データの危険性
2022年3月7日
ネットでいろいろ調べていると、不思議な見出しによく出会う。次のようなものはぎょっとする。「日本人の三人に一人は離婚している」
そんなはずがない。ほかのを見ると、「日本人の離婚率は30%」あるいは「○○県の離婚率は45%」などとなる。
離婚率。なんだそれは。
開いてみると、どうやらそれは、その年の「離婚した人」÷「結婚した人」であるらしい。たとえば離婚件数が20万組で、結婚件数が50万組あったとしたら、40%だと計算して、先ほどのような見出しをつけているらしい(「婚姻」と表現すべぎだとか「千人あたり」とかいろいろ正確さを要するところもあるし、別居は勘定に入れないのか、外国人がどうだ等、統計の細かなことは一切いま問題としていないのでお許し戴きたい)。
ばかばかしい。その年新たに結婚した人と、その年離婚した人とを比べてどうなるのだ。結婚したままの人は一切無視というわけだろうか。たとえば結婚する人が減っているという事情を鑑みて例示するが、もし結婚件数が10万組に減ったら、離婚率は200%だとでも言うのだろうか。
何かセンセーショナルにものを言って注目されようとでもしているのか知らないが、意味のない比較から勝手に離婚率などと宣伝している。
婚姻関係にある人のうちで、離婚した人はどのくらい出現したのか、ならまだ分かる。その意味で計算離婚率は、アメリカ合衆国や韓国と比較しても、ことさらに日本の離婚率が高いわけではないようだ。離婚が増えたとは言っても、半数近くが離婚しているなどといった奇想天外な触れ込みに惑わされる必要は全くないことが分かる。
このような扇動的なデマが社会には飛び交うし、それに騙される人が後を絶たない。
そもそも離婚率というものも、統計の上では、人口千人あたりの離婚件数というのが公式のようであって、データとして用いた人により根拠が違うようにも見受けられる。だがそのすべてが「離婚率」という言葉で示される。これはまずい。
だから、私の持ち出すデータへの根拠についても、そのまま信用せずぜひ調べて戴きたいが、見つけたものでは、どうやら最近離婚が増えてきた、などという雰囲気的な文句に騙されないためにも、やはり触れておいたほうがよいことがある。
最近は道徳が乱れ、離婚が増えている、などと言って、だから清い宗教に入りましょう、というような一団がいるのである。すると、清さを求めている純朴な人がいて、そうだ世の中は乱れている、自分は清く生きるのだ、その場所はここかも、という心理に陥っていく。それはもちろん、組織の上層部は騙すために都合がよいと分かっていて利用しているのであるから、意図的にデータを捏造して、人の心を弄んでいることになる。このようなデータの利用は、実に罪深い。
最近ひどく離婚率が高くなったなどという思いこみは、やはり改めなければならない。私も十年かそこら前に知って、自分の知見のなさに情けなさを感じたのだ。明治時代の日本の離婚は、いまより間違いなく多いのである。その数字の出し方にはよく分からないところもあるのだが。
それは、法律にもよるらしい。「嫁して三年、子なきは去れ」(この言葉をご存じない方も増えてきたと思う。「かして」と読む)とも言われ、後継ぎが産まれない女は、しばしば姑に追い出されることが公然と認められていたのだ。また、何かと家風に合わないとかなんとか言って、簡単に嫁を取り替えることができた時代だった。朝ドラにも時折嫁いびりの姑や小姑が出てきたが、それをなにくそとはねのけるドラマは、現実にはまずなかったのである。それが、法律の改定によりやりにくくなって、次第に離婚が少なくなっていたものであるらしい。
だからというわけではないだろうが、後継ぎを重視する家制度の中では、どうしても子が産まれないときには、養子縁組を結ぶことになる。明治の偉人の中にも、しばしば養子で別の姓になった人が現れる。普通のことだったのだ。江戸期の武家も、家督の取り潰しに遭わないようにそういうことがあったことはよく知られている。だのに、日本人は血のつながりを大切にするから、養子は好まない、という文句が永遠の真理であるかのように言われることがあるのは、やはりただの印象的感情に過ぎないか、あるいは意図を以て人心を操ろうとするかのどちらかである。
ともかく、相手が数字を出してくると、いかにも科学的であり、真理であるかのように騙されやすい。問題を含むような言い方をすると曖昧で分からないなどと抵抗するくせに、ずばり断定的なものの言い方をする人のことは、分かりやすいと賛同する。非常に危険な兆候だ。かつての歴史の中から、その危険性を学ぶことが、なかなかできないのだ。
新型コロナウイルスの、特にワクチンについては、どんなに好き勝手なデマが流されていることだろうか。これは大変だ、と安易にシェアなどするものだから、さらにまたデマが拡散していく。そして、拡散した人に、罪意識はない。いくら有名なクリスチャンであっても、見事にそれがない。
情報が飛び交い、多様性が尊重される中に、取り返しのつかないかもしれないような危険性が潜んでいる。それは、私を、あるいはあなたを、例外としない。