この日
2022年4月10日
一年前の日のことは、忘れるわけにはゆかないし、忘れることができない。それはとてもナーバスなことなので、逐一ここで明らかにするつもりもない。ただ、リスペクトは精一杯したいので、こうして謎めいた書き方をするという、わがままを致す。
日付は容赦なくやってくるし、日付を思うと、あの時にたちまち戻る。忘れたい時に忘れられるなら、人間はどんなに心が楽になるだろう。忘れたいがために仕事に没頭もするし、気晴らしもする。酒に溺れるのも、そういう事情の場合がある。
災害を思い起こさせる映像を、報道機関は繰り返し流し、災害の記念を遺すことが必要だと声高に叫ぶ。私のこの文章もまた、誰かに辛いことを思い起こさせているから、同じ穴の狢である。
けれども、故人を偲ぶという言葉があり、その人を心の中に生かし続けるという営みも、きっとある。その人はいないのだ、と誰かが無粋なことを言うかもしれない。でも、違うだろう。多くの文学作品やドラマ、映画が、そうではないのだ、と語っているように思う。
文学を、国語教育からできるかぎり追い払おうとする動きがある。経済のために、文学を駆逐し、英語のエリート教育を目論む。だが、ひとを生かすのはパンだけではない。精神論はいまや画餅であり夢物語のように扱われてしまうようになったが、「こころ」を売ってしまったら、ひとの中にどんな「いのち」が残るのだろう。
聖書は、頑としてこのような問いを呈し、ひとの生き方や考え方が、売られてしまわないように尽力しているのだと思う。私が聖書を離れられないのは、聖書を通じて、神がそのことを語りかけているからであり、そこから「いのち」をこの「こころ」に注ぎ込み続けているからである。
この日、私は大切な「いのち」を知らせたい。「こころ」を護ることに寄与したい。嫌な思い出を引っ張り出されて辛い人には、ただ謝るしかないが、それでも、その人にも何かが伝われば、と願うことは、やめない。