令・掟・戒め……といったように、語は入れ替えられますが、この詩がこうした神からの言葉を中心に、延々と続いていることは、間違いありません。
 
神の言葉が、イスラエルの民に与えられました。これを人々はどのように受け止め、これに対してどのように応えるのか、一貫してそれを聞いていくことになりそうです。そうなると、キリスト者が聖書を読むという営みと、この詩の詩人の置かれた姿というものが、重なって見えてくるような気がします。
 
聖書、お読みですか。キリスト者は、毎日聖書を読むべきだ、というように、洗礼を受けたときには指導されるのではないでしょうか。最初は励んでいたとしても、そのうち「忙しい」「暇がない」などを口実に、だんだん遠ざかっていくというのが、ありがちな話です。でも、なんだかそれを義務化してしまうのもどうでしょう。読めない日があったら、まるで罪であるかのように追い詰める必要はないだろうと思います。
 
京都の母教会の牧師が、時折打ち明けて言うのでした。神学校時代、毎日聖書を読むようにと言われた。しんどいときには1日1章でいい、と言われたが、それでも辛いときがあった。そこで、気がついた。1日1章読めばよいのだ、と。この神学生は、好んで連日詩編117編を読んだのでした。
 
117:1 すべての国よ、主を賛美せよ。
すべての民よ、主をほめたたえよ。
117:2 主の慈しみとまことはとこしえに
わたしたちを超えて力強い。
ハレルヤ。
 
わずか2節、最も短い詩編です。ところがこの詩の次の次になると、この広大な詩編119編が控えていますから、順番に進むとえらいことになっただろうと思われます。  
◆119:50
 
それでは今日、覚えて戴きたいくらい短い、1節分を改めてお読みします。
 
119:50 あなたの仰せはわたしに命を得させるでしょう。
苦しみの中でもそれに力づけられます。
 
いい響きだとお感じになりませんか。主の日に聞く聖書の言葉は、こうありたいと思います。勇気と力が与えられるような言葉です。以前、説教の終わりにこのような意味のことを祈る牧師がいました。「この聖書から、1週間分の力を与えてください」と。そう、たいそう激しい感動でなくてもよいのです。ただ、集まる人々の中には、過ぎる1週間を、世での戦い、仕事や学業などで疲弊した後に、やっとのことでふらふらと教会の礼拝に来ている人もいます。その人が、聖書の言葉をこの礼拝で受けて、それを握りしめ、立ち上がり、1週間歩める力を与えられるとしたなら、それはなによりありがたいことではないでしょうか。それを求めて、よろめきながらでも、教会に行くのです。きっと、神の言葉を与えられるから、と。
 
礼拝説教を語る者は、その人のために語る者でもあるはずです。そのことに全く気づかないようなタイプの語り手もいます。聖書も神の力も信じないのではないかと案じます。または、人間愛が欠けているのかもしれません。私もこうして聖書の言葉を語る以上、そのような者でないようにと願いながら、お話ししています。
 
この詩編119:50は、新共同訳から引きましたが、その後継としての、一番新しい、聖書協会共同訳もご紹介しましょう。
 
119:50 あなたの仰せが私を生かす。
これこそが、この苦しみの中の慰めです。【聖書協会共同訳】
 
「命を得させる」が「生かす」に変わっていました。「力づけられる」が「慰め」に変化しています。原文は、だいたい次のように語が並んでいます。
 
これは私の慰め、苦悩の中での。
なぜか(いつか)というと、あなたの言葉が、私を生かした(必ず生かす)。
 
今回は、この聖書協会共同訳のほうで覚えてくださったらと願います。引き締まり、ストレートで心に留りやすいような気がしますので。もう一度お読みしましょう。
 
119:50 あなたの仰せが私を生かす。
これこそが、この苦しみの中の慰めです。【聖書協会共同訳】
 
それで、この「生かす」という言葉について、空知太栄光キリスト教会の銘形秀則(Hidenori Meigata)牧師の解説の力を借りて、エッセンスをお伝えすることにします。
 
その解説によると、この詩編119編では、「生かしてください」という使い方は何度もありますが、「生かす」と言い切っているところはここだけなのだそうです。また、「慰め」という語も、感傷的なものではなく、もっと力強い励ましを含んでいる語だそうで、だから新共同訳の「力づけられます」も、なかなか良い訳だということになりそうです。また、ここで「仰せ」と訳されている語は、「約束」をイメージさせる語でもあるのだそうで、「神の約束が私を生かすのだ」という強い信仰を表しているように受け止めることができます。まるで、弱った植物に水をやるとしゃきっとなるような様子を想像させる表現だというような説明を、私は学ぶことができました。
 
◆ひとを生かす言葉
 
そうです。神の言葉は、ひとを生かすのです。聖書の言葉はひとを生かす。これが私の根柢にある信仰でもあります。
 
聖書の言葉は、暗誦すべきだ、と言われます。何かの時に、その言葉が心に呼びかけてきて、神の助けを経験することができる、というような意味も説かれることがありました。そういうわけで、教会で、暗誦聖句大会が開かれていたこともありました。私は暗記が苦手なので、聖書の言葉を歌詞にしてつくった歌を歌った事がありました。少し暗誦の趣旨からは外れたとは思いますが、聖書の言葉どおりを歌うというのは、ひとつのよい道ではないでしょうか。
 
宗教改革の中心人物であるルターは、自作の賛美歌の歌詞をいくつも書きましたが、もう一人の中心人物たるカルヴァンは、それをむしろ否定し、詩編をそのまま歌うということをモットーとしました。これだと、確かに聖書の言葉を、そのまま心によく収めることができるでしょう。
 
聖書の言葉だけあれば、それでよいのか。よいときもありますが、意味を知りたいとも思います。説明が求められるのは当然です。けれども、それは言うほど簡単なことではありません。聖書の言葉の意味は、たかが人間には、その全貌が分かるはずがないのです。そう考えることが、神を信じることのひとつの条件であるように私は思うのですが、とにかく、聖書のこれはこういう意味です、と断定してしまうことは、私は好みません。人間には究極的にはできないと考えるからです。神の心が、誰かの説明で簡単に解明できるような代物であったら、私は、そんな聖書の言葉を信じる価値などない、とすら思います。
 
意味の全貌も、神の心の全体も、私には分からない。分からないけれども、私はその言葉で救われた。そして、多くの同じような仲間たちがいて、神の言葉により、絶望から救われ、立ち上がり、喜びの光を受けて生きている。生かされている。このような構図で十分なのだろうと思っています。
 
それは聖書の間違った解釈だ、という指摘を、その人にしたところで、その人が生き生きと神に従って生きているのだとしたら、それこそが、神がその人を命に生かすための道であった、とさえ思うのです。但し、その人が、聖書の意味は自分の信じたとおりの意味だけなのです、と他人に話し始めたら、それはまた別問題です。聖書の言葉が、そのひとを生かすという事実があればよいのであって、他人の考えを否定したり踏みにじったりする必要は、どこにもないわけです。
 
ただ、誤解なさらないで戴きたいことがあります。高々人間である私が、誰かを助けようとして、どんな情況でも、聖書の言葉を投げかけることが必要だ、と申し上げているわけではないということです。聖書の言葉がひとを生かすのは真実であっても、どんな場合でも聖書の言葉を人に語ればよいのではないだろう、と思うからです。聖書の言葉だけを、何ら命と愛のないままに、形式的にぶつけても、それは時に、ひとの心を傷つける刃ともなりうるのです。
 
あの人には何かある、そう思われるという経験が、多くのクリスチャンの口から語られます。それで、どうしてあなたは、と尋ねられたときに初めて、自分はクリスチャンだと打ち明け、聖書のことを話した、というような出来事が多く聞かれます。弱々しい伝道のように見えるかもしれませんが、私はすばらしいと思います。また、真実がそこにあると感じます。イエス・キリストを証ししましょう、というような単純な呼びかけは、さも信仰に基づくことのように見えながらも、実はとても底の浅い、時に無責任な号令である場合があることに、気をつけたほうがよいでしょう。
 
聖書の言葉は、それを信じるようになった人の中で、その都度新たな出来事となればいい。そのためには、聖書の言葉が、語る者の中で、命へと熟しておく必要があるでしょう。その状態で、私が誰かに接するとき、誰かに言葉を告げるとき、それが愛として伝わりうるのですし、そこに神の光が射し込んでくるということを、希望したいと思います。初期の教会では、イエスの名を出すことは、命に関わることでした。でも、信者は確実に増えています。牧師とか何とかいう肩書きではなく、ただ「この人には何かある」と感じられるものが、そこにあったに違いありません。そこに、キリストがいるからです。ひとを真に生かす言葉としてはたらくキリストが、共にいるからです。
 
「あなたの仰せが私を生かす」――実際に、あなたがこの言葉を胸に、1週間生きていられたら、あなたは、確かにキリストが共にいてくださったことを、証ししたことになっているのです。



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