礼拝説教とは何だろう

2022年4月28日

週に20分ほど、スピーチをしなければならない。牧師にとってのお勤めなのだろうか。聖書を看板に掲げるという制約がある。何らかの結論が必要になる。聖書の説明をしなければならないし、その中には、子どもでも分かるという程度ではなく、「ほほう」と思わせるような部分を入れる必要がある。
 
しかし毎週そうしたネタを考えるのは大変だ。そもそも聖書のどこから話すか、決めなければならないが、気の利いた箇所を選ぶのは至難の業である。そこで、大きな教団や、大きな派が出している、教案誌があるので、利用する。せっかく誰か詳しい人が聖書箇所を決めて、話のポイントや聖書解説を丁寧に教えてくれているのだ。利用しない手はない。さすがにそれをそのまま読むと、その教案誌を使っている人に分かってしまうから、それを読んでいて自分の体験や見聞きしたことを加えて、味付けをしておくことにする。あるいは、説明を読んでいるときに自分が思いついたことを題に換えて、教案誌はあくまでサブということにしておくと、恰好がつく。
 
教案誌の説明の中に時折、ギリシア語ではこういう、などと説明があるから、綴りまで調べておいて、説教要旨に書いておくと、よく知っているなと思わせることに成功するかもしれない。しかし、ギリシア語なんて神学校で仕方なしに単位を取っただけでまるで勉強する気にならなかった場合、アクセント記号の意味さえ知らずに読み上げてしまうといった危険も潜む。ギリシア語の初歩だけでも知る信徒に、この説教者は実は何も知らないのだとばれることがあるのだが、それもあまり気にしない人もいる。
 
資料的な背景で、これは実はこんな意味なんだ、といった情報を入れると、カッコいいかもしれない。教案誌にある通りに言ってみたり、念のため自分でウェブサイトで検索してみたりもする。すると、おっと、なかなか面白い情報があったぞ、これはネタで使える、というようなものに出会うことがある。これは教案誌にはなかったし、よくぞ知っていると見られるかもしれない。
 
だがそれも、残念なことになる場合がある。ネットの情報には、ただの無責任な呟きや、嘘や思い込みがけっこうたくさんあるのだ。また、古典資料にある内容でも、原文の引用でなければ、妙な解釈で説明してあることもよくある。たとえ原文があったとしても、それを読んで利用しようとする当人のほうが、教養がないために、意味を理解できず、妙な意味に説明したり、勝手な嘘を入れてしまうというケースもあるだろう。
 
ガセネタを礼拝説教の中で堂々と言い放ち、実はこうなんですよね、と感心させるようなシーンにも出くわすことがある。あまりの嘘デタラメの場合、信徒のほうが後からこっそり違いますよと囁くことをしてくれたら、まだよいかもしれない。嘘をばらまいたままにしておいたら、それを聞いた人が、嘘の情報を、こうなんだってよ、などと他人に説明したらいい恥をかく。せめて、こっそり違うと教えられたら、時をおかずに訂正を入れたほうがいい。教育的立場にある者の常識である。
 
確かに、聖書の解釈ということについては、個人によりいろいろ異なる場合があるし、あってもよいと思う。その時にも、こういうふうに思う、とか、こういう解釈がある、とか言う説明をする人は、まだ信用が置ける。だが、これはこういう意味です、と言い切ってしまうのはどうだろうか。明らかにそれに反する意見もあり、また、その反するほうにより確実な根拠があると知っている信徒からすれば、この語り手はあまりに思い込みが強いように、見えはしないだろうか。そうなると、この人は、何か決めつけが激しい人であるというふうに判断せざるを得なくなり、信頼が持てなくなることになりはしないだろうか。
 
リテラシーは、いまの時代にはどうしても必要である。ここで「リテラシー」というのは、情報を取り扱う「情報リテラシー」のことを言っている。しかしまた、「リテラシー」は、本来「字の能力」のような意味であったから、ざっくり言って「読み書き能力」のことを言うものであった。これが乏しい人が牧師という立場に就いてしまうと、実に具合の悪いことが度々起こるであろう。
 
先般触れたように、小学生の作文にも劣るような説教要旨しか書けない人が、事実いるからである。否、文章が下手であるとか、文法や語彙の上で問題がある、ということだけが、書かれた文章のすべてではないことは承知している。たどたどしくても、そこに真実があれば、神の言葉として伝わっていくことができる。証詞の言葉がそうだ。神と出会い、神に変えられた経験を語る文章は、何か文章としては欠陥があったとしても、その中にある命は、同じ命を知る人には分かるのだ。伝わるのだ。むしろ感動をもって、その言葉の真実を受け容れることができるのだ。
 
だが、教案誌や、ネットにある他の牧師の説教をコピペしたり、ネットの怪しい情報を取り入れたり、資料をあまり理解しないままに説明したりすると、下手な作文になることがある。文章につながりがないからだ。読み手からすると、不自然な文章になっていく。そこから命を感じようとしても、何を言っているか分からないので、文意を理解するだけでエネルギーを費やしてしまう。
 
そして、さらに具合の悪いことに、そこに中身が伴わないケースがたいへん多いのである。そもそも神と出会い、神に変えられた経験がない人、自分では「証詞」のつもりで喋っても、そこに聖書の言葉すら出てこないような人の場合には、たとえ勉強した聖書についての知識が並べられていたとしても、実に惨めな作文になってしまう。文章を書く能力がないのに、そもそもの命がない人の文章が、形だけは、「礼拝説教」として成り立ってしまうところに、教会組織の恐ろしさがある。
 
礼拝説教とは何だろう。今回は、そのネガティブな面から迫ってみた。他にも、感情に由来するものであろうと、聖書講演会か学界の発表としては優れた内容である場合もある。だが、命を注ごうとする意図の欠けている説教だと、聖書やキリストへの信仰を育むことはできない。そんなふうに、いろいろ問題視しなければならないものもある。だがそうしたことばかり言っても建設的ではない。ポジティブな面については、またいずれお話しできることだろうと思う。命のためには、そちらをご期待くださればと願う。なお、説教者の大部分は、今回の場合には当てはまらないことを、誤解のないように、申し添えておきたい。



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