教え、教えられ

2022年2月19日

不思議なもので、うまい人が見ると、文章の上手さ下手さはよく分かるらしい。私の文章もそうで、人に読ませるようなものではないのだという。
 
だが、文章をそれなりに書き続けていると、小中学生の作文の指導くらいはできるようになってくる。彼らもまた、自分では頑張って書いているつもりなのだが、そこは教育的指導をこちらがすることで、いろいろ気づかされることがあるようだ。文章を比較的書き慣れているであろう生徒も、私のアドバイスは素直に受け容れて、生き生きと綴ることができるように変わっていく。
 
とにかく、書いてみなければ始まらない。そして、的確に厳しく指摘してくれる人に見てもらうことで、自分の文章のよろしくない点に気づかされる。それに慣れてくると、いくらか自己分析もできるようになるだろうが、実際はなかなか難しい。
 
自分の書いたものを、読み直すことは、やはり大切である。私はそれが少ない。だから巧くはならない。できるだけ、他人の目で書いたものを見るのだ、というセオリーは、昔から言われていたが、いまなおそれは本当のことだと言えよう。予備知識のない人に、そこに書かれてあることだけで、言わんとしていることが伝わるかどうか、考えられるようになったらよいと願う。
 
また、私にとり生徒に作文指導をしたことは、自分自身のためにもよかったと思っている。これは勉強一般について言えることだが、ひとに教えることにより、自分が教えられるという経験をするものだ。ひとには、一定の理論や命題を指摘して、文章を直させるわけだが、それを自分に対しても適用することによって、自分の文章について注意しようという気持ちが起こることになるのである。
 
キリスト教会の礼拝での説教も、そうだろう。説教者は、語ることで、聞くことが磨かれていくのに違いない。つまり、会衆と呼ばれる聞く人々に対して、説教者は神の言葉を語るのだが、その語ることで、自分が神から語られる神の言葉を聞くという姿勢について改めて知る経験をすることになるはずである。
 
聞くことがなければ、語ることはできない。説教者の中で、この原則が成立している。中には、聞いたことがないのに、牧師を職業とするような人もいるが、残念ながら、そこから語られる言葉は、神の言葉ではなく、人に命を与えることはできない。いくら恰好をつけても、そしてその人物が聞き知ったキリスト教用語や神学理論を語っても、だめである。
 
いまや、SNSと呼ばれるインターネット世界のツールで、人は、全世界へ意見を自由に発信できるようになっている。これは以前には不可能であった。意見を聞いてもらうには、本を出版して売れるか、テレビなどに出演して意見を言う機会を得るか、新聞の投稿欄に採用されるか、そんな道しか考えられないような社会であった。今は昔という印象があるが、ここへきて、どんな暴言でも無造作に他人を傷つけるような言葉でも、がんがん人目に触れる場所に発表することができるようになっている。考えれば怖いことだ。
 
確かに、声を挙げるということは大切なことだ。人々から見えないような場所にいる人の、かつては誰も聞くことのできないような意見も、発表の場が設けられるというのは、実に意味があることだ。臆せず意見を発するとよい。また、そういう意見を知った別の人が、それを尊重して、その意見が広まるように手を貸すというのも、よいだろう。
 
また、意見を言う場合も、教えることで教えられるという先ほど考えた事柄のように、自分の意見を少しでも客観視することができるようになり、磨かれた考えとなって世に出て行くようになればよいと思う。自分の言ったことを自分に当てはめること、つまり自分だけを例外にして偉そうなことを、言わないこと、そこが肝腎なのである。
 
自分が言い放つ思いつきの偏見を、さも世界の真理のように叫び、他人をコケにするうよな発言を繰り返す人がいる。よく見ると、少し前に言っていたことと正反対のことを、いずれも真理のように、偉そうに言っている。そのように無責任で犯罪的な発言も自由に飛び回っているのが現実であるが、賢明な人は、そうはしないはずだ。
 
発するならば、受けるべし。これが神の言葉に関する時には、先に受けて、それから発するようでありたいが、なんにしても、一方的に言い散らかすのでなく、その発信によって学ぶこと、教えられることがあることに気づく者でありたいと願うのであった。なんだか筋の通らない、下手な文章であった今回はともかくとして。



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