とりあえず
2022年3月21日
とりあえず
全員
悔い改めよ
教会の前方に大きな文字で貼ってあるこの文字が、SNSに出ていた。かなりウケて、くすくす、というようなコメントが続いた。
でも待てよ。笑うというのは、これを冗談だと受け止めたのだろうか。ユーモアに満ちた表現だと思ったのだろうか。
だって、「とりあえず悔改めよ」って、おかしいじゃん? 別にどうでもいいから、なんか悔い改めてみなよ、と言っているみたいでさ。
そうかなあ。「とりあえず」って、どういう意味なのかしら。それは元々「とるものもとりあえず」からきていると一般に考えられている。「とりあっている場合ではないから」とでも言えばいいだろうか。「じっくり対処を考えている暇はないので」のような気持ちを表す。つまりは、「大急ぎで」「大慌てで」といったところなのだ。
感覚が違うとのお声が聞こえてきそうである。「とりあえず」とは、「暫定的に」ということではないのか、と。他に重要なことがあるわけではないので、さしあたり、一応やっておう、という時に使うのではないか、と。
もちろんそのニュアンスも、私たちは知っている。あるいは、たしかに現代はそのような理解で「とりあえず」という語を使っているかもしれない。だが、「とるものもとりあえず」については少なくとも、「急いで」の意味なのである。
この古い形で、最初の教会の掲げた言葉を振り返ってみよう。
とりあえず
全員
悔い改めよ
さあ、急いで皆、悔い改めなさい。おお、これはいい福音だ。明日考えてみようというのではない。
今日、あなたたちが神の声を聞くなら、
神に反抗したときのように、
心をかたくなにしてはならない。(ヘブライ3:15)
今日、神の声を聞いたならば、すぐに行動に移す必要があることが言われています。明日に延ばすようなことをせず、神と出会う体験をしたなら、今すぐ神に立ち返り、神に従う者とさせてもらわなければならない。いま、この時だ。
言葉というものには、元来の意味や謂れがある。それは、その文化が生み、育んだものである。聖書の言葉を、研究材料として読む人もいるし、ステイタスを高めるための教養書として読む人もいる。だが、それを命の言葉として受け止める読み方をするならば、元来の意味にアプローチしなければならないだろう。自分が使う言葉の意味に狭めてしまってはならない。近頃は、「つぶやく」という語が悪い意味をもっているということを、知らない若者がいるというが、それでは聖書を勘違いしてしまう可能性だってある。
文化的背景を弁えることは大切だ。自分が生まれ落ちて知っている文化だけにしか通用しない意味をのみ知っているというのでは、危ない。自分が勘違いして思い込んでいる勝手なイメージだけで言葉の意味を決めつけていたら、非常に危険だ。自分の甲羅に似せて穴を掘るのであってはならない。自分の見えるものだけがすべての真理の基準だなどと強弁してはならない。それでは、神を自分の欲望に従わせることになってしまう。
誰かに神の言葉を語るとき、自分の中から溢れるその言葉からさえ、自分が何か教えられること、気づかされることがある。それが、もしかすると、聖書の言葉がもたらす命というものなのかもしれない。誰かを生かすために用いようとする聖書の言葉が、自分を生かすことにもなるのであるから。
とりあえず、そのことを言いたかった。