相応しさ
2022年3月1日
3月1日で高校生活が終わるという人も少なくないだろう。今日から新しい環境になるという出発である人もいるかもしれない。ローマ時代だと、この三月が一年の初めだったという。その前の二か月は、寒くてまともな生活が営めないから、しばらく名前もなかったらしい。三月が初めだというのは、日本の四月の年度初めと発想が近いのではないかと思われる。春だからだ。
このとき、私はどうしても「三月ウサギ」という言葉が浮かんでくる。Mad as a March hare.この言い回しから、ルイス・キャロルは「三月ウサギ」というキャラクターを生み出したという話である。あのアリスの物語に出てくる、ファニーなウサギである。物語とは関係がないが、ひとが恋するのに相応しいような時期でもあることから、私の高校時代からのお気に入りのフレーズである。
大学入学共通テストで、問題の画像を外部に送り、不正に解答を得たという事件で、学生が書類送検されている。もしかすると新しい春を迎えるはずだったかもしれないのに、大きな事件となってしまった。本人はもっと軽い気持ちで、ばれないと考えていたのだろう。去年のことが表に出なかったから、今回も、と。
事の是非は多くの人が考える通りでよいと思うのだが、別の観点からも考えてみよう。つまり、もしこれがばれずに合格の点数が取れて、求める大学に入学したらどうだったか、ということだ。
恐らく、普通に学生生活をしていただろうとは思う。だが、この場合の受験とは、その学校に入るに相応しいかどうかを試されることである。他方、公立高校の場合しばしば「受検」という言い方をする。これは、「検査を受ける」という意味で、「学力検査」が基準である。「学力」があるかどうか、が問題である。他方、私立高校では、学力のほかにも入学を許可する基準がいろいろある。そのため「受験」のほうを使うのが基本であろうと思う。
大学はやはり「受験」である。学力としてだけではない可能性を秘めているとはいえ、研究をする基礎能力があるかどうかは重要である。他方、研究に対する熱意や意欲というものも、選抜のためのひとつの要素となるだろう。かの事件の学生の場合は、もし入学したとしたら、学力能力の点で相応しくない場所にいることになるし、不正を以て取得するという人間性の面でも、相応しくない場所にいることになるだろう。
いくらそこに属したい、と願ったとしても、相応しくない能力や人格の場合、根本的によろしくないということがあるものだ。たとえ不正がばれずに入ってしまったとしても、それがまずいということは、本人と、神は知っている。本人がそれに欺瞞の姿勢を貫くならば、神をも欺くことになるだろう。
ところで、息子がもらってきた高校の校誌の中に、すばらしい文章があった。それは、他校から今年度その高校に来た教師のものである。その人の文章のままではないけれども、それを私風にアレンジしてご紹介しよう。
大学受験のために、無用な教科というものがあるだろう。興味のない教科もあるだろう。また、およそ多くの学習が、こんなことをやって何の役に立つのだろう、無駄なことだという疑念をもちうるものであるかもしれない。菊池寛が、幾何学に対して強烈な偏見の言葉を遺したことで、免罪符にしているような人が多いように。
無駄であったように見えることの背後にこそ、本当の意味があるのかもしれない。警備員は、泥棒も来ず事件も起こらないなら、なにもしないことになる。それは無駄にそこにいるのだろうか。会社は無駄に雇っているのだろうか。警備員がいたからこそ、事件が起こらないと考えるのが正しいのではないか。
無駄なものこそが、本当の文化的なものを支えるということがあるはずである。無駄だからこそ、それが人の未来をゆたかにするのではないか。
最近、『京都から大学を変える』という本を読んだ。もう8年も前の新書だが、京大の総長が、京大の改革についての説明を、大学生へのエールを含めて書いたものである。京大はよく知られている通りに、ノーベル賞や研究評価の点で、ユニークな、また世界に通用する成果をもたらしている。それは、狭い領域に閉じこもらず、広い分野での交流があることと無縁ではないし、また、何にでも興味をもって広く関心をもつことがどうしてもそこに必要だと考えられているからだという。私もそうだと思う。だから、受験教科だけしか真剣に学ばないような高校生は京大には相応しくない、高校の間は広くどの教科も学んで、いろいろな体験をしてほしい、と強く願う気持ちが伝わってきた。
私も、中高一貫校を志望する小学生には、最初の授業時間に必ず、「好奇心をもて」というところから話を始める。いかにも効率のよいようなものではなく、広い視野をもってもらいたいと願っている。そう、広い視野をもつということは、自分自身をも知ることへとつながるのだ。
相応しくない場所に来てしまった人は、不幸である。相応しい自分に、そこから変わることができたらよいのだろうが、そうでなければ、まことに不幸である。かの学生は、発覚してまだよかったのかもしれない。可能ならば、やり直せるチャンスはあげたいものだと思う。人生で、これほど特異な試練を受けた人は稀であるからだ。その体験が、何かに活きるようであればと願う。