正義と芸術

2022年3月3日

ロシア軍によるウクライナへの侵攻は深刻だ。傍らから眺めるようで申し訳ないが、ここからは祈るしかない。
 
だが、それに関して、「私たち」にとり、意識すべきことがある。それは、ひとつの意見や考えだけが正義のように見えてくるという危険である。緊迫した事態は、白か黒かの選択を自らしがちであり、また、他人にもそれを強いることになる。反対意見を言えない情況をつくりだす可能性が高い。いわゆる同調圧力と呼ぶべきものであろうが、さらにダイナミックに、なだれこむように一方向に社会が動き、それ以外のものを封じていくようになることである。これまでも度々、そうしたことを「私たち」はしでかしてきた。
 
繰り返す。それなりにバランスをとっていた天秤が、一気に片方に傾いていくのである。そしてそれは、「私」が加勢してやっているということである。決して、「ただそうなった」のではないし、「みんながした」のではない、ということだ。「仕方がなかった」のではないのだ。殆どの人が、後からそのように言い訳をするのだが。  
もうひとつ、思い起こすべきことがある。芸術の力だ。
 
政治的な力、経済的な力、これで争いを抑えようとするばかりである。それしか力がないかのようにさえ見える。だが、政治の対立が戦争を起こしたことは歴史が当然視しているし、経済が戦争を起こし続けたことも、周知の事実である。
 
場合によっては、宗教的な力が争いを鎮めるべきだという考え方もあり、宗教には本来そのような思いが潜んでいるものと理解されるが、残念ながらその宗教自体が争いの源となることさえある。宗教が戦争を起こしたことは度々ある。
 
では、芸術が戦争を起こしたことがあるだろうか。芸術家の中での仲違いはあるが、芸術が武器をとって殺し合ったという話は聞かない。戦争に利用されたことはあるにしても、芸術が原因となった戦争というのは考えにくい。もしかすると、あったかもしれないから、ご教示戴きたい。
 
一定の世代の方しかご存じないかもしれないが、『超時空要塞マクロス』(マクロスシリーズの初代)の大きなテーマがそれだった。戦うことに特化されたゼントラーディ軍たちに、地球統合軍がリン・ミンメイの歌の動画を送りつけることによって、彼らは混乱する。失われた文化としての「プロトカルチャー」が彼らの戦闘意欲を壊していく、印象的なシーンであった。
 
戦争を起こすブレインたちの心の中に、いま芸術が存在しているだろうか。もしも、それがないとすれば、それがあることにより、何かが変わることは考えられないだろうか。
 
そこへいくと、日本の古の武士は不思議であった。武士こそが、茶の湯や花を愛したのである。水墨画を見つめ、刀剣を愛でた。武士道とはどういうものか知らないが、非常に精神的なものを重んじていたように感じられる。
 
いまの戦争に、そうしたものがあるようには思えない。芸術を忘れているとすれば、そこにこそ、心の枯渇がある。それが、政治や経済の論理で正義を掲げさせる。
 
誤解しないで戴きたい。戦う人々を悪く言っているつもりはない。まして、逃げ惑い殺されることとなった人々を呑気に眺めていたいと思っているわけでもない。投げられた賽の故に、止められない事態に陥っている以上、その中で当事者がしなければならないことには、傍から干渉すべきことも見つからない。戦争反対と叫べば正義のようだから同調するというふうではありたくないという抵抗も懐きつつ、人々の無事を祈るしかないのである。正義を冠することができるのは、人間ではなく、神だけだと告白しながら。



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