仏教の魅力

2022年5月4日

「お説教」という言葉がどこからどのように発生したのか知らない。「お」は多分、意味を低く下げるときの一種の揶揄として(「坊ちゃま」より「お坊ちゃま」のほうが悪いニュアンスになる)付けられたのではないかと推測するが、別に「説経」とも書くところをみると、仏教の伝統の中での用語ではないかと思われる。意味は、仏の教えを説くということのはずである。
 
近ごろ、僧侶が震災のときに人々を苦労して助け、慕われた場面を含む記録を見た。また、映画で、いわばやんちゃな主人公たちに親身に関わる僧侶が描かれたものを観た。どちらも、仏事は行う。だが、説教をする場面はなかった。ただ人々に寄り添って、共にいようとし、実際、共にいた。そのため当然のことではあるが、人々の絶大な信頼を得ていた。
 
他方、キリスト教での説教はどうだろうか。説教は、礼拝の命である。少なくともプロテスタントでは、そうであるし、カトリックでも近年非常に重要視されていることは確かである。正教会では、オリジナルな説教が語られることはないかもしれないが、説教があることは間違いない。そこではおよそ、聖書の言葉が必ず掲げられ、それに対する説明や解釈、あるいは説教者が受けたことや勧めなどが語られる。
 
そして、キリスト教の伝道となると、聖書の言葉を語ることが、セオリーとされているように感じられる。何か悩みを打ち明けられても、聖書はこう言っています、と神の言葉が助けとなるような対応がよくあるような気がする。
 
悪い信仰ではない。人を救うのは、主である神なのである。神の言葉が人を救うというのが、基本である。キリスト者が救われたのは、必ず聖書の言葉によるのであって、これをもたず、証しできない説教者など、あり得ない。
 
信ずる側は、それでよいのである。確かにキリスト者は、神の言葉により救われた。それは事実である。だが、聖書を知らない人の抱える問題に向き合うときに、聖書の言葉をぶつけるのが適切かどうかは、大いに疑問がある。
 
少しばかり想像してみるとよい。自分が聖書を知らないとする。人生の問題を誰かに相談する。その人は、聖書の言葉を持ち出して、こうすればよいとか、こうすべきだとかいうふうに話し始める。――ありがたいだろうか。むしろ、この人は自分の話を聞いてくれたのだろうか、この人自身の信念を、こちらがよく分からない聖書の言葉を持ち出して、押しつけようとしているのではないだろうか、そんなふうに感じて、引かないだろうか。少なくとも私だったら、そう思うだろう。
 
本や映画の中の僧侶は、ただ人々の話を聞いていた。後者は、辛い涙を流して話す男と共に黙って酒を飲んで聞いていた。流行の語だが「寄り添う」という言葉が似合うのは、こういうことではないかと思わされた。
 
「私たちは被災者に寄り添います」「私たちはLGBTQの人々に寄り添います」などと宣言することがある、キリスト教会。「だって被災者に募金して、祈っているから」「だって過去に彼らを迫害した教会と私たちの教会は違うから」という構え方をしてのことでしょうか。そして、聖書の言葉を掲げて、自分たちは神の言葉に従って寄り添うのです、これが愛です、などとでも言おうものなら、こいつらは何だ、と思わないだろうか。
 
しかしキリスト教会側では、しばしば、日本人の生活に仏教がしみこんでいるとか、日本人の精神構造はどうとかこうとかいう理論を考え出して、宣教が進展しない理由を挙げようと躍起になっている。日本人の死生観が悪いのであって、語る自分たちは正しいことをしているのだ、とでも言いたいかのようにも聞こえることが、私の貧しい想像力でも思い浮かべられる。
 
今時は、小学生のための教会学校でのお話でも、キリストの話をお友だちが聞いてくれなくても、そんな困難を困難と思ってはいけません、ずっと話し続けていれば、いつか聞いてくれるようになります、といった、いじめを生みかねない無責任なことは言わないだろう。だが、教会がいくら聖書の話をしても世の人は聞き入れてくれないような困難があるが、私たちは常に語り続けるべきなのです、というような「説教」が、信じられないことだが、現にある。それが如何に「的を外して」いるのかについて、改めてご説明する必要はもうないだろう。
 
すでに何度か指摘しているが、神社仏閣を信頼すると、あるアンケートに答えた人と、キリスト教会を信頼すると答えた人の割合は、日本において、完全にイエス・ノーが逆だったのである。
 
私は、それは至極当然のことだと、最近よく思う。日本人の考え方や感じ方のせいにするのは、もうやめたらどうだろうか。変わらねばならないのは、気づかねばならないのは、自分のほうなのだ。ひとに対する個人的な意識においても、これをつねに私は弁えておきたいと願っている。言い放つ矢は、必ず自分に戻ってくるという覚悟で、それでも言わざるをえないという、ぎりぎりのところで告げているつもりである。自分の罪という問題を経験することが、キリスト者の基本中の基本であり、これなくして語る「福音」の言葉は、ただの暴力ですらあるのだから。
 
なお、画像にある聖書の言葉は、今回は特に、聖書をご存じの方のために掲げているのであり、たとえそうでなくても、聖書の言葉を掲げることをやめろと私が言っているわけではないというように、誤解を避けるための、ひとつの提示だとしてもご理解戴きたい。



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