一里塚
2022年2月27日
私は、国立大学に属したことがない(通ったことはある)。なまくらな理系信者は現役の時に落ち、一校しか受けていなかったので浪人となった。金銭的負担をかけたくなかったのもあり、宅浪をした。それは文系に転じたせいでもあったが、結果、翌年も届かなかった。後に、国立大学の大学院を受験したが、これも嫌われた。もとより、それに見合う論文ではなかったから、評価は適切だったと思う。
行ってもよいということで受験して合格した私立大学は、哲学については伝統があったから、高校までとは異なり、研究には真面目に取り組んだ。比較的学費が安いところを選んでいたとはいえ、下宿までしたから、親不孝をした。それで、すぐにアルバイトを始めた。大家さんのお子さんを教える恵みに与り、実質家賃を只にしてもらえた。奨学金も借りたので、節約に節約を重ね、それをいくらかでも貯蓄に回すことができた。
当時は物価が安かったはずだが、京都のそれは福岡よりは高く、牛乳や卵は現在のほうがむしろ価格が安いほどであった。そんな中、一か月の食費を12,000円と定め、その中で賄う掟を自らに課した。そして毎月、収支報告を親に送った。もちろん、書簡である。
大学院にも行かせてもらえた。もちろん、奨学金があった。院ともなれば額も大きい。それは教職などに就けば返還せずともすむものだったが、その道は通らなかった。アルバイトはやはり家庭教師の口をきいてもらっていたので、割はよかった。ひとり、初回で嫌われたこともあった。東山のご立派な料亭のようなところだったので、贅沢な食事だけ振舞われて、その日一度きりとなった。ほかにも、祇園や大阪のほうなど、家庭教師の紹介があって、切り詰めた生活は少しだけ緩んだが、そう贅沢はしなかった。
奨学金は、貯めようとも、もちろんその後返還することになる。ずいぶん長い間、返し続けた。幸い当時利息はなかったので、家の購入のために役立つこともあった。暮らし向きは楽ではなかったが、男の子たちを連れて、私の実家のある福岡に引っ越したのだ。新しい職場には苦労したが、妻も医療保健関係の現場に少しずつ戻ったので、なんとか食いつないでいた。政府の政策で子どもに一律お金が出たときには、子どもに勉強机を買うことができた。二人目の机が必要になるときには、福岡西方沖地震が起きた。被害はなかったが、マンションの反対側の一階のタイルがほんの何枚か剥がれたことで、地震保険金が下りた。当時福岡でそんな保険に入っている人は稀だったが、私たちは、阪神淡路大震災を知っていたので、そしてその震災の時期をひとつの契機として、福岡に戻ったので、地震保険は必須だった。すべて、時に適う恵みだと捉えた。
実家の親も、子どもたちを預ってくれたり、月に一、二度食事に呼んでくれたりして、ずいぶんと助けてくれた。そして、三男も産まれた。その後、長男も次男も、公立高校に進学した。そして、二人とも国立大学に進むことができた。なんとも親孝行である。二人が家からいなくなり、三男が高校受験をすることとなった。兄たちの高校には、実に惜しかったが、入ることができなかった。しかし、良い私立高校に恵まれた。三男は、そこの先生たちに大切に扱われた。そして三年間、ストイックに勉強した。
彼がクラブ活動の部長になった時、コロナ禍となり、実質的に活動ができなくなった。そして、休校生活や自粛生活の中で、勉強を続けた。どの学年で出会った先生も、彼に多大な良い影響を与えてくださったが、受験学年の担任が英語で、これがまた特に彼の英語生活のために大きな力となった。英検もよくぞ高校生以上のレベルまで取得できたものだ。模擬面接を幾度もしてくださり、そしてそれは、いわゆる推薦入試のような時にも、多忙な中で付き合ってくださるに及んだ。
こうして彼もまた、国立大学に籍を置くこととなった。兄たちの時代よりは学費その他多くかかるし、通学や機器の費用も軽くはない。だが、私は感無量であった。国立大学に背を向けられた私の夢を、三人も果たしてくれたのだ。なんともありがたいことではないか。
でも本当のところ、彼らはそれぞれ自分の夢を進み始めているというだけなのかもしれない。私は、自分が親になるなどとは、かつて考えてもみなかった。本当に、考えられなかった。最高の伴侶に出会ったことも、そしてその忍耐と信仰に支えられて、与えられた子どもたちそれぞれが、導きの糸によってここから飛び立っていくことになる。
まだ私に役割があるとすれば、何だろうか。それは私自身には理解できなくても、そして全く見えていなくても、それをご存じの方を信頼することだけが、さしあたり私にできること、すべきことであるのだろう。そう考えているようにするのがよいだろうか。まだここが一里塚であるつもりで、今日を歩くようにしよう。もし、おゆるしがあるのであれば、その限り。