【メッセージ】人の教えと神の言葉

2022年5月8日

(創世記3:20, マルコ7:6-13)

こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。(マルコ7:13)
 
◆母の日
 
5月の第二日曜日は「母の日」です。もう少し正確に言うと、アメリカで百年あまり前から始まった記念日としての「母の日」です。誰もが母親から産まれたということを思うと、すべての人に関わりがある記念日であるとも言えます。今日は、私たちもこの「母」に心を向けてみようと考えています。
 
そのため、日本でもそれに類する日がつくられようとしたこともありました。世界各国では、それぞれの「母の日」が記念されています。春から初夏が多いようですが、イスラエルのように、およそ2月頃という国もあるようです。
 
アメリカ由来の母の日については、教会が舞台であることから、キリスト教会でその意義がよく紹介されます。アンナ・ジャービスという少女の名前は、よく知られています。その母アンが、南北戦争の折に、ナイチンゲールが目指した医療衛生のために、力を注ぎ、戦場に夫や子を送ることに反対した女性の運動に関わっていたことが背景にあるとのこと。アンは、教会で日曜学校の教師をしていました。アンが亡くなった後、記念会が開かれた際、その子アンナが白いカーネーションを献げたことが、現在の「母の日」の直接的な起源だとされているといいます。その教会から始まった母を偲ぶ記念会は、7年後の1914年、ついにアメリカの記念日となるまでに広がったのでした。教会の記念会が5月の第二日曜日だったために、母の日はそのまま日曜日に設けられるようになったのです。
 
もちろん、日本では法律上の記念日としてこの母の日は決められていませんが、知っておきたい法律の条文があります。第二次大戦後に定められた「国民の祝日に関する法律」の中には、「母の日」こそ数えられてはいませんが、5月5日の「こどもの日」については、「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」ものとして定められています。法律のよい部分は、覚えておきたいものです。
 
◆創世記の母
 
旧約聖書の創世記は、人間における様々な起源に触れることの多い書ですが、母についても、その最初の叙述がそこにあります。
 
3:20 アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。
 
それまでアダムは、神から与えられたこの女のことを、ただ「女」という言葉で呼んでいました。しかしここで、「エバ」すなわち「命」と名付け、「母」を根拠とします。この女が創られたのは、神が人を「独りでいるのは良くない」(2:18)と思ったためでしたが、そのとき、アダムは、こんなふうにしていました。
 
2:19 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
2:20 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
 
人というのはアダムのことですが、アダムは、生き物に名前をつけていたのです。名付けるというのは、大きな意味のある行為です。名はそのものの本質を表すともいいます。すると本質を決定するような、極めて権威のある行為となるのです。主導権をとるのであり、責任をもつことにもなります。
 
そこで女に「命」という本質を与えたというのは、何も知らないアダムにしては、的確な行為であったことになります。まさに命を生む母体であるとするならば、それは「命」をつなぐ大切な存在だと言えます。けれどもこのときアダムには、そのような知識も感覚もありません。事の順序をここで聖書が説明しているのでないことは確かです。むしろ、その後に命を育む母体となることをここで表現している、という程度で理解してよろしいかと思います。さしあたり「命あるものの母となったから」という説明があってもよいと思うのです。
 
しかし、その「母」とは何でしょうか。私たちは、比喩として「母」を用いることがあります。「必要は発明の母」のように、生み出すものをいうときに「母」を使うのです。産まれて第一に獲得した言語を「母語」といい、生まれた国を「母国」などといいます。キリスト教においても、洗礼を受けた教会を「母教会」といいますね。
 
いまの時代なら、性を男と女とに二分するということで傷つく人がいる、というような見方も一般的になってきました。これについては、キリスト教会の歴史が、二分されることに抵抗のある人たちを迫害してきた張本人である、という点について、もっと悔い改め、詫びる必要があると私は考えています。さも昔から理解があったかのように、LGBTQといった呼ばれ方をする人々に寄り添います、などと言うべきではないのです。それは偽善です。彼らを貶めてきたのは、少なくとも世界史レベルで見ると、間違いなくキリスト教であったからです。
 
それでもなお、2021年の紅白歌合戦のときのように、性をグラデーションで表現するということについては、問題視すべきだという意見の方がいました。当事者の立場や気持ちは、他の人々が簡単に決めてしまうことができないものなのでしょう。何をどう変えようと、人を傷つけることについては、終わりがないような気がします。
 
◆父と母を敬え
 
さて、今日は母の日ということで、母をメインに聖書から聞いていこうとしています。なんといっても、旧約聖書の中でも十戒と言えば、信仰の根本的な憲法みたいなものですから、そこに、しかもその大切な真ん中にこれがあるとなると、何も抵抗できなくなります。
 
20:12 あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。
 
これは出エジプト記から引用しましたが、申命記にも十戒が記された箇所があります。そこでは、主が命じられたことが強調され、また、申命記お得意の「幸い」という語が付け加えられています。しかしともあれ、母に対する尊敬はもはや、人間が生きるうえでは欠かせない義務と見なされていることは確かです。
 
これが箴言になると、さらに具体的に母が表に出て来ますので、ぜひ箴言をまたお読みください。「母の教えをおろそかにするな」(1:8,6:20)とあり、「愚かな子は母の嘆き」(10:1)、「産んだ母の苦しみ」(17:25)になるそうですから、我が身を振り返る機会としたいものだと思います。そこで目標は、「あなたを生んだ母が喜び躍るようにせよ」(23:25)というところに置きましょうか。
 
もうひとつ新約聖書からお引きしましたのは、この父母に対する敬意を欠くことが当たり前になっているような事態を、イエスが指摘した場面でした。マルコによる福音書でお伝えします。
 
7:10 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。
7:11 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、
7:12 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。
 
父母は年老いているものとしましょう。壮年の息子は、父母を養う義務があると思われます。情況は確定しませんが、食べ物なりお金なり、財産あるいは物品、なんでもよいと思います。父母を助けるために使うはずの分があったのですが、「でもこれは神に献げなければいけないきまりがありますから、残念ですが、そちらにまわしますね」と、父母に提供しない様子が描かれているのだと思います。とにかく神に仕える義務は、何事にも最優先されるとすべきものでしたから、神のためにという大義名分は、正義の行為だと誰をも黙らせる効果があったのでしょう。
 
この場面は、もともとファリサイ派の人々や律法学者たちが、イエスの弟子たちが律法違犯をしていると咎めたところから始まっています。弟子たちは「言い伝えに従」わないではないか、と因縁をつけたのです。これに対してイエスは、カチンときたのか、おまえたちは「偽善者」だと断じ、「言い伝え」なんぞ「人間の教え」ではないか、と一蹴したのでした。
 
そんなのは、神を拝することとは違う、イエスはそのように考えていることが分かります。口先では、神のためなどと言いながら、実はそんな心は何もない、と批判しているのです。けれども、それは本当に適切な批判だったのでしょうか。イエスは、神への献げ物の分を、父母にあげさえすれば、それでよいとすることを言いたかったのでしょうか。つまり、父母を敬えという規定があるのに、父母に何もせず、敬ったことにはならないが故に、それを咎めたのでしょうか。
 
◆イエスと母
 
ここで、少しだけ勝手な物語を展開してみます。律法学者たちがそこにいたそうですが、イエスに対して反論しなかったことを、私は不思議に思うからです。というのは、イエスこそ、自分のことを棚に置いて、よくぞそんなことが言えるな、と文句をつけることができると思ったからです。
 
このとき、イエスの父ヨセフが存命かどうかは怪しいものですが、母マリアは確かに生きています。イエスの弟子たちと同行していたのではないと仮定しましょう。そしてイエスは、神の国のために福音を伝える旅に出ます。母マリアの面倒をみているのかどうか、分かりません。イエスこそ、自分をコルバンにした如くして、神のために働くために、母を棄てた張本人であったかもしれないのです。
 
ルカによる福音書によると、12歳のときにすでに、行方不明だとの母の心配をよそに、エルサレム神殿で聖書のことに夢中になっています。母を苦しめたことを悪びれる様子もありません。「もはや父または母に対して何もしないで済む」(12)と思っていたのは、正にこのイエスなのではないのでしょうか。
 
マリアの動きについては、ヨハネによる福音書が記しています。イエスの伝道活動の初期に、カナの婚礼にマリアは同行しています。その後の消息は不明です。但し、十字架刑の現場にいて、弟子のヨハネと母の面倒を見るような約束が交わされていますから、同行していたのかもしれません。
 
待ってください。十字架の下にいたのですと? 息子の死刑執行現場を、母が見守っているなど、考えられますか。そんな場面を母親が目撃したら、半狂乱になりませんか。
 
戦争の中で、死んだ我が子を背負い、いつまでもさまよう母親の姿が目撃されていたという話があります。戦争や殺人の現場では、まともな精神状態ではなくなるということに、もっと私たちは気がつかなければならないと思います。
 
でも、旧約聖書続編のマカバイ記第二の7章には、恐ろしい話があります。あまりに残酷なのでいまここでそれを実況中継するように引用するのは差し控えますが、目の前で七人の息子が、信仰を守るあまりに次々と惨殺されるのを見守る母親が描かれています。
 
7:22 「わたしは、お前たちがどのようにしてわたしの胎に宿ったのか知らない。お前たちに霊と命を恵んだのでもなく、わたしがお前たち一人一人の肢体を組み合わせたのでもない。
7:23 人の出生をつかさどり、あらゆるものに生命を与える世界の造り主は、憐れみをもって、霊と命を再びお前たちに与えてくださる。それは今ここで、お前たちが主の律法のためには、命をも惜しまないからだ。」
 
うろ覚えのため資料を確認できなかったのですが、西洋の革命期に、自分の子を殺す敵に向かい、またここから産むことができるのだから、と自分の下腹部を指し、敵を怯ませたという女性の話を、昔聞いたことがあります。
 
勇猛な母親の姿ですが、こうしたものは、例外に違いありません。英雄的な態度をとった女性を、普遍化することなどできません。だからまた、イエスをどのように理解するかということについて、他人に押しつけることはできません。それでも、私がイエスとはこのような方なのだ、と指さすことはできると思います。それは、同じようにイエスに出会った人が、肯きながら同じ方向を指さしてくれるからです。万人がそうは思わなくても、イエスの救いを知る者が、同じ方を見上げるとするならば、そこにおいてつながることができます。その人々のつながりが、「教会」であるべきだと私は思います。世間話をする仲良し倶楽部ではなく、同じ命を受けた、真摯な交わりであるべきだ、と。
 
◆神と母
 
さて、イエスが父母を敬っていなかったことはないはずですが、聖書に描かれている親子関係は、どうしたものだろうかとも思えました。母との対話は、少しですが、ルカとヨハネの福音書が記しています。ただ、父との対話は全くありません。ヨセフは何らかの事情で亡くなったのであろう、というのが一般的な理解です。ただ、証拠がないので確かなことは分かりません。カトリックでは、父ヨセフは今から150年ほど前に、聖人のひとりとされました。少し前に、カトリックの評論家竹下節子さんが、『「弱い父」ヨセフ』という本を書いています。興味をもたれた方がいらしたら、お薦めします。ヨセフは隠れた立場に徹し、「自分を主役としない生き方」を通したのだといいます。子どもに対しても、母親が「この人が父親だ」と教えなければ、子どもは父親を知ることがありません。父親の弱さというものについて考えさせる本でした。
 
NHKの連続テレビ小説(通称朝ドラ)に「おちょやん」というのがありました。朝ドラには、ダメ父が時折登場しますが、このときの父親は、史上最低のダメな父親が登場しました。これは、おちょやんのモデルの浪花千栄子さんの父親・南口卯太カが、実際そうした人物だったことによるらしいのですけれども、それはもう、最後まであかんたれに描かれていました。
 
父親があかんたれ、というのも辛いですが、父親から酷い目に遭わされた人もいます。そのことに触れるだけで、心の疵に塩を塗るようなことになることをお詫びします。もう深入りはしませんが、辛い人は、教会で「天のお父さま」と言わされることに、限りない苦痛を覚えることと思います。聞きたくもない言葉が飛び交う教会というところには、もう二度と来ないかもしれません。
 
神をどうして父と呼ぶのでしょう。まさか性別があるとは思えません。古代では、そういうものだということになっていたのでしょう。いえ、今でも何ら違和感なくそう決まったものとされています。このことを批判する人たちもいます。そもそも、女神とか女優とか、リケジョとか、わざわざ「女」を付けて呼ぶのはどうしてか、という点についても、いろいろ考える必要があろうかと思います。
 
神を父と呼ぶのは、とりあえず聖書に書いてあることです。しかし、そこに母性のようなものを感じることを訴えた人もいます。キリストの中に「母性」を覚え、「母なるもの」を求めるのが日本人の宗教だ、と言って大きな議論を呼び起こしたのは、カトリック作家の遠藤周作でした。大人気作家だったが故にかもしれませんが、かなり非難されました。けれども、神学の中心にはならないにしても、考えさせられるものがある、と一目置く人もいます。
 
いったい、父というのは象徴に過ぎないのでしょうか。社会制度がそうだったから、というわけでしょうか。聖書は隅から隅まで、男社会を描いています。しかしながら、制度的にはそうであっても、女が活躍する場面を多くもっていることに、私はむしろ驚きます。新約聖書でイエスに従い通したと言えるのは女たちでしたし、復活の主に出会うのもそうでした。旧約でも、女の信仰が随所で輝いています。ラハブもルツもエステルも堂々とした主人公となります。デボラならまだ有名ですが、ケニ人ヘベルの妻ヤエルと聞いて、どんな女だか分かりますか。ぜひ、士師記4章をお読みください。初めて開く人は、びっくりすると思います。私の大好きな物語のひとつです。
 
それにしても、母という存在には、いろいろな受け止め方があるものです。日本だと、儒教からきたのか、「三従の教え」というのが知られています。インド辺りでは、夫が亡くなると妻も生きながらに焼くといった教え(サティー)が、19世紀まではあったと聞きます。それに関して、「未亡人」という言葉も、どうしてこんな呼び名があるのかと不思議に思うものです。聖書によく登場する「やもめ」もこれと同じ地平で見える風景だろうと思います。
 
◆利用していたのでは
 
コルバンの場面に再び戻りましょう。宿題がありました。覚えておいででしょうか。「イエスは、神への献げ物の分を、父母にあげさえすれば、それでよいとすることを言いたかったのでしょうか。つまり、父母を敬えという規定があるのに、父母に何もせず、敬ったことにはならないから、それを咎めたのでしょうか」と、私は問うていました。
 
私は、京都では、キリスト教団体の営む学習塾に勤めていました。日曜日の午前には授業はありません。午後も基本的にありません。ごく稀に、午後だけテスト解説をすることはありましたが、普通はまずありません。それが福岡に戻ると、一般企業です。日曜日が時折休みですということで入社したら、その年から日曜日の休みがなくなりました。しばらく耐えていましたが、ついにおかしくなり、退職願を出しました。
 
その後の経緯を詳しく説明することはしませんが、説得され会社に残り、日曜日の休みを認められるようになりました。私は教会生活を始めることができるようになりました。でも、日曜日もテスト会や授業はふつうやっていますから、時折、来られないかと頼まれることがあります。多くは断りますし、仕方ないかということになります。
 
そんなときに、ふと思うことがあります。映画「炎のランナー」は、安息日に走らないと言って狂信者呼ばわりされた、陸上のオリンピック選手を描いていました。このエリック・リデルは、その後宣教師となり中国に渡り、そこで日本人に拘束されて獄死したことがよく知られています。この人と比べるような畏れ多いことはしませんが、当然私自身の中でも、安息日だから、というのが理由であると考えていました。が、自分は本当に日曜日は仕事ができないのだろうか、と問われたとき、いろいろな事情から、考えさせられることがあるのです。
 
もしかすると自分は、日曜日に仕事がしたくないために、その言い訳を正当化しようとして、教会の礼拝を利用しようとしていたのではないだろうか、と省みることがあるのです。いや、そうじゃない、というのが結論ではあるのですが、完全否定できないものが何かある気配を感じてしまいます。それほどに、人間というもの、とくに自分というものを、私は信頼しきることができないのです。
 
ここで、人間の言い伝えを大事にしていると非難された、ユダヤ教の立派な人たちも、一種の正当化をしていることに気がつきます。神に供え物をするために、残念ですが親に渡せないのですよ、と考えて、綾に対する義務を果たせない、いえ、果たさないことを、いかにも正しいことのように言っています。悪びれるという姿勢はありません。これは神のために正しいことなのです、と、自分が立派なことをしていることを見せつけています。
 
そこに、神への信仰はありません。神を第一としている心はありません。それどころか、神を、自分を正しいと証明するための、道具に利用しているのではないでしょうか。そういう精神であれば、たとえ父母に対して金品を渡し扶養の義務を果たしたとしても、その自分の行為を、神の前に「立派でしょ」と見せるための、道具に利用するに違いありません。神を敬うふりをして、父母を敬うふりをして、どちらにしても、それぞれを自分を祝福するための道具に利用していることになります。イエスはそれを「言い伝え」だと厳しく指摘したのです。
 
◆言い伝えでなく
 
ところが「言い伝え」という日本語では、私はなんだか合点がいかないような気がしました。そこで、この「言い伝え」と訳されている原語にあたってみました。語の構成からすると、「身近に与えられたもの」というような形から成り、「伝承」「伝統」というような意味合いから「言い伝え」と訳されたものだと分かります。しかし、他の場面では「伝えられた教え」(コリント一11:2)、あるいは「伝えた教え」(テサロニケ二2:15)、さらにはたんに「(私たちから受けた)教え」(テサロニケ二3:6)というように、何らかの形で伝えられたものであるにせよ、「教え」という日本語で示すものでもありました。
 
確かに、「教え」とは、誰か先人が真と認め、伝えられていまの自分が知るに至ったものです。「言い伝え」はそれをうまく表してはいますが、もっと一般に「教え」と試しに捉えてみます。つまり、先人や多くの人が正しいと呼んでいることを自分も採用するとき、それが「教え」となるわけです。それは、自分の責任とはなりません。有り体に言えば、「みんなが言っていること」のことです。それはまた、互いに「みんな言っているよ」と安心し合うような決まりであり、いつの間にか、それが正しいことなのかどうかを検討することなく、無反省に「習慣」として受け容れていることにもなります。
 
これは怖いことです。「みんなで肯いていれば怖くない」と、無意識・無感覚になっていることがどんなに恐ろしいことか、それは今敢えて議論に持ち出すことはしません。心あるならば、ひとつお考えくだされば幸いです。差別問題の一つとして、「マイクロアグレッション」という概念が取り上げられています。本人は悪気なく、無邪気につい言ってしまうような言葉遣いの中に、他人を絶望の底に突き落とすような差別意識が潜んでいる教会内でよくある実例が、『福音と世界5月号』で指摘されています。次号から、それについての翻訳物の連載が始まります。関心をもって戴けたらと願います。
 
ある教会で、青年の集いがありました。それは、日曜日ではない、敬老の日のことでした。気候の良いこのときに、皆の都合がついたのでしょうか、青年たちは夕方まで楽しく有意義な時間を過ごしました。……さて、それでよかったでしょうか。私だったら、ためらいます。そうです。礼拝の後、祖父母のもとを訪ねる機会を、教会は奪ってしまったことになるのです。たとえ、国が定めた祝日など関係がない、などという理屈をもっていたとしても、敬老の日を迎えた当事者の祖父母の皆さんは、敬老の日だけどねえ、と、寂しい思いをもつことはないでしょうか。あなたの誕生日に誰も気づかず、誰も声のひとつもかけてこないとしたら、あなたは寂しさを覚えないでしょうか。
 
これは、まさにこのコルバンにまつわる記事と、本質的に同じものを含んでいないか、お考え戴きたいと思っています。
 
◆母の日
 
母の日の始まりは、アンナ・ジャービスが亡き母のために教会で記念会を催した時の、周囲の感動に由来する、と初めにお話ししました。急遽アメリカ全土に拡大したこの感動物語は、すぐ6年後にアメリカの記念日となります。アンナは時の人となり、注目を浴びました。アンナは、母親を大切にすることについて、きっと喜んで説明をしただろうと思います。けれども、やがてアンナは世間に対して心を閉ざします。母の日が有名になり、スピリットが違うと感じたばかりか、カーネーションなどの「商業主義」には猛然と抗議をし、母の日をなくしてくれとばかりに訴えたと聞きます。しかし、母の日はもう社会のものになってしまっていました。アンナは敗訴します。
 
最初は純粋に感動により受け容れられたものであっても、人間世界では、それぞれの人の理解や思惑で、初めのスピリットを歪めてしまうことが、しばしばあります。それは大抵の場合、悪意によるものではないのです。それはよいことだ、と賛同する人が増え、自分たちは善意から、善行をなしていると胸を張り、さらに善いことを目指そうと、その運動を展開していきます。この世界を善で満たそう、と思う、いわば善い動機からのことだったかもしれません。
 
けれども、そこに「神が認めた」という「信仰」を連関させてしまうと、とたんにおかしくなっていくことに、キリスト者と教会は気づかねばなりません。「神のお墨付き」を人間が決めるということは、人間のほうが、神を利用していることになるのです。自分は神の側にいるのだ、という「自称正義」により、「自己義認」を始めるのです。しかも、次には、与しない人を圧していくようにもなります。それこそが「教え」だと言って。
 
7:8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。
 
イエスがファリサイ派の人々と律法学者たちに突きつけた言葉を、私たちはどこで聞いていたでしょうか。「そうだ、ファリサイ派はいつもそうやって律法主義で人々を苦しめ、イエスのことが全く分かっていない」と、思い込んでいた人はいなかったでしょうか。「自分のことではない」と、イエスの背後にいる弟子たちの視点からこの対話を眺めていなかったでしょうか。
 
神は、聖書の言葉で、あなたに呼びかけます。この言葉を聞いたあなたに、「あなたはどこにいるのか」と問うています。他の人がどうかなどというのではありません。ただ「あなた」はどうなのか、と迫ります。あなたの教会はどうか、と考えさせます。教会の「教え」を正当化するために、聖書を利用していないか、考えさせます。
 
イエスが、命を捨ててまでも、建て、起こした教会です。イエスは私たち人間が言う「命懸け」という言葉を、まさに文字通りに実行したのです。そうして呼び集められた人々が、教会です。建物ではありません。人々の集まりです。今日初めて教会の話を聞いたあなたも、呼ばれたここにいたのですから、さしあたり教会です。母の日の今日、招集された皆さんは、何もアメリカが決めた今日という1日にどうすべきだなどというつもりはありません。でも、世間が「母の日」と言っている中で、あなたなりに何か、できることが、今頭に浮かんでいるならば、なさってください。残念ながらこの母の日は日曜日と決まっていますから、礼拝に出るならば遠い実家に行くことはできないかと思います。でも、何かできることはあると思います。
 
アンナ・ジャービスが嫌った、商業的な贈り物がだめだとは申しません。ご家庭の事情によっては、そうしたことができない、あるいはすべきでない方もいるだろうと思います。その時には、祈ってください。母をこの世から送り出した方もいます。母親がどこにいるか分からない方、母という言葉を思い出したくもないほど辛い事情にある方、いろいろな方がいるだろうと思います。それでも、自分がいま生きている限り、つまり自分に命が与えられているならば、自分を産んだ母という存在への思いを、少なくとも神に、申し上げてみることをお勧めします。頭を垂れて、祈りましょう。この神は、「命あるものの母」を創造したお方なのです。あなたに命を、その母を通じて与えたお方なのです。



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