言葉にならない

2022年4月20日

詐欺師の語りというのは、話だけ聞いていると、尤もらしく聞こえるものである。後から振り返ればその誤りに気づくこともあるし、書いたものを冷静に読めば、騙されないという場合もあるだろう。歴史の中で、集団催眠にかかったように、国民がひとつの破滅的な空気の中に取り込まれ、その空気をつくっていったということを、私たちは悲しい経験として知っている。だが、知っているからといって、それを免れているというわけではない。
 
語る者は、実は決定的な嘘や誤りについては、口に出していない。「こうすれば必ずもうかります」と言ってしまわないのが、賢い(とは語弊があるが)詐欺的商法である。「こうすればもうかる可能性が高いのです」とだけ言っておいて、聞く側が勝手に、「きっともうかる」に変換してしまうように運ぶのである。すると、結果的にもうからなかった場合は、買ったほうの自己責任ということになってしまう。「必ず」と嘘を言ってはいないからである。単に「騙っている」と指摘しづらい場合も確かにあるのだ。
 
語るというのは、語った言葉が、時間の中で次々と過去になるという現象である。だから、何か疑わしいようなことを言っていたとしても、次の言葉を認識しているうちに、聞き手のほうで情報を補うことがある。都合のよいように解釈して、先に語られた疑惑については過去に流してしまうという事態が起こりやすいのかもしれない。他方、この詐欺師の語る内容を、すべて書き言葉にして眺めたとしたなら、最初のところを読み返すことができる。注意深く読むならば、怪しいことに気づく可能性が高まると考えられる。それでもなお、偽メールや偽サイトによる被害が後を絶たないので、書かれていたなら騙されない、というふうに言うつもりはないけれども。
 
さて、教会での説教について、気をつけたいことがある。それは、聞く信徒のほうが、聖書の知識を持っているがために、語るほうがただ作文を読んでいるだけでも、「きっとこういう聖書の福音を語っているのだ」と、好意的に補って聞いてしまうことである。
 
つまり、語る者は実は福音を知らない。神と出会った経験がない。自分では命を伝えることができない。だが、聖書についての知識はそれなりにある。たとえば牧師の子どもであったら、小さいときから聖書の話のシャワーを浴びて育っているわけだから、聖書の用語も、何をどう言えば人が肯くのかということも、熟知しているわけである。こうした情況で、教案誌や、ネットで調べた誰かの説教から得たヒントなどを、尤もらしい作文にして読むと、聞く側が勝手に「よいお話」だとして聞いてくれるわけである。
 
聞く側は、それぞれに神との出会いがあり、信仰があって、自分の信仰体験を以て、いま聞いている話の穴を自分の側で埋めている、という構造がそこにあることになる。だから、その説教自体に何ら命がないという事実に、気づきにくいのである。
 
具合の悪いことに、そこまで丁寧に説教を聴く人がめったにいないという現状もある。また、説教要旨などが週報に印刷されているだろうか、それも、じっくり読む習慣のある人は少ない。読んでみても、読む側で情報を補って、神の恵みを感じるほうに進んでしまうので、その文章のおかしさそのものを指摘しようとする気持ちにはならないものである。
 
ところが、聖書をまだよく知らない人が、その説教要旨を丁寧に読んだとする。すると、気づく場合がある。その文章が、何を言っているかさっぱり分からない、ということに。ただ、聖書はよく分からない本だ、という程度でただ教会から姿を消すだけだろうから、教会はせっかくの指摘してもらうチャンスも得られないことになる。
 
たとえば、「いまこれはAだと言われています」と、さもそれが真理であることが決定されたかのように書かれてあり、「つまりそれはこうです」と説明し、その次の文で、「このゆえにAでないと主張する人もいます」と書かれてあるとする。普通に読むと、意味が分からない論理である。
 
もともと国語能力に問題がある人、あるいは文章を書くことによほど慣れていない人は、こういうことをするかもしれない。このような明らかな論理矛盾でなくても、言葉がどう修飾されているか、全く気を払わないような書き方をされると、読み手は苦労する。その文章から意味を読み取ろうと努めると、どれがどう修飾されているのか、パズルのように読み解かなければ正しい意味を知ることができないからである。
 
小中学生の入試作文をどれほど添削してきたか数えたことがないが、そのとき私は、言いたいことを伝えるには、どういう文を書いてはならないかを教えてきた。それで、文章が苦手な子の心理も、いくらか分かるようになってきた。たとえば、読点を殆ど打たないような子が一定の割合でいるが、その子に読点を打つように促すと、不自然で奇妙な場所に打つことが多いものである。つまり、読点というものの働きがそもそも分かっていないから、打つことを避けていたように推察できるのである。
 
こんなことを言うのは、私自身が文章がうまい、などという意味ではないし、言いたい気持ちも全くないくらい、恥ずかしい。ただ、入試では、このような言葉や文を書いてはならない、というルールがあって、それを直すことを生業の一部としてきた、ということである。
 
一文が長くならないようにする。あれこれふらふら書かず、筋道の通った作文を書く。論理が通らないのは問題外。形式名詞の「こと」「もの」はひらがな書き。主語と述語の呼応に注意。同じ表現については、漢字かひらがなか、表記を統一する。そして段落のはじめは一マス空ける。――こうしたことのすべての欠陥が、高々原稿用紙4枚の中に存在するような説教要旨が、世の中にありうるだろうか。誤字脱字がないか読み返すことをしたとは思えない(筆記においては一文書くごとにさせる)。
 
実際、私も誤字脱字、変換ミスは頻繁にある。読み返しができていないことも多々あるので、自分のことは棚に上げて言うしかない。それでも、もし私が説教要旨を公的に公表するとなると、さほど長い文章でもないわけだから、間違いは恥ずかしいと思い、何度も読み返すだろうと思う。特に、説教デビューでもしようものなら、もう目を皿のようにして、原稿を何度読むか知れない。字の間違いや奇妙な文は、信用をなくすからである。
 
もしも説教要旨に毎回奇妙な文章や言葉の間違いが印刷されているとしたら、その原因は何であるか、推測してみよう。2つ、思いついた。その人は、全く読み返しもしないのだから、どうでもいいものとして説教というものを考えるというように、無責任なのではないか。神の言葉を扱うという意識が全くないのである。あるいは、読み返しても奇妙さに気づかないほどに言語能力に欠陥があるのか。このどちらかであるような気がする。
 
もしそのどちらでもないとしたら、どうだろうか。可能性はある。それは、それが命のある文章ではないからである。命のあるというのは、自分の中で生まれ、つながった論理や感情や信念により成立した文章だという意味である。つまり、深くその内容を知ることがなく、よく意味も解せず、コピペのような仕方で一続きの文章を形だけ仕立て上げた場合、上のようなミスが頻繁に現れるわけである。だからコピペをすると、読み手には分かってしまうということを、学生は知っておいて損はないだろう。
 
もうひとつ付け加えるならば、この説教という場において、命がないという意味は、まさに文字通り、神の命が、書く者にない、という意味ももつことがあるだろう。皮肉なことに、というか神は真実であるから、そのような場合でも、聞く側がそれぞれの信仰において空白な部分からも、恵みを受け止めるようなことも、実はありうると思う。説教自体は何の意味もなくとも、開かれた聖書の言葉だけから、素晴らしい霊を受けて力をもらう、ということがあってもいいし、あらまほし、である。
 
でも、だからといって、このような命を語ることのできない説教というものを、教会で認めておくことは、適切ではない。やがて教会全体も、命がなくなってしまう可能性が大きくなると懸念されるからである。



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