カルト宗教に注意

2022年4月6日

息子が大学生となった。入学式には、学生は入ることができたが、保護者はだめだった。そのためいまはネット配信というものがあり、家でそれをずっと見ていた。
 
式の後のオリエンテーションまで配信してくれ、学生生活の注意などがアナウンスされていた。その中でまず、気をつけてほしいということで、そのために制作されたアニメーションがひとつだけ流された。アニメとは言っても、紙芝居的なものだったが、ストーリーも声も、なかなかよくできていた。
 
一人暮らしの大学生活を始めようとする女子が、LINEを通じて声をかけてきた先輩と会うようになるが、そのとき聖書の勉強をしないかと誘われる。こうして「カルト宗教」に取り込まれそうになるのだが、友人や学生課の職員の協力で、事なきを得た、というストーリーである。
 

z 聖書をネタに使われているので、もしかすると「聖書」は怖いという印象を与えかねない点は残念だったが、確かにうまく作られていた。もちろん、このモデルは、分かる人には分かるのだが、いまなお大学新入生あたりを狙う動きは、なくならない。
 
お人好しの息子に、夜、今日の入学式のことを尋ねる中で、この点に触れるようにした。その会話をここに収録するつもりはないが、皆さまの中には、免疫のない方も多いかと思うので、アドバイスをしておくことにする。
 
聖書について学ばないか、のような誘いかけがきたとき、
・自分は教会に行っているとか、聖書を知っているとか、決して言ってはならない。
・正しい聖書のことを教えてやろうなどと考えてはならない。
・自分はちゃんと聖書を学んでいるから大丈夫、と考えてはならない。
・むしろ、自分は大丈夫ではない、という前提で接すること。
 
時代劇やヒーローものの番組と違って、自分たちは「悪の組織だ」などと言う者はひとりもいない。否、かの組織のメンバーですら、自分たちは善いことをしている、と思い込まされているからこそ、堂々と誘えるのだ。法を犯してもなお自分たちのすることは正しい、と信じ込まされているのが普通なので、話せば分かるなどと考えてはならないのである。
 
この4月から、新入生は「成人」である。以前だったら、サークル的なカルト集団に引きずり込まれても、親が出ていくと法的にまだ勝負ができた。しかし今からは、それが難しくなることが予想される。親が護ってやれることに限度が設けられることになる。となると、彼らからすれば、これまでにないチャンスなのである。
 
私が最初に足を踏み込んだ教会は、カルトと呼ばれても仕方がないような組織だった(だがそれも導きであったことは確かなので、それを悪いことと呼ばわるつもりはない)。そこから出るのに、けっこう戦った。京都は、いわゆる異端やカルトのひしめく街である。そうした人に呼びかけられたり訪問を受けたりすることは多々あったし、今思えば危険だったが、一晩議論したこともある。
 
彼らは、本物に限りなく似た形をとる。キリスト教や聖書についてよく知らない人がその話を聞けば、かなりの割合で引き入れられることが予想される。自分は大丈夫だと思う人こそ、危ない。彼らはクリスチャンが相手となると、どうするとよいのか訓練を受けているので、それを明らかにすると、カモにされるのだ。
 
尤もらしいことを言っていても、偽物が、どのような点で話を「ずらし」にかかるか、どう責められても「ごまかす」術をもっているか、経験的に分かるようになった。それは、私自身の中に、そうした醜くどす黒いものが渦巻いており、自分の中の汚さというものを、目を逸らさずに見つめようと努めてきたことも関係しているだろうと思われる。
 
それでも、そんな私をある時まですっかり騙していた者もいて、私も教会も痛い目に遭ったことがあるから、私も自分を過信するつもりはない。ただ、浅薄な偽物については、間違いなくそうだと指摘することはできる。もちろん私は、むやみにひとを悪く言うことは基本的にしないので、たいていは慎重に様子を見ている。むしろ大抵は好意的に見るあまり、ひとの評価については甘すぎると批判されるほどである。ただ、一目で偽物と分かる時には、最初からその姿勢で観察し、次々と入ってくる情報が悉くそうであることを物語るのを知ると、きっぱりと言う。私がきつく言い切るというのは、よほど奇妙な事態が起こっているということなのである。
 
いままた、そういうことが起こっている。分からない人には、分からない。分かる人には、簡単に分かる。本物と偽物というのは、そういうものだろう。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります