SDGs
2022年5月14日
もはや流行語のように飛び交っている「SDGs」。ずいぶんと知れ渡った。Sustainable Development Goals まで覚えている人も多いし、日本語でいう「持続可能な開発目標」も、ニュースなどでおなじみである。
2015年の国連サミットで、加盟国の全会一致で採択された、と「外務省」のウェブサイトにもはっきり書いてある。17の目標があることはよく知られているが、それが2030年までに達成すべきだ(2030アジェンダ)という時間制限を設けていることは、知名度がいまひとつ低いかもしれない。実は、もうその目標までの時間を、40%以上、私たちは使ってしまっていることになる。「また明日やろう」ではない、ということである。
それについては、外務省をはじめ、様々な解説があるので、そちらに譲る。私も、そこから引用するしかないのだ。
ただ、これについて2点だけ、私のもつ視点を提供しようと思っている。いろいろな角度から、物事を見る必要があると思う故の、ささやかな提案である。
ひとつには、こうした目標を手段にしてはならない、ということである。どうもこういう流行言葉は、ビジネスチャンスだというような声が、必ず挙がるものだ。「我が社はSDGsに協力しています」と名のることで、利益を上げようと目論む企業はないだろうか。儲けようとするそのことのために、SDGsを利用しようとする動機が、どうも臭ってきて仕方がない。
エコロジーという言葉についても、そうだった。エコ・ビジネスというのが、なんだか怪しかった。エコ・ファッションと呼んで、茶色や緑色の服を売りまくろうとするとなると、もう完全に目的を逸脱していた。
原理的に、このSDGsの実現については、何らかの犠牲を払うものと理解しなければならないだろうと思われる。この「G」は「Goal」である。これは「到達点」というイメージがあるかもしれないが、「目標」であり「目的」である。その実現のために、他のことを手段として活用するのなら分かるが、「目的」を手段にして、自己愛を密かに狙うというのは、理に反している。つまり、「SDGs」という免罪符を掲げて、へらへらしている場合ではない、ということである。
哲学というのは、この辺りの構造を考慮することができる思考をいう。ひとが幸福を目的として生きるというのなら、それはそれでよいが、ならばその幸福とは何かを定義しようともがくし、その理論を通すならば、その幸福を何かの手段にすることはできない。カントは、幸福は決して目的となることができない、という立場の哲学体系を構築した。それもまた、ひとつの論理である。
こうした哲学的思考を、日本の教育はその中に定置していない。これは大問題である。哲学(哲学史の知識のことではない)を学ばなければ、高等教育を受けることができないという制度の国もあるし、海外ではえてして、哲学の存する位置は重視されている。それが、哲学科すら滅亡寸前に追い詰め、人文系一般をなくしてしまおうというようにしか見えない、大学の有様は、決してこの国の未来を考えていることだとは思えない。
実学にしろ、大きな仕事をした人は、しばしば哲学を学んだり、哲学科に進んだりしていた。障害や差別を受けた人も、大学で哲学を専攻したという例がたくさんある。かつての日本の、すぐれた神学者や説教者の中に、哲学科出身の人がどれほどいるか、経歴を見ると驚かされる。
さて、SDGsについて考えたいもうひとつの点である。それは、2022年の4月からNHKのEテレで始まった、「あおきいろ」という番組である。
この番組に限らないが、Eテレでは、障害をもつ人を番組のレギュラーに置くということを、これまでも実行してきた。民放だと、お涙頂戴の紹介の仕方ばかりだ。これをEテレ側から、「感動ポルノ」(この語は2012年から用いられ始めたという)と批判したことはよく知られている。
「あおきいろ」は、明確にSDGsを掲げている。それこそが、この番組のモチーフであり、目的であり、またこの番組のすべてである。SDGsを学ぶために、番組は作られたのである。物についての提言もするし、人を扱うときにも、マイノリティの立場の気持ちを知らせようと努めている。セサミストリートでは、普通に障害者が扱われ、多様な生き方の子どもたちをその世界に含めている。しかし日本の幼児番組は、元気に飛び跳ねる子どもばかりが映っている。それはNHKも同じだった。だから、ここのところ、そもそもコミュニケーションの苦手な子どもたちを描く番組にも挑戦が見られ、少しずつ好ましい方向に進んでいるのではないか、と私は期待している。
以上の2点を提示してみたかったのだが、実はもっと深刻なテーマを意識する必要がある、と私は考えている。この「持続可能」ということだが、もはや持続そのものが原理的に不可能であることと、悲観的にならないにしても、懸念される兆候はたいへん危険なものとなっている、という事態である。
とはいえ、宇宙の有限性は持続を阻むといった、何億年というようなスケールで話を持ち出そうとするわけではない。さしあたりの時間の見通しに過ぎないのではあるが、資源は有限であり、環境はひとや生物のために良いものにはなりえないのであり、子孫が途絶える可能性があるという問題である。そして、そのようにしているのは、紛れもなく人間である。私にも、その責任がある、ということである。その責任から逃れることのできるひとは、恐らく、ひとりもいない。
このことについて、もうくどくど述べることはしない。それを、一人ひとりが真摯に考えることが、この問題のためには、どうしても必要なのである。教会も、自己弁護と自己肯定ばかりすることから一度離れて、哲学的思考を学ぶことを、強くお薦めする。否、本来この信仰のスピリットには、自己吟味があったはずなのである。せめて、私たちの「信仰」は、そんなに正しくはないのだ、というところから、スタートする必要があるのではないだうろか。自分が正しいことを信仰する、という原理は、聖書も神も裏切るものだというところに気づくところから。