【メッセージ】たたかう相手は誰か
2022年3月13日
(コリント二10:1-8)
わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。(コリント二10:3)
◆まるで二重人格
ハンドルを握ると人が変わる、そういう話を聞いたことがありませんか。この人、こんなんだったの、と同乗者が驚くことがある、と。多かれ少なかれ、ハンドルを握ると、他の人が知らない面が出てくるのは、かなり本当だと思います。荒々しい運転をするような人には見えなかった、という場合もあるでしょうが、私の場合には、他の車の運転にケチをつけることがあります。でも、弁解すると、ひとりで運転している時には口には出しません。いまどういう情況であるのか、同乗者に説明するために呟いていることもあるのです。
あら、そう言うほど、いかにもの弁解かもしれませんね。それにしても運転する人の意外な一面を見た同乗者は、いったいどっちが本物かしら、と思いたくなるでしょう。ふだん隠しているものを知ってしまった、とショックを受けることがあるかもしれません。でも、当人としては、どっちが本物かと言われても、困ります。どっちも自分なのであって、少なくとも自分の中では矛盾など感じていないわけですから。
今は車の運転の場面を想定しましたが、運転者の本音のような部分が出たとしても、それは同乗者にしか知られません。ところが、全世界の人に露わにしている人が、近年やたら多くなりました。
そう、いわゆるSNSです。暴言を吐くのは、自分でも分からないのでしょうから哀れですが、さすがにキリスト者で牧師や役員経験者には、たくさんはいません。でも、いろいろ付き合いがありますと、そのものの言い方ややりとりで、まさかこんな人だったとは、と驚かされることがあります。
おっとりと話す人柄は見ていましたが、SNSでは、自分のしたいことに対して、思いやりからの注意を丁寧にした人に向けて、極めて短気に憤り、見下すような口調で一方的に悪口を言い、相手の言い分も聞かずにその人をブロックしているという牧師が実在しました。また、キリスト教関係で名の通った人だったのですが、SNSで実に口が悪く、やはりひとを見下すような発言を繰り返す人がいました。ふだん喋っている姿が実に腰が低いだけに、これはたぶん業務上の演技なのだろうと判断せざるをえませんでした。
◆パウロとコリント教会
パウロは、コリント教会からそんなふうに二重人格のように見られているという自覚がありました。
10:1 さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。
実際に会っているときには物腰が優しいと見られているのでしょう。しかし、書簡という形でパウロから連絡が来たときには、まあなんと激しいことを書いてくるのか。そんなふうに俺のことを見ているのだ、というふうにパウロは捉えていたわけです。
パウロは、高校の教科書にも登場する、キリスト教の大宣伝者。もしパウロの働きがなかったら、キリスト教は世界宗教にはならなかっただろうとも言われます。その後の歴史を変えたことには違いがありません。
キリスト教は、ユダヤ教の中から生まれました。ユダヤ教の旧約聖書に書いてあったことが、イエスという人物により実現したのだ、というのが基本的な信条です。ですから、そのままだとユダヤ社会のための教えに留まっていた可能性があったと言えます。それをパウロは、様々な事情があった故ですが、ユダヤ人ではない人々に、しかもそれ専門に、そのキリスト教を伝えることを始めました。
コリントというのは、ギリシアと呼べる地域にある、大都市です。ここにキリスト教を伝えたとき、おそらく富裕層が多かったと思われますが、パウロの教えは受け容れられ、信者の集まりができました。それを教会と呼んでいます。コリントに、その意味での教会ができました。パウロは喜んだだろうと思います。
しかし、その後パウロが別の街を旅しているうちに、コリントからよからぬ報告が流れてきました。教えが歪められているばかりでなく、あまりに不道徳なことが横行しているとのこと。パウロはそれに酷く立腹したことでしょう。そのため、「強硬な態度」を手紙の中でとったというふうに考えるのが自然です。事実、今日お開きした「第二の手紙」に先立つ「第一の手紙」では、ずいぶんきついことをコリント教会に突きつけています。
◆パウロってこれあり?
私はいつも思うのですが、もしもパウロがいまの時代にいたとしたら、このオンラインの世界をたいへん気に入っただろうと考えています。SNSがあれば、あんなに苦労して危険を冒して旅する必要もなく、瞬時に何万人にも福音を告げ知られることができます。そして、いろいろなカキコに顔を出し、えらく強く言い放ったのではないでしょうか。
架空の話なので、根拠があるわけではないのですが、私はきっとそうだと確信しています。パウロは、なんとかして福音を伝えたかったのです。こんな便利な方法があれば、黙って見ているはずがありません。それも、強い自信から、かなり激しい口調で、じゃんじゃん発信していたに違いないと思います。新約聖書の「手紙」でもあんなにきつい言い方を繰り返していたのですから。
そういうパウロの性質を、コリント教会の人々は見破っていたのでしょう。裕福で、教育も受けていた人が多かったであろう教会の人々は、それなりの矜持もあったことでしょう。いくらユダヤ社会ではエリートだったとはいえ、パウロを田舎者だと、少なくとも内心思っていたとしてもおかしくはありません。パウロは、地方から東京に来て神の教えを伝えた上で威張っている存在に見えたのかもしれません。あまり悪意にはとりたくないのですが。
それにしても、この辺りのパウロの書き方には、なにやら含みがありそうだとは思いませんか。先ほどの、「〜と思われている、このわたしパウロが」などというのも、それは「思われている」だけであって、実はそうじゃないんだぜ、という心理が隠れているように、見えてしまいます。
それに続けて、「キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います」ときました。いやぁ、私ならこんな言い方、絶対にできません。私が願うのは、「キリストの優しさと心の広さによるんですよ」なんて、どんな顔をして言えるでしょうか。もちろん、書くのも恥ずかしい。いえ、本当に気持ちが悪いとすら感じます。
それでいてやっぱり、自分を悪く言う者に対しては「勇敢に立ち向かう」と言い、「強硬な態度を」とることを示唆します。そして「不従順を罰する用意ができて」いるのだと告げます。尤もこれは、コリントの教会が完全に従順になったとき、他の奴らを、という言い方になっていますが、さて、どうでしょうか。不穏な分子が教会から消えることを本気で信じているようには、私にはどうしても見えないのです。
◆言葉の裏からぷんぷん臭うもの
かと思えば、これもどうかしら、と思う言葉が出て来ます。
10:7 あなたがたは、うわべのことだけ見ています。自分がキリストのものだと信じきっている人がいれば、その人は、自分と同じくわたしたちもキリストのものであることを、もう一度考えてみるがよい。
パウロをうわべで判断するな、と釘を刺しているのはまだよいのですが、「自分がキリストのものだと信じきっている人」という表現は、尋常ではありません。「信じきる」は、「信仰・信頼」の語と関連のある語ですが、そのように思い込ませる、といったニュアンスも漂わせています。ということは、この「キリストのもの」というのは、極めて主観的なものに過ぎないということになります。つまり、実際はそうではないだろ、という皮肉を含んでいるように解釈するのが自然だということになります。
「自分が聖人君子だと思っている人がいたら、給料を全部寄付してしまえばいい」のような言い方でもしたら、その相手とはもう完全にまともに話をするつもりがないようにしか思えないのではないでしょうか。
パウロが実際、対話を拒んでいるとは考えられないのですが、どうにも皮肉めいたもの、あてこすり、見下したような趣を感じざるをえないのですが、私がただひねくれているだけでしょうか。
それにしても「自分がキリストのものだ」と言えるのは、大した信仰です。それを目指すこと自体は悪くないと言えるでしょう。キリスト教国の首長が、そのような信念のもとにやっていることが、大変に危険であることを私たちは改めて知る思いがします。
首長という呼び方は適切ではありませんが、日本には天皇という「象徴」がいます。キリスト教会の中には、この天皇制に常に批判をぶつけるところもあります。古に「キリストか天皇か」と迫られたトラウマに基づくのかどうかは分かりません。人権問題を脇に添えることもありますが、現人神という懸念をしている場合もあるかもしれません。
政治的な判断をすることは、聖書を説くときには適切でないとしておきましょう。但し、太平洋戦争が終わったとき、この天皇制を護るために極めて重要な働きをなしたのは、キリスト者であったということは、考えの中にまず入れておくべきではないかと思います。その辺りの事情については、そのうち思い出されましたら、少しお調べくださればすぐに分かります。
◆権威と不従順
でも、それは権威に阿るだけのことであって、キリスト者はどこまでも政治権力に抵抗しなければならない、そのような信仰がしみついている方もいらっしゃるようです。個人的な政治思想には干渉いたしませんが、キリスト者はかくあるべし、との決めつけをもししているとすれば、それは残念なことです。
よく問題になる箇所がパウロの言葉の中にあって、それは、先の決めつけをする人にとっては目の上のたんこぶのようなものであるかもしれません。
13:1 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。
13:2 従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。(ローマ13:1-2)
ここに拘泥はしませんが、当時の社会的環境からすると、これはたぶん当然の見解でしょう。社会的権威が治安を守り、社会的正義をかなりの程度実現してくれているという点は常識の領域にあったのではないかと推測します。あるいは、そのように、人々が落ち着いた生活を営めるようにするのも、神からの恵みであるのだ、という視点を提供するものとして、案外斬新だったのかもしれません。聖書の言葉は、その書かれたときの情況ももちろん正しいし、それを受け取る私たちが、私たちの常識の中で捉える場合も、きっと正しいとしか言いようがないものだろうと思います。
私たちに国家や警察がなければ、どんなに危険で理不尽な世の中であったことでしょうか。政府に何から何まで反抗の態度しか取れない人は、そのように反抗がてきることも政府がしてくれているということに気が付かないでいるのだろうかと案じます。所詮、お釈迦様の掌の上を飛び回っていただけの孫悟空という姿は、常に省みる必要があろうかと思います。
神の正義が、確かに現実の社会で実現されているわけではないでしょう。だから少しでも神の正義の実現に近づくように、人間が努めるべきであるとするならば、キリスト者はそれに関与するのに吝かであってはならないものだ、こういうのは、生ぬるいようであっても、現実的な考え方であるだろうと思います。
するとやはり、そのような一定の社会正義に従うということは、適切だとするに値するわけです。実際、キリスト者は法的秩序に従った生活をしていることだろうと思います。だからまた、パウロも、このパウロが示す正義の秩序は、教会にとり大切なのだという姿勢を崩しません。ですから、それに無闇に逆らうことをよしとはしないわけです。
10:4 わたしたちは理屈を打ち破り、
10:5 神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、
10:6 また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。
あなたがたの従順は、果たして完全なものになることができるのでしょうか。もしかすると、そこにもパウロの皮肉が含まれているのかもしれません。手紙を読んだあなたがたが見事に従順になった暁には、あなたがたではない別の不従順な者が罰される時がくるのだ、と言っているように見えるからです。また、その次に直ちに、こう書いているのが何よりもその理解を支えます。
10:9 わたしは手紙であなたがたを脅していると思われたくない。
いますぐ従順になれよ。パウロはそのように、正に脅しをかけて突きつけているように聞こえて仕方がありません。そうしないとついにこちらの怒りが爆発するからな、と凄んでいるかのようです。これでは、「離れていると強硬な態度に出る」(1)というところにまた戻ってきてしまいます。でもそれがパウロの性分だったとしたら、どうしようもありません。その代わり、実際に目の前にくれは、愛を以て親しい交わりをする、というのは極めて常識的であるような気がしてきます。
◆肉についての注意
こうして私たちは、お開きした聖書箇所の後半部分を中心に読んできました。最後に、読み飛ばしてきた部分を考えるために、一つのキーワードを掲げて、もうしばらく大切なことについて目を向けることとしましょう。そこから、どんな力強い助けが現れてくるのか、楽しみです。
10:3 わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。
10:4 わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。
キーワードは、「肉」です。「肉において歩んで」いることを、パウロは前提のように認めているところにまず注目しましょう。不幸なことに、キリスト教の歴史の中で、「肉イコール悪」と決めつけにかかった考え方が、大きな影響を与えてしまいました。しかも、その場合の「肉」が、「肉体」だと思い込んだために、肉体と霊魂との対立の図式を生み出して、かなり受け継がれて現在に至っているのは残念なことです。
つまり、肉体は汚らわしい、という思いをもつ人が世の中にはいるわけですが、それを助長したり、時にまるめこんだりする輩をはびこらせることになっているのです。「清い世界」に憧れる人はいるものですから、一般のキリスト教会がせっかく霊肉の二元論を脱出していても、清さを看板にする怖いキリスト教的集団に吸い取られていくということを目の当たりにしたことがあります。
ここでもパウロは、「肉において歩んで」いると言っているのですから、これは悪いことと受け取る必要はないはずです。聖書での「肉」というのは、それだけで研究書がいくらでもできてくるほどの、重要で複雑な概念ですが、人間の体も心も含むような、生きているその命全体を考えているようなものだと言えます。パウロもここでは、「このように普通に生きているのですが」という程度の考え方をしているのであろうと思われます。それを次の表現との対比のために、「肉」という言葉を使ったのだと理解可能です。
つまり「肉に従って」戦うのではない、と言っていることです。「戦う」というそり相手は、パウロのことを「肉に従って」いると見て非難するような無理解な人々であり、コリント教会を乱している張本人だとパウロが指摘したい人々です。確かにその情況では、「肉に従って」いるじゃないかと言われたからそれに対抗するために、「肉に従って」非難したのでは、自己矛盾してしまいます。
肉に「従って」というのは、ギリシア語の前置詞からすると、ニュアンスとしては「下に」という基本の感覚がありますから、「肉の下に」という心づもりで見てもよいかと思います。パウロは「肉の下に」あるのではない、と言っています。それでは、その「肉」とは何なのでしょうか。
◆すりかえ
この課題に応えるためだけにも、多くの神学が生まれ、議論が生じます。ここでは全くひとつの可能性として、百の議論の中の一つとしてあるかどうかというレベルのものとして、ご理解ください。
その「肉」は、もちろん「肉体」のことではありません。肉体が悪いという思想は、基本的にないのです。私は今日それについて、「すりかえ」という捉え方を提言してみたいと思いました。「肉」とは、尤もらしいことを言い、また考えてはいるものの、実は巧妙な「すりかえ」が行われているような状態を含んでいるのではないか、ということです。
それには、キリスト者ならは皆知っている、簡単なことに目を向ければよいでしょう。福音書で、イエスを追い詰めようとしたのは誰だったか。イエスが酷く悪口を言うようにして攻め続けた敵は誰だったか。そう、ファリサイ派の人や、律法学者たちです。彼らは、何の悪いことをしたでしょうか。どんな律法違犯をしたでしょうか。
基本的に、ないのです。彼らこそは、律法をきちんと守ることに最高に熱心だったのであり、誰よりも律法に熱心だったのです。だから、律法を守れない人たちが許せなかったのでしょう。
自分たちはこんなに頑張って律法を守って生活しているのに、あいつらはなんで怠けているんだ、やる気があれば、どんな環境でもやれるだろうに。そんな低俗な者たちを庇い、助けるようなことをして、人気をとっている奴まで現れた。イエスというちょいと知恵のある男だ。律法を守らずしてそれでよいみたいなことを教えているとなると、これは大迷惑だ。何のために律法を守ることを神が命じたと思っているのか。ちょいとこらしめようとイエスに迫ったが、なんだかんだと理屈をこねて、こちらがまともにものを言えないようにのらりくらりとかわしやがる。律法を守るという基準からしても、あいつはけしからんわけで、万死に値する。
……何か、お気づきになりましたか。思うところが、ありましたか。コロナ禍の中で、初期に「マスク警察」とか「自粛警察」とか呼ばれる現象があったことを思い起こされ方もいたでしょう。あれはけしからん、とその「警察」を心の中で批評した人もいたことでしょう。
そこです。あなたは、その「警察」の思いを、懐きませんでしたか。一度も? 本当に? そして、このファリサイ派の人たちや律法学者たちの心情をいま聞いていて、あなたは自分のことを言われているように、感じませんでしたか。本当に?
だって私はキリスト者ですもの。イエスをそのように批判していた彼らは、自惚れていたのですよ。自分が偉いと勘違いして、律法を守れない庶民をいじめて、いい気になっていたのですよ。イエスにこてんぱんに批判されて当然ですよ。キリストは、そういう者たちをやっつけるためにこの世に現れたのですが、反感を買って恨まれて殺されてしまうんです。ただ、蘇ることでユダヤ人たちに一泡吹かせるんです。気持ちいいですね。
まさか、そんなふうに思った人が、いたでしょうか。いたとしたら、それこそが、「すりかえ」です。その人は、自分が神の正義の側にいるものと最初は思っていたかもしれませんが、いつの間にか「すりかえ」が起こり、あの物語のファリサイ派の人々や律法学者たちと、まさに同じことを、いまやっていたのです。しかもそのことに、気づかないで。気づかないからこそ、「すりかえ」なのでした。信じている自分こそが、イエスの福音の心からずれているのだというふうには、考えられないのです。この錯覚が、「肉」の巧妙な仕掛けであると私は捉えています。
◆信仰
「それはあなただ」と指摘するナタンの役割を私が演じたとしたら、それもまた傲慢です。しかし私はいつでも、自分は神の敵のような振る舞いをしているのだ、というところからスタートすることしかできません。それでもなお、神が手を伸ばして憐れんでくださるというところにすがるしか、能がない人間です。
信じていると公言するその自分こそ、ずらされている。「すりかえ」られている。神を信じているようでいて、結局のところ根本的に自分をしか信じていない時に、その罠に陥ります。根底において自分を信じているとき、この「すりかえ」に遭います。そして、自分をしか信じていないので、それに気がつきません。
この罠は巧妙です。悪魔は、だから手強いのであって、人が立ち向かえる相手ではないのです。自分は神を信じている、というその思いの奥底に潜んでいる「すりかえ」をうまく利用して、悪魔はその支配下に誘い込み、いい道具としてその人を利用しにかかるのです。
では、どうすればよいのでしょう。自分を根本的に信じているという、自分でも気づかない事態に陥らないようにすることは、相当に難しいことが予想されます。どうぞ祈ってください。幾つかの勝利の道があると思うので、祈りの中に教えられることを願っています。ただ、ここで私がお伝えできる道をひとつだけ、この機会に紹介してみようと思います。
それは、根本的に信じているという、その自分に死ぬことです。いえ、そもそもそのような自分がもうすでに死んでいる、というところから始めるならば、自分という偶像もなくなりうると期待できます。そう、パウロはあのガラテヤ書で高らかにそれを叫んでいました。
2:19 わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。
2:20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
この地上で「肉」として生きるのはよいのです。パウロのいう「死んだ」のは、そのような「肉」としてはまだ死んでいない時のことをいいます。自分はあのキリストと共に十字架につけられて死んだという信仰の体験があなたにあるならば大丈夫でしょう。しかし、「肉」の下で、つまり巧妙な「すりかえ」がなされているところでは、私たちは真の敵とは戦うことができません。自分の「肉」に気づかせて戴きましょう。自分はもう死んでいるという信仰を与えて戴きましょう。神の力、神の命が、そこに注がれます。