分からないところが自分の課題
2022年2月23日
小テストを実施する。模範解答を配る。いるいる。自己採点にしろ、交換採点にしろ、自分の答案に、答えをすぐに書き写す作業を始める生徒たち。予め、そんなことはするなと釘を刺しておいてもなお、条件反射のように、模範解答を解答欄に赤で入れていく。
いったい、「ウ」だの「12」だのを書き入れて、何がおもしろいのだろう。
この小テストは、忌まわしいものであった。だから、赤で正しい解答を書いて、お祓いをしよう。そして、すべての解答欄に正答を書き入れたら、儀式は終わり。あとはもうこの小テストは、二度と見ないでいよう。――と、こんな思いが見え隠れする。
何の学習にもなりはしない。小テストは、否大きなテストであっても、受けた後、返却されてからが一番大事なのであることは、言うまでもない。自分のできなかったところはどこかを知り、それができるようになることにより、点数は上がっていく。簡単な理屈だ。だからまず、間違った箇所に印をつける。そして、その間違った原因を探す。そこから先は、その問題により対処が違ってくる。とにかく、その穴を埋めるための努力が待っている。それができれば、必ずや成績は上がる。
聖書は、そうした学校の問題に比べて、格段に難しい。模範解答が、ふつう、手に入らないのである。もしかすると人類の誰も答えを知らないという問題がそこにあるやもしれぬ。意味が分からない。こうかなぁと思っても、そうではない可能性のほうが頭に浮かんでくる。どだい、頭で考えても仕方がない世界ではあるのだが、ともかく、答えは分からない。
それでよいのだ、きっと。どうせ模範解答は直ちに配られることはないのだから、とりあえずそこにしるしをつけておこう。自分はここが分からない、そういう箇所であることを意識しておこう。何かの実体験において、そこが生き生きと輝いて見えてくることがあるかもしれないではないか。そして、ひとつ何かに気づかせてもらったら、言葉にしてみようと思う。与えられた考えに筋道をつけてみようと思う。
そういう繰り返しが、私の朝の日課である。