映画「Coda」

2022年4月18日

遅ればせながら、映画「コーダ」を観た。それまでも観たいと思っていた。が、妻と一緒に観るにしては、上映が一日ひとつだけで、その時間帯が厳しかった。それが、アカデミー賞作品賞などを受賞したことで、上映回数が増えたために、やっとチャンスができたのだった。
 
「コーダ」とは、CODA、すなわち Children of Deaf Adult であり、「ろう者の子」という立場の人のことをいう。しばしばろう者の手話を使うが、家族の外での生活では音声言語を学ぶこととなり、ろう文化と聴者の文化とを両方備えることになると思われる。しかし、自分がコーダであることを公表したがらない人も少なくない。
 
主人公ルビーはコーダである。それでいて歌唱力のある俳優が選ばれる。エミリア・ジョーンズは、この映画のために手話を覚えた。コーダは、母語と同然に手話を取得するので、その役は困難だったはずである。他の家族三人はすべて、ろう者である。この三人は、ろう者あるいは聴覚障害者の俳優が演じている。それぞれ役者経験は豊かである。母親は、映画『愛は静けさの中に』の主演だったと聞けば、思い出される方もいることだろう。ろう者の役のリアルさは言うまでもない。しかし娘ルビーの手話も、見る限り見事だった。現実のろう者との実践は、ただの「手話指導」とはまた異なるものなのであろう。
 
いわゆるネタバレは起こさないつもりだが、予告編などで紹介されている程度のことには触れてよいだろうと思う。それと、私の懐いた感想についても。
 
一家は漁師である。物語の始まりは海の場面であったし、終わりを飾る歌も、海の歌だった。海は、ろう者のひとつのシンボルである。それは、音のない世界。視覚的に優れたろう者の中には、絵画の分野で優れた作品を描く人がいる。その中には、海の中の絵をテーマとしている人もいるくらいだ。そして映画を鑑賞する聴者も、その世界を体験させられる時が、映画の中で訪れる。それは、それなりに理解していたつもりの私たち二人にとっても、驚かさせるような経験となった。
 
アメリカ社会を理想化するようなつもりはないが、ルビーを指導したV先生、これがまた良い人だったのだが、移民系であるらしい。ルビーの痛みを、彼女がコーダだと知る前から理解し、コーダではないか、と尋ねるシーンがあった。このようなシーンは、日本を舞台にしては決してありえないだろうと思った。
 
日本では、ろう者対聴者という図式がどうしても大きく設定されている。だが映画が描くアメリカ社会は、そうではなかったように見えた。もとより移民や他民族によって成り立つ国家である。違うことを前提として、どうやってつきあっていくかということで作られた社会ではないだろうか。ろう者は偶々音声言語使わないだけのことであり、音により情報を伝えるだけの社会を作ることは間違いであることを知らしめる存在でもある。しかし聴者と対立するのではなく、偶々そうした性格の人たちであるだけなのであって、共に生活していく仲間であるのだ。漁業組合の集会でも、横にルビーが通訳としているのも自然だし、意見を言い賛同を得るのも自然であった。ろう者が社会生活にいるのは、全然特別なことではないように見えた。事実、その後このろう一家の呼びかけによって、人々の生活が大きく変わっていく。
 
最後のほうで、ルビーが音楽大学の試験のために、歌う場面がある。これからご覧になる方にとっての感動のシーンを薄めないために、詳しくはやはり言わないが、彼女は歌唱しながら、手話を使い始める。
 
日本で「手話歌」というのは、ろう者に評判が悪い。コロナ禍での合唱不可といった情況で、手話で校歌を、などというニュースが、美談のように報道されている。また、手話に親しむために、聴者のグループはすぐに「手話歌」を使う。だが、それは聴者の自己満足に過ぎず、「振り付け」のようなものである、と厳しい批評が飛んでくるのである。
 
教会でも、「手話賛美」をする時がある。これは、メロディに乗せて手話を使うので、実にゆっくりとした動きであるため、手話を学ぶのに、確かにひとつの方法ではある。だが、これもまた、自己満足と振り付けであると言われれば、それまでである。ろう者の手話賛美は違う。それは神に見せるもの、神に伝えるものであって、確かに「賛美」なのである。
 
映画「コーダ」に流れるこの歌の手話は、もちろん、こちらの世界に通ずるものであった。
 
教会は気軽に「共に生きる」などというスローガンを掲げるが、ともすればそれは、教会側の自己満足に終わる危険をもつ。自分は善いことを言っているぞ、という自負を育む結果にしかならないこともあろう。困窮の中にいる人を訪ねてそう言った後、その夜は、自分だけ腹一杯になって温かい布団で幸福感の中で眠るのだ。もちろん、これは私自身の自己批判として述べている。イエスが「偽善者め」と突きつけてくる場面では、いつも自分のことを言われているような気がしているからである。ここで書いているようなことについて、ただの私の思い込みに過ぎないという非難を受けても、それが適切であれば受容するしかないと考えている。
 
ずいぶんと意地悪な言い方をして、不愉快になった方も多いだろうと思う。だが私たちは、差別にまみれている。誰かが差別している社会、という意味ではない。自分が、気づかない中で差別をしている当人である、という意味である。ろう者は、聴者に憐れんでもらいたいのでもないし、特別に助けてほしいのでもない。善行の手段に使われようとするなど、まっぴらであるだろうと思う。ただ、普通にそこにいて、普通に暮らしていけたらよいのではないか。そのために、必要なのは、コミュニケーションである。一見障害がないように見えてしまうろう者や聴覚障害者は、だからこそなお、コミュニケーションが途絶えていることが最も問題であると思われる。
 
こういうわけであるから、ろう者役にろう者の俳優を用いないようなドラマ制作の姿勢は、ぜひ変革を考えて戴きたいと私は考えている。何十年前とは異なり、いまはろう者の俳優や劇団員、教師などがたくさんいるのであるから。
 
なお、ASLを知らなくても、映画はろう者にも比較的なじみやすいだろうと思われる。日本語字幕があるので、ストーリーそのものを見失うことはないだろう。ろう者にとり、字幕の出ない邦画(稀に字幕付きが上映されることもあるが、早朝などとてもスケジュールを合わせられるものではないという苦情を聞く)はとんと関心が湧かないが、字幕の出る洋画は、楽しむ方が多いのである。



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