役員決めからの逃れ道

2022年3月31日

最近は少しずつ、改善されてきている、とはいう。小学校や中学校の入学式に出席した保護者を待ち受ける、あの一刻も早く逃れたい雰囲気である。いったいどうして自分は入学式に来てしまったのだろう、と後悔の念すら起きる時。PTAの役員決めのことだ。
 
なりたがり屋がいると、うさんくさく見られた時代もあったかもしれない。だが、たいていの場合、沈黙の時間が続く。担任教師が、最初はにこやかに切り出して、こんないいことがあるのですよ、と話し始めるが、それに心動かされる人などいない。やがて、教師の眉が上がり、とにかく決めなければ終われませんから、などと脅しめいた空気すら流れ始める。小さな子が家にいて、とか、父母の介護が、とか、ぼそぼそと理由を口にしたところで、なんだかんだと否定されてしまう。重苦しい空気が沈滞する中で、最後はくじ引きという、必ず決着のつく方法が出されたら、人間の運命がこうも簡単に定められるものかと悲劇と喜劇とが生まれる道が敷かれてしまったことになる……。
 
同じPTAという名前で示されはするが、発足当時、あるいはけっこう盛んだった時代とは意味も背景もずいぶん変わってしまった。明治以降なのかもしれないが、母親が家に一日いる「家内」であることが一般的だった時代ともまた違う。教諭も厳しい管理の下に置かれ、ブラックとも呼ばれる労働環境の中にあることが分かってきた。日本語が十分伝わりにくい親も珍しくなくなったし、親同士のいじめのような事態さえ起こる。PTA役員となると、無料奉仕の損な役回りとしか考えていない人が大多数となっている。
 
経験者がもう選ばれなくてよいというルールが出されると、口を揃えて、最初はどうかと思ったがやってみると実に良かった、という声が出てくる。この辺りが、もうすでに人間関係を破壊しているのだ、とも言える。
 
教会でも、役員決めがある。私はまだ比較的若かったこともあるし、自分のもつものが教会のために活かされるということは、素朴にうれしいと思った。あるいはまた、自分のできるこのことは、教会のために貢献できるのではないか、という気もした。第一、神の意に適うと目される奉仕は、信ずる者にとって、喜びであった。
 
カルト宗教では、このような信者心理が最大限に利用される。傍から見れば、骨の髄まで搾り取るようなふうにして、その純朴な思いが利用されるのだ。だが、それに疑いが芽生えるようになると、つまり少しでも客観的に事態について気づくようになると、それまでにこにこしていた上層部が、牙をむいてくる。
 
思うに、教会が神の命に生かされており、ひとを大切にする愛の原理で満ちているときには、仕えること、つまり自分のもてるものをそこで用いてもらおうと思うのは、とても自然なことである。まさに自分もまたその命に生かされているのだから、自然につながり、包まれるというのは、納得のいくことに感じられるだろう。
 
しかし、教会がその命を失って、ただの組織的運営をするばかりになると、人間をただの歯車のように使うことになりかねない。まさかとは思うが、教会の役員を辞退したいという申し出があったときに、それはできない、と組織的に命じるような教会は、ないことを願う。ファリサイ派の組織なら、あるかもしれないけれども。
 
PTA役員を選ぶくじに当たった人が泣き伏すというような事態になったとき、周りの者は、せいぜい自分が生け贄の小羊にならずにすんだとほっと胸をなで下ろすのかもしれない。泣き伏す人に同情はしても、もうそれは決まったことだと、腫れ物に触れるようなことはしないだろう。
 
怖いのは、誰か特定の黒幕がいて、そいつの意志で操っているという構造ではなく、誰もが得体の知れない何者かに操られるかのようにして、ひとつの空気をつくり、ひとつの色に染めていき、それを以て唯一の正義であると決めつけていくことだ。事態は多数決により唯一の正義だけがそこに居残ることになる。
 
でも、その得体の知れないものに操られない誰かが、どこかでその人の味方でいてくれる。これを信じられるのが、信仰の強みだ。少なくとも、イエス・キリストという方がいる。そして、同じイエス・キリストでつながっている、別の祈り手が、きっといるものだ。キリストにつながっていることで、そのキリストに真につながる同胞とも、つながっているのだ。助け手が、知恵が、与えられると信じている。



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