【メッセージ】ロックはきかない

2022年4月24日

(ヨハネ20:19-23)

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(ヨハネ20:19)
 
◆沈黙の春
 
コロナ禍と呼ぶような時期になって、2年余り。最初、何がどうなるのか全く読めなかった状態で、いきなり学校が閉鎖となりました。その頃に比べると、いまは新規感染者も亡くなる方もとんでもなく多いのに、学校への登校も通常通りで、イベントも開催されているというのは、人間の知恵のなせる業なのでしょう。ワクチンは万全ではありませんが、比較的有効です。ウイルスについての知識も社会的に増大しましたから、それなりにうまく対処しているということなのでしょう。
 
二年前、私も自宅待機をしばらく強いられました。人のいない場所での散歩は推奨されていましたから、これを機会に、町内や山手を歩くことで、運動不足を解消し、精神の安定を計っていました。
 
やはり学校の静けさは、特筆すべきものでした。子どもたちの声が一切ない学校。中学では休日も聞こえていたはずの部活動の声も、ありません。そこに私は、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』をしみじみと思い起こしました。「アメリカの多くの町で春の声をすでに沈黙させたものはなにか。この本はそれを説明する試みである」と繰り出す序章は、春が来たのに自然が沈黙してしまったことへの探究と警告との始まりとなりました。
 
幸い、あのときの沈黙は、人間世界だけでした。人や車の通行が激減した散歩道では、やけに鳥の声がたくさん聞こえました。静かだから、という理由だけでないことに、やがて私は気づきます。人が少ない野で、鳥が、低い木のところにまで安心して降りてくるわけです。思いのほか、近いところまで鳥が来る、それで鳴き声が大きく聞こえるということが分かってきました。
 
それでも、一日中散歩しているわけではありませんから、自然、家にひきこもっているようなことになります。本を読んだり、片付けをしたりもしました。妻は医療従事者ですので厳しい職場で闘っていました。私は、高校生の息子と家にいます。高校生もリモート授業というやはり厳しい環境で、苦手だと思っている数学などに悪戦苦闘していました。
 
高校といえば、昔古文で「物忌み」というのを学びました。いわゆるタブーということですが、あることを絶対にしないというのではなく、ひとを訪ねることをその期間禁じたり、暦や占いで穢れを裂ける、あるいは神事のために何かを避けたりするというようなことだったようです。いまでも、博多の祇園山笠の期間には、氏子は胡瓜を決して口にしません。櫛田神社の祇園の紋と、胡瓜の切り口が似ていると言われるためです。学校給食にも胡瓜は出ないそうです。
 
「方違え」も学びました。陰陽道からある方向に進むことを凶とすることから、わざわざ別の方角に進んで一泊し、翌日目的地に向かえば、最初の方角には進まなかったということになる、というものです。これらは、なにも家にこもることと同じことではありませんが、何か「してはいけないこと」の縛りの中でもがいているような生活を実践しなければならなかったために、ふと思い出されたのでした。
 
◆ひきこもり
 
流刑というものが歴史上ありました。最近は源頼朝関係のドラマやアニメが話題になりましたが、頼朝は、平治の乱の後平清盛に捕らえられたものの、源氏の名の故に死罪にはなりませんでした。そのため、頼朝はしばらく、清盛を討つことについてはためらっていたとされています。死罪にならないとはいえ、建前上刑罰は必要です。そこで「流罪」という形で、中州の中の小さな島に置かれたわけですが、脱出が必ずしも困難であるようには思えません。この罪はむしろ、社会的な制裁であったと見てよいのではないでしょうか。そこでの20年間ほどのことはよく分かっていないらしいのですが、北条政子との結婚は、この流罪の間だったはずです。
 
それに対して緊急事態宣言の時には、人々がまるで「ひきこもり」をしているかのようにも見えました。でも、このような言い方をすると、いわゆる「ひきこもり」の方々に失礼なような気がします。
 
社会に適応しづらく、「生きづらい」気持ちを懐き続けている人に「ひきこもり」と世間は簡単に、見下したようなレッテルを貼りがちです。また、それを病気のように扱うことも多々あります。しかし、そういう立場に置かれた人の声を、拾い上げるような企画がNHKラジオで始まっています。「みんなでひきこもりラジオ」という番組です。これまで臨時で放送されていましたが、この4月から、一か月に一度の定時番組となりました。
 
当事者の中には、こうした番組自体を嫌う人もいることでしょうが、一部の方々はこの番組を喜んで受け容れています。この番組を窓として、風通しがよくなればよいと願います。栗原望アナウンサーが、なかなか味のある語りをしており、これからもさらに改善や努力による、いろいろな人の助けになればよいのですが。
 
◆心を閉ざすこと
 
聖書の記事に向かいます。時は、十字架刑の後でした。イエスは当局の指金による逮捕と、ローマによる正式な裁判により、公的な死刑判決を受けました。刑は直ちに執行されました。遺体は幸い、好意を持つヨセフという議員により、岩場の墓に納められました。そうでなければ、死体捨て場のようなところに無造作に捨てられるところだったのです。モーツアルトも共同墓地に埋葬されたと言われているほどですから、まして死刑囚の遺体など、大切にしようとする人など、なかなかいるものではありません。これも神の摂理でしょう。
 
弟子たちは、言うなれば、ひきこもっていました。
 
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
 
付き従っていた先生が殺された。イスラエルを再興すると言って、独特の教えをもたらし、奇蹟をも見せてきた先生が殺された。当局の理不尽なやり方で、無理矢理死刑にされた。実に酷かった。それを嘆く心もあったとは思いますが、基本的に、次は自分たちに逮捕の手が伸びるということを恐れたのだと思います。無理もありません。特にイエスの側近とも言える十二弟子、いやユダを除く十一弟子でしょうが、これはいわば幹部ですから、いつ命を狙われてもおかしくありません。
 
ユダヤ人たちが襲ってこない。何らかの形で隠れることのできた家があったのでしょう。そこに閉じこもり、びくびくしていたはずです。鍵を掛けるというのは、ふだんはあまりしなかったことなのかもしれません。よく分かりませんが、わざわざ書いてあることは、特別なことだったとして受け止めて然るべきでしょう。
 
でもそれは、同時に自分の心に鍵を掛けていたのだ、と考えてはいけないでしょうか。誰をも信じられない。誰をもここへは入れるものか。あるいは、自分の心を決して開くことはしないぞ。そんなふうに閉じこもっていた心を、ここに感じてみたいと思います。
 
信仰生活をしているから、心は誰にでも開かれています、私はオープンですよ。そうでしょうか。信仰生活もまた、引きこもることはたぶんあると思います。教会もまた、精神的に鍵を掛けることがあると思います。まさか、そんなことはあるまい、とお思いでしょうか。教会は誰をも受け容れるし、誰に対しても開かれているのです、本当にそうでしょうか。教会は明るくて真実で、実に居心地がよいところです、と言い切れるのでしょうか。
 
もちろんそうあるべきだろうとは思います。しかし、教会では皆心を開いて分け隔てなく交わり合い、そして外の人々をも誰をも差別なく受け容れています、と思い込んでいたとしたら、おそらく能天気でしかありますまい。独善を主張するような日常が、あまりに日常になりすぎて、自分が如何にひとを傷つけていたとしても、何も気づかないでいるようなことが、きっとありうるのです。むしろ、そうだ、確かに引きこもっているようだ、と気づいた方は、むしろ誠実で、神の恵みの中に生かされている人なのだろうとさえ思います。
 
具合の悪いことに、引きこもり、心を閉ざすということは、神の前に隠れることでもあります。創世記の初めのほうで、カインが神の前に平然と嘘をつくシーンがありますが、神に対して嘘をつくのも、確かに心を閉ざしていたことの証拠ではないでしょうか。
 
◆通り抜けるイエス
 
20:19 そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
 
驚きです。マジック・ショーなのでしょうか。密室のトリックもここには成り立ちません。鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちの前に、突然イエスが現れるのです。この場面、まとめて次の箇所まで見ておきましょう。
 
20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
 
イエスの挨拶が絶妙です。「あなたがたに平和があるように」と二度繰り返します。ギリシア語の「平和」ですが、ヘブライ語なら「シャローム」だったことでしょう。いまも挨拶として使われるこの言葉は、「平安あれ」という響きですが、「こんにちは」など、普通の挨拶の語として使われるものです。イエスは、普通の挨拶をしたのではありますが、そこに「平和」という意味がこめられていたと理解できる、そういう構造になっているのではないでしょうか。つまり、引きこもってびくびくして落ち着きのなかった弟子たちに、平和と平安があるように、という言葉です。これで弟子たちも、何かに気づくことができたでしょうか。神の言葉は現実のものですから、ここに確かに、平安が与えられたのだ、と私たちは読みたいと思います。
 
このイエスは、真ん中に立ちました。隅っこに現れたのではなくて、真ん中に立ちました。何の真ん中なのでしょうか。直接書いてはありません。部屋の真ん中だろうと思います。しかし、弟子たちの真ん中かもしれません。さらに私は、心の真ん中にイエスが来てくださったのだと受け止めたいのです。あなたの心の真ん中に、イエスはいますか。片隅に、消えそうな場所、いてもいなくてもあまり違いのないようなところに、イエスを押しやっていませんか。イエスは、私たちの心の真ん中に、いるべきお方だと真摯に思うクリスチャンが、以前よりも少なくなったような気がしてならないのですが、失礼な言い方だったでしょうか。
 
このイエスは、手と脇を見せました。確かにイエスなのたというアイデンティティーを示したことになります。そして、復活したということの証拠にもなります。その傷は、あの十字架の上で血まみれだったイエスそのものだったのです。でも、いまここに生きているではないか。現に声をかけてきたし、そこに立っているではありませんか。弟子たちは喜んだと書かれています。それは、神の恵みを体験したというような喜びであったことでしょう。
 
イエスは、閉じこもった部屋の壁などに遮られることなく、通り越えて真ん中に来ました。私がいかに心を閉ざしていても、イエスは私の心の真ん中に来ることができるお方なのです。
 
◆聖霊と赦し
 
もう一度先ほどの箇所を振り返りますが、二度目の「平安あれ」に続いて、イエスはこんなことを言っていました。
 
20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
 
父から子への関係が、子から弟子たちへの関係と類比されると説かれています。しかしこの並行関係は、簡単に同じだよ、と言って済ますことはできません。神とイエスの濃密な関係が、どうしてイエスと人間との間に同様に成り立つというのでしょう。人はこんなに壊れていて、神の前に立つことさえできそうにないではありませんか。そこで、そのために、次の出来事が起こります。
 
20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
 
私たちがイエスに遣わされるためには、「聖霊」を受ける必要がありました。神ご自身のひとつの姿である、と、ここでは理解しておきましょう。聖霊を受けるというと、聖書をご存じの方は、ペンテコステの出来事が脳裏に蘇ることでしょう。そのときペトロが言ったとされる説明は、使徒言行録にこのように書かれてありました。
 
2:38 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
2:39 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
 
「聖霊を受けなさい」(22)とこのヨハネによる福音書で復活のイエスが弟子たちに息を吹きかけたのは、ルカのペンテコステの出来事に比較されることがあります。「息」が聖書のフィールドでは「霊」と同じ場合があることは、よく知られています。
 
使徒言行録の筆者は、ルカによる福音書と同一だというのが定説です。共通な特徴が多々あるわけですが、「聖霊」が強調されているのも、その特徴の一つです。それに比べると、ヨハネによる福音書では、3つの節にしかその語は現れません。但し、14章では「弁護者」や「真理の霊」という呼び方で、この聖霊がイエスの時の後に、共にいるだろうと知らせています。
 
父なる神がイエスを遣わし、イエスが弟子たちを遣わす。それから聖霊を受ければ、弟子たちは罪を赦すことができる。イエスはここで、罪の赦しについて言及しています。罪を赦すなど、神のほかはできないことでした。だから神である聖霊がここで登場しているのでしょう。私たちが人間の感情や知恵で、罪を赦すのだなどと思い上がってはいけません。それは神のなすことです。ただ、神は私たちを通じて働きもするというだけです。
 
◆コロナ禍
 
ところでこのコロナ禍において、「リモート」という言葉が大いに用いられるようになりました。リモート勤務ができる仕事はまだ感染防止に役立つのでしょうが、メンタルな面ではどうでしょうか。最初の緊急事態宣言のときは、ちょうど新学期が始まる頃でした。学生たちの困難は、あまりにも突然で、対処の仕様のないものでした。
 
大学新入生がまたたまりません。合格した喜びも束の間、ひとり下宿生活を始めたところで大学は閉鎖、しかもステイホームなどという規制が押し迫ります。誰とも会えないし、友だちもつくれません。その時の状況について、私は『現代思想』や『こころの科学』といった月刊誌の評論で、間接的に詳しく知ることができました。本当に苦しかっただろうと思います。そんな子どもたちの目に見えるところで、緊急事態宣言になってなお、自由に町中を散策しているレポートを日々撒き散らす「牧師」がいました。さすがに私は怒りました。もちろん名指しで非難はしませんでしたが、適切な形でそういう行為を問題とする意見を公表したら、すぐさまブロックされました。残念ですが、こういう人もいるのです。
 
日本では、いわゆる「ロックアウト」は発動できませんでしたが、この語「lock out」とはよくぞ言ったものです。「閉め出す」ということです。鍵をかけ、ロックし、入れなくするのです。「閉め出す」、それは、誰かを外へ追い出すという意味でもあるのですが、外にいる者からすれば、閉め出されたということにもなります。学生たちを学校は閉め出し、学生たちは社会から締め出されたのでした。
 
高校生も気の毒でした。アニメ物語では、最も青春を謳歌して楽しそうにしているのが高校生の年代だと思いますが、しばらくは自宅に閉じこもるしかなく、パソコンの画面で授業ビデオを見ながらノートに計算をしまくるというような毎日でした。ようやく対面授業が可能になったのはよかったものの、友だちと一緒に食事をすることすら禁じられます。弁当も食堂もひたすら無言で通さないといけないという時期を、2年間あるいはそれ以上強いられているのです。
 
人間社会も、いつまでも閉じこもってはいられません。経済的に切迫する業種があり、感染症とは別の意味で、ひとの命に関わるものとなりました。最初は未知のウイルスだったということで、やむをえない措置だったかもしれませんが、次第にそれなりの知識が得られると、人間は対処の仕方を覚えます。不確実性のリスクを抱えながらも、効果と安全性との様子を見ながらのワクチン接種が始まりました。それにより、感染者の拡大が収まらないままにも、経済活動を再開させ、今に至っています。しかし生命のリスクを抱える人々が多数いることについては、慎重な対応が求められているのが実情です。老人福祉施設では、非常に厳格な束縛の中での生活が続いており、親に面会もできないというような事態が続いています。
 
社会は、いわばひきこもりの状態がキープされている、と見なす必要があります。それは、歴史の中で実は度々起こっていたことなのですが、現代人は、それをただの昔話のようにしか考えていなかったと思います。そのツケをいま味わっているのだと言えるかもしれません。
 
イエスの弟子たちが閉じこもっていたという記事について、ようやく私たちは少しばかり共感する資格を得たような思いがします。
 
◆教会の問題
 
国家と国家、民族と民族の間においても、なにか「閉じこもり」のようなものがあることを私は感じています。それぞれの陣営が、自分たちの論理だけを正義だと主張し、相手の考えや立場のことを全く意に介しません。コミュニケーションが成立しないのです。駆け引きと圧力くらいならまだよいほうで、武器と暴力で殺戮という手段が飛び交っているのが現実です。人間世界では、互いに対話ができないこうした有様があり、それを「閉じこもり」のようなものだと、ここで理解しておきたいと思います。
 
そこへいくと、キリスト教会は、誰でも重荷を負うものは来なさいとか、分け隔てなく人を受け容れますとか言って、オープンであることを善しとする教えを聖書の中に見出して、門を開いて構えていることができる素地をもっていると思います。
 
でも、本当にそうでしょうか。実は教会こそ、ひきこもっている張本人ではないのか、と問い直す必要について、最後に考えてみたいと思います。でも、それを具体的に挙げていくことは、遠慮します。露骨に指摘しなくても、自らそうなのだと反省して気づくことができる、それが教会というものだと私は信じていますから。いや自分たちは正しい、ほかが間違っている、と断定して主張するところがあるなら、それはもう教会ではなくなってしまっていることになります。キリスト者ではない、ということになるのではないかと私は危惧します。
 
教会がロックアウトしてどうなるのか。そう、教会には来ないでください、と緊急事態宣言のときに教会堂を閉鎖したのでした。人を招く教会が門を閉ざし、あまつさえ、「礼拝を中止します」とまで宣言し始めたのでした。私は、集まることは避けはしても、礼拝は決して中止されてよいものではない、と訴えました。そのことには、多くの人が次第に気づいていったと思います。
 
そこからリモート礼拝やオンライン礼拝といった奇策も飛び出し、それまで病気で外に出られなかった人たちには朗報となりました。むしろどうして、これまでこうしたことができなかったのかと思われるほどでした。仏教の方で、法事をパソコン通信でするという先進的なところが以前ありましたが、世間の声としてはかなり非難されていたのを思い出しました。それがもはや常識となってきたとなると、あの法事を始めたお寺さんは、時代を先取りしていたことになりそうです。
 
こうして教会は、再び人々開かれていった……でしょうか。否、そもそもそれ以前に、心理的にひとを排除するような構造や潜在意識はなかったでしょうか。これも、私は具体的にはどうのこうのと申しません。異質のものを排除する姿勢、あるいは表向きどうぞなどと言いながら、決して相手の立場や思いを尊重としないような姿勢があるのではないか、そう自問して戴きたいと願います。
 
◆ロックはきかない
 
見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。(黙示録3:20)
 
黙示録で、ラオディキアにある教会に送れとヨハネが命じられた、その手紙の中にある有名な箇所です。神の霊がこのように書き送れと命じました。戸口の外に立って、戸を叩く神。私たちはそこにイエスの姿を見てよいかと思いますが、その方は戸を押し開けて無理に入って来ようとはしません。誰かがこの声を聞いて戸を開けてくれないだろうか、と待っています。入ろうと思えば入ることができるはずなのに、戸の外で、開けてくれるのをただ待っているのです。
 
「北風と太陽」というイソップ寓話がありました。旅人の外套を脱がせようと競う、北風と太陽。北風が力任せに吹き飛ばそうとすると、旅人はますます堅く身を守ります。次に太陽が辺りを照らすと、旅人は自ら外套を脱ぎました。「説得は暴力に勝る」というのがその寓話の教訓なのかもしれませんが、神がこの太陽に似たものであるとすると、暴力を揮うことは適切でないということを知ることができます。
 
恐怖からではありましたが、閉じこもっていた弟子たちは、いつしか心をも閉ざし、頑なな心理状態であったと思われます。この弟子たちのところへ、イエスは暴力的にではなく、むしろ愛を以て、いつの間にか真ん中に立つという方法をとりました。こじ開けることは神はなさらないけれども、必要なときには、スッと心の真ん中にでも入って来てくださるのです。外で待つか、真ん中に入ってしまうか、それはもう、神の自由というほかは言いようがないものなのであって、私たち人間にはどうにもできない領域のことだと思います。すべては神の思いのままに。
 
ですから、私たちは自分のほうで神を追い出すことはできません。神をロックアウトすることはできません。神にロック、すなわち錠は利かないのです。
 
だったら、もっと肩の力を緩めようではありませんか。頑なに押さえて何かを守っているような、その外套を握る手を緩めましょう。何にこだわっているか分かりませんが、そのこだわりの自分の殻を、脱ぐがよいのです。
 
イエスは、聖霊を吹きかけました。もう神はいつでも傍にいるのだから、と聖霊を送りました。そして、赦すために遣わすのだと言いました。もう心に鍵をかけなさんな。ロックは必要ないのだ。心の窓を開けよ。外へ行け。――イエスは聖霊をくださったのです。外に目を向けましょう。もう、すっかり春です。



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