【メッセージ】心の道しるべ
2022年2月13日
(エレミヤ31:21)
道しるべを置き、柱を立てよ。
あなたの心を広い道に
あなたが通って行った道に向けよ。
おとめイスラエルよ、立ち帰れ。
ここにあるあなたの町々に立ち帰れ。
(エレミヤ31;21)
◆命の問題だから
ホワイトボードの隅に縦に並んだ、今日の時間割。終わった科目を消したがる子も塾にいます。落書きならぬ「楽消し」をする子もします。小学生ですが、たとえば社会の「社」の一部を指で消して、「ネコ」にして遊ぶわけです。こういうのができるのは、そこそこ賢い証拠なのかもしれません。想像力がなければなかなか面白い「楽消し」はできません。
面白い作品はあるとは思いますが、しかし私は、それはいけないことだと教えることにしています。人に案内するための表示に、イタズラをしてはいけない、と話します。宿題を書いたところの頁数を書き換えたら迷惑です。それにもし、山で降りる道案内の看板を別の方向に向けたらどうなりますか、と問うのです。人の命に関わります。思わぬ事故につながることもありますから、いけませんよ、と。
点字ブロックを削り取ると、視覚障害者の命に関わります。街で、ガラガラとキャリーバッグを引きずって、点字ブロックを破壊せんばかりに歩く大人が如何に多いかを思うと、ひとの命への想像力がないのだろうか、と悲しくなります。
マスク生活が続くのは、子どもにとり辛いことでしょう。今年になり、マスクを外している子どもが、下校時に近くで話しているケースが非常に多いのを見てから、これは学校で蔓延するだろうと懸念していました。案の定、そうなってしまいました。ですから教室では、辛いだろうけれども、子どもは重症にならなくても、持ち帰ったら君たちの親や祖父母の命に関わるかもしれないよ、という話は、ちゃんとしておくことにしています。
SNSで、悩んでいる人に慰めの言葉を投げかけるのをよく見ます。心がほっとします。よく話題になるので偏見をもつ方もいるのですが、ネットは必ずしも言葉の暴力の飛び交う場所ではないのです。ただ、気持ちだけで支えるのはよいのですが、そこに、ウイルスや病気についての不確かな情報を流すのは、問題です。やはりこれも、時に人の命に関わる場合があるのです。そういう自戒をもって、良い言葉を広めて戴きたいと願います。もちろん、私も。
◆預言者エレミヤ
エレミヤは、旧約聖書の中でも特に大きな位置を占める預言者です。預言者とは、未来を予言するのではなくて、神の言葉を預かるという意味で、恐らく19世紀頃に作られた言葉です。但し、漢字の本場の中国においては、この「預」には「あずかる」という意味があるわけではないらしく、日本的な理解の中で生まれた語であるという話もあります。
神の言葉を、神に代わって人々に伝える役割を果たすことに一生を費やした人です。エレミヤにとり、人々に語る言葉は、正に命の問題を有していました。いま私たちは、自分は天国に行けるか云々というような、個人的な事情で神の言葉を聞くことが少なくないのですが、エレミヤの当時は、国家の行方を左右するようなレベルで、神の言葉が伝えられていました。
このエレミヤの言葉から、今日はひとつの節だけを取り上げることにしました。それは、先ほどの子どもたちのイタズラにも少し関係しそうなものを含んでいます。山での道案内をいじってはいけませんでしたね。道案内、あるいは道しるべは、人を目的の場所へ導くための「しるし」であったのです。
31:21 道しるべを置き、柱を立てよ。あなたの心を広い道に/あなたが通って行った道に向けよ。おとめイスラエルよ、立ち帰れ。ここにあるあなたの町々に立ち帰れ。
これだけでは何の場面であるのか分かりませんから、もう少しエレミヤその人について理解を深めておきましょう。エレミヤは、紀元前7世紀から6世紀にかけて預言者としてユダで活動したように記録されています。当時のユダヤにおける信仰は、どうも組織化され、形骸化していた部分があるようです。これに警告を与えるべく、エレミヤは神より使命を受けました。
時に、新バビロニア帝国の脅威が、ユダヤに迫ります。すでに北イスラエル王国は、アッシリア帝国に滅ぼされていました。イスラエルを名のる部族の半分以上が、もはやまともな形で存続してはいなかったのです。南のユダ王国は、アッシリアの言うことを聞くような形で存続していましたが、エジプトと新バビロニア帝国との間の綱引きの材料にされたようになりました。このとき、為政者は、エジプトと手を結ぶように決定しました。それでエレミヤは吠えたのです。それは危険だ。新バビロニア帝国に潰される、と。
そんな政策をとったら、国が壊滅する。しかし、せっかくエジプトとうまく話を進めようとしている中で、為政者にとっては、そんなエレミヤがうるさくてかないません。エレミヤを投獄するなどして、黙らせようとしますが、エレミヤは神から言葉を受けていますから、叫び続けます。でも国はエジプトを頼り、その結果、エレミヤが言った通りに、ユダ王国は滅亡するに至りました。
紀元前587年に滅亡したということになっており、有力者はこぞってその帝国の都市バビロンに連行されます。歴史に名高い「バビロン捕囚」です。指導的役割を果たす人が悉く連れ去られ、以後ユダの土地はなんとか細々と貧しい人々が生きるだけとなりました。エレミヤはしかし、それをも見越しています。70年経つと、ユダの国は再興される、と言い始めます。なにを馬鹿なことを、と人々に嘲笑われますが、実に奇蹟が起こったようになり、歴史はほぼそのように動いていくのでした。
31:31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
このことについて、エレミヤは今日の箇所のすぐ先で、画期的な思想を提示します。神と人とが、新しい契約を結ぶ、というのです。それまでのモーセの律法の契約だけで、長らくイスラエルの人々は生きてきたようなものでしたが、ここでエレミヤは、モーセの契約を新たに理解した、大変革を提案するのです。それは、人の心に働きかけるものでした。一人ひとりが神と出会い、神と向き合い、神を心で体験し、その心で神と結びつく信仰が与えられるというのです。これが新しい契約だ、とエレミヤは主張しました。これは、何らかの形で、イエスの新たな掟へとつながるための、ひとつの道となりました。
◆希望
エレミヤは、当てずっぽうに、またここに人々が戻ってくる、と言ったのではありません。自らユダの土地を購入して、確信をもっている様を人々に見せた上で、いま有力者が大勢遠い国に連行されていったにしても、またこぞってこのユダの地に戻ってくる、という幻を語ります。希望に溢れた言葉でした。再びユダの国は繁栄するのだ、と叫びます。だからまたここに戻ることを、想定した上で、生きていくのだ、と励まします。いま連れ去られた人々のその子どもなり孫也が、またこの地に戻ってきて、イスラエルは再興されるのだと強く告げるのです。だから、こう言いました。
31:21 道しるべを置き、柱を立てよ。あなたの心を広い道に/あなたが通って行った道に向けよ。おとめイスラエルよ、立ち帰れ。ここにあるあなたの町々に立ち帰れ。
さあ、捕囚となって故国を去る人々よ、再びあなたの子孫がここに戻ってくることがすんなりいくように、道しるべを置け、と言ったのです。いまは辛く、連れて行かれる道ですが、それがまた、帰ってくるための道になる。その時のために、道しるべを立てておけ、と言うのです。この町に、確実に仲間が帰ってくるという幻を、エレミヤは熱く人々に語りました。
エレミヤの心情に寄り添ってみましょう。エレミヤは孤独でした。とくに為政者に睨まれましたし、その為政者の言うなりになるほかない人々からも、白眼視されました。エレミヤの味方になる人など、誰もいません。ただ、バルクという友が、エレミヤにはいました。あるいは秘書なのか、書記であるのか、よく分かりませんが、エレミヤの思想を明らかにするために忠実に行動した人です。当時、文字が読み書きできるというのは非常に珍しく、かなり教育を受けた人だっただろうと思われますが、このバルクがいなければ、エレミヤの預言もいまに伝えられていなかった可能性があります。必要な助け手を、神はちゃんと用意してくださるものなのです。
◆立ち帰る
私たちはどうですか。私は個人的に、このエレミヤが大好きです。神に楯突いたり、ふてくされたりもしますが、それほどに神と真摯に向き合っています。そして、世間の考えに迎合せず、どこまでも神の言葉に従おうとする生き方、また、神の真実を確信してその生き方を貫くエレミヤに、自分と似たところを感じているのかもしれません。皆さんはとても従順な羊たちでありましょうから、そんなエレミヤには、あまり魅力を感じないかもしれませんね。
エレミヤの立場やこの「道しるべ」にまつわる考えについて、共に少しばかり理解を挑んできました。聖書研究でしたら、さらに考古学だの歴史的文献だのを開いて探究していけばよいのでしょうが、私たちは、神の言葉を受けようとし、神を礼拝すべく耳と心をいま傾けています。ここからは、エレミヤ書の文脈に沿うというよりも、もっと私たちのイマジネーションを働かせて、今日の言葉に向き合っていくようにしてみましょう。
31:21 道しるべを置き、柱を立てよ。あなたの心を広い道に/あなたが通って行った道に向けよ。おとめイスラエルよ、立ち帰れ。ここにあるあなたの町々に立ち帰れ。
もう何度もお読みしました。ぜひ覚えてみてください。聖書の言葉は、自分の魂の中に蓄えることによって、何かの時に力となります。命を与えます。今日の言葉も、そのひとつに加えて戴ければ幸いです。
この言葉は、先に申し上げたように、いずれユダ王国は再興するから、ここに道しるべを立てて、これを目印にしてまた戻ってくるのだ、という希望をもたらすものでした。ただ、ここには「立ち帰れ」という語が繰り返されているのが気になります。というのは、「立ち帰る」という言葉は、聖書の中ではしばしば、神から離れていた者が神に戻ってくることをいう時に使われるからです。つまり、よくいう「悔い改めよ」と言いたいような場面で、神に「立ち帰る」ことが求められることがあるわけです。
わたしはあなたの道を教えます/あなたに背いている者に/罪人が御もとに立ち帰るように。(詩編51:15)
これは、神に反する生き方をしている者に向けて、さあ人々よ立ち帰れ、と言っているようにも見えますが、そうではありません。これは有名な、ダビデ王の悔い改めの詩なのです。姦淫の罪を犯し、自分の罪を指摘されて、最高に落ち込んでいるときの詩なのです。自分の罪を赦してくれ、と繰り返す中でのこの言葉ですから、この罪人とは自分のことにほかなりません。自省の叫びです。
わたしは自分の道を思い返し/立ち帰ってあなたの定めに足を向けます。(詩編119:59)
そこへ行くとこちらは、神の言葉を延々とうたう、最長の詩編の一節で、非常に技巧的に作られていますから、ダビデの詩ほどの切実な実感はありません。でも、もちろん嘘の気持ちをうたっているのではありません。神に従うように生き方を変えることの大切さがうたわれているのだと思います。これも、自分の問題でした。
神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる。(イザヤ55:7)
これも旧約聖書の中の大預言者、イザヤによる言葉です。これは広く、神を信じるように戻ってこいと呼びかけている、神の立場を反映したものです。イザヤ個人の思いを述べているのではありません。神はこのように、人間たちに呼びかけているというのです。この主に立ち帰るならば、主は赦して下さるのだ、と強くぶつけます。このような神の呼びかけは、いまも、今日も、ここにおいても、私たちに――あなたに――なされている、私はそう信じています。
◆それは誰のため
再びエレミヤに戻ります。エレミヤが見たのは、いまからバビロンへ連行されてしまう人々のことで、その後どうなるか知れない、死出の旅のような情況のことでした。それは、これまでの律法や預言から考えると、もうイスラエルの人々は神の裁きを受けた、ということにほかなりませんでした。裁きを受けたからには、もう滅びるほかはありません。絶望だけが取り巻いています。けれどもエレミヤは、その見解に「否」と応えます。同じ道を再び通り、この値に戻ってくるのだ、という希望を掲げたのでした。国が滅びることは必定で、誰もがそんな都合の好いような未来を信じるはずがないと思う、そんな中に、希望の幻を語ったのです。
戻るのだ。戻ることができるように、道しるべを立てよ。そこは広い道。多くの人がぞろぞろと戻ってくることができる道だ。ここを通り、帰って来い。
教会はこの幻を信じました。その時、多くの罪人が、神の許に戻ってくるものだと考えました。それまで聖書も神も信じることがなかったような世の人々が、自らの罪を知り、それを嘆き、罪を赦してもらうために神の許に立ち帰るさまを思い浮かべました。罪人たちが、悔い改めることにより、主に立ち帰り、救われるのです。そのために、さあ、イエス・キリストを見なさい。キリストがあなたを招いている。世の罪人たちよ、聖書を信じ、神のところに帰って来なさい。教会は、そんなあなたを温かく迎えます――。
そうでしょうか。私は気づかされます。歴史上、バビロンへ連行されたのは、神を知らない人々ではありませんでした。連れ去られたのは、神の民だったのです。神に愛され、守られ、導かれてきた、神の選んだイスラエルの民だったのです。
そうか。そこで教会にいる人々は、新たに考えます。なるほど、道を外れたキリスト者が、神に立ち帰ることを重ねて考える必要があるのだな。いるいる、一度信じたと言って教会に来た人、最近姿を見せない人。教会を去った、あの人、この人。教会を離れた人が、またこの教会に戻ってくるといいな――。
◆ダビデの罪
ダビデの失態については、先に触れました。姦淫の罪を犯し、自分の罪を指摘されて、最高に落ち込んでいるときの詩の一部を取り上げました。この事件は、聖書をよくお読みの方ならどなたもよく知る話です。ゴシップとして興味が沸くのか、身につまされるのか、その辺りの動機は定かではありませんが、とにかく有名です。
ある程度年齢を重ねたダビデは、戦いの最前線にはもう出なくなります。時にイスラエル軍は、大将ヨアブのもと、アンモン人と戦っていました。ダビデは昼寝から目覚めると、のんびりと屋上から街を見下ろしていました。そこで見たのは、美しい女の水浴びでした。この女バト・シェバは、ウリヤという男の妻でした。ウリヤは兵士として、その戦いに出て、留守だったのです。すっかり欲情したダビデは、彼女を王宮に呼び、目的を遂げます。
すると間もなく、彼女から、妊娠したという知らせが来ます。焦ったダビデは、戦地の将ヨアブに伝令を出して、ウリヤを呼び戻します。戦場の様子を尋ねるふりをして、ご苦労、さあ家に戻り妻と懇ろにさせようという企みでした。女の腹の中にできたダビデの子を、ウリヤの子だと思わせることができると策略したのです。しかしウリヤは、仲間が戦っている中で、自分だけ妻と過ごすことなど自分にはできない、と頑なに言います。
ますます焦ったダビデは、最後の手段に出ます。ヨアブへの伝令をウリヤに持たせて戦場へ返すのですが、そこには、ウリヤを戦いの最前線で戦死させよとの命令を書いていました。ダビデの命令通りにヨアブは作戦を遂行し、ウリヤは戦死します。ウリヤの妻バテ・シェバは喪に服しますが、それが明けると、ダビデは彼女を召し、妻とします。男の子がやがて産まれます。
そこへ、ナタンという預言者が、ダビデの前に現われます。ナタンは、裕福な男が自分羊を供することをもったいないと思い、たった一匹の羊を大切にしていた貧しい男の羊を取り上げてしまった、という話をします。ダビデは、そんな男は死刑だと激怒しますが、ナタンは、それを待っていたかのように、ダビデに突きつけます。「その男はあなただ」と。
ダビデはこの指摘に、自分の罪を自覚します。こうして、ダビデの悔い改めが始まることになるのでした。しかし逆に言えば、ダビデは、ナタンが指摘するまで、自分の罪に気づいていなかったのです。羊を奪う豊かな男の話も、まるで他人事としてしか見ていなかったのです。
ここに、私たちは知るべきことがあります。私たちは、見えないのです。自分が何をしているのか。自分が何者であるかが、まるで見えていないのです。
ダビデはまた、次のような詩をもうたっています。
知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしを清めてください。(詩編19:13)
自分は、自分のことなどちっとも分かってはいないのだ、ということを痛感したからかもしれません。まるで見えていない、まるで分かっていないということ、そのことしか知らないということを、神の前に告白しているのです。私は、それがダビデの偉いところだと考えています。ダビデは弱い、過ちの多い人間でしたが、それでも、自分のダメさ加減を、それなりに認めることができるという点は、見るべき点だと理解します。私もまた、そうでありたいと願うのです。
◆道しるべを立てよう
ダビデですらそうなのですが、私なんぞは、当然自分の姿が見えません。なぜなら、私が見ている世界の中には、自分がいないからです。見ている私からは、私自身だけが見えません。私の見ている世界の中に、自分自身の姿を位置させていないのです。
エレミヤの幻の中で、バビロンに連れ去られる人々、また戻るからと勇気づけて、そこに道しるべを立てよと云われている人々、それを私たちは見ました。その景色の中に、私たちは、自分自身を含めて見てはいないのではないかという視点を、いま与えられました。でも、聖書を読むとは、その景色の中に、自分を見ることができるようになる、いえ、絶えずその中に自分を認めるしかないようなことである、そう理解したいと私は常々思っています。そうでなく、聖書をただの物語や心洗われる結構な教えである程度にしか感じられないとすれば、そこには命はありません。まして、聖書を語る者がその程度のことしか話せないような読み方をしているとあっては、それはもはや説教でも何でもありません。せいぜいのところ、聖書講演会に過ぎません。
さあ、見えましたか。この捕囚されていく人々の中に、自分自身が見えましたか。神に逆らっていたがために、望まないところに連れて行かれるのは、この自分の姿なのだと、気がつきましたか。教会を去ったあの人ではなく、この自分がそこにいるのだと、認めることができましたか。――そのように感じる心をお持ちの方だけに伝わるような言葉を、私は語ります。もう少しの間述べさせてください。
神を知らなかったわけではない。けれども、いつしかあの新鮮な喜びを忘れ、自分勝手なことをしていた。それで、実のところ惨めな状態であった自分自身の姿を見た。でも、そういう自分が見えたということはまた、神の光に照らされたということでもあります。神の言葉が光となって、降り注ぎました。ならば、そこに道しるべを立てましょう。これまでは、その日与えられた言葉を、なんとなく受け流していただけでした。聞き流してしまっていました。せっかくのいのちの言葉が、無駄に地に流れ落ちていました。いのちの言葉として聞いていたか、問い直しましょう。よく咀嚼し、己れの栄養となっていたでしょうか。いえ、これは聞く者だけではありません。語る者こそ、そうなのです。語る側が果たしていのちの言葉を自ら受け、それを真摯に語っていたか。えてして聞く人は誰も、語る者を非難しません。適切な批判すらしません。それで省みることなく、だらけた人間の言葉ばかりを語っていなかったか、これを吟味しなければならないのです。
道しるべを立てましょう。そう申しました。道しるべとは、いったい何でしょう。私は、イエス・キリストだと理解しています。私は確かに、かつてイエス・キリストを信じました。その救いの言葉、救いの十字架と復活を、喜んでいました。あの信仰が薄れていないかどうか、吟味します。勇気を振り絞り、すべてを賭けてキリスト教会に飛び込んだあのときの道しるべ、それがイエス・キリストだったというのは、そういう意味です。
あのキリストは、しっかりいまも立てられています。十字架はいまもそこに立っています。エレミヤが告げたように、道しるべとして、確かにそこに立っているのです。人の罪がなくならない以上、キリストの十字架が無意味になることはありません。人の支配する地上など、ちっとも安定しませんし、簡単に平和も訪れません。揺れ動く地に、主の十字架はいまも、いつでも、輝いているのです。
そして、許されるならば、その道しるべは、ほかの人のためにも立っているものだと言わせて戴きましょう。すべての人にとっての、救いと喜びの目印です。ここに救いがあります、ここに喜びがあります、と道しるべを立てましょう。私には何の善いところもありませんが、この道しるべを指さすことはできます。こちらへ行きましょう、こちらが目的地です。あなたを最善の地へ案内する道しるべなのです、と。
また、聖書の言葉もまた、道しるべになります。聖書の言葉は確かな救いです、と伝えるために、それを揺るがない柱として立てましょう。聖書はただの文書ですからね、などといかにも客観的に、モダンな知識階級の一員であるかのように評価するようなことをしている暇はありません。そんな格好付けをしていても、道案内にはなりません。聖書の言葉です、と告げたところで、すぐに風に吹き飛ばされる、ぺらぺらの紙をピンで留めただけに過ぎません。柱です。どっかと根を下ろした、あるいは土台となる岩の上に確固たるものとして立てられた、動かぬ柱です。それが道しるべとなります。それだからこそ、道しるべなのです。
その道が、キリストの教えでした。心をそこに縛り付けましょう。主に立ち帰りましょう。初めの愛に、あの救いと喜びの時に、帰りましょう。それを燭台の上に掲げさえすれば、その光は遍く世に照らされるのです。その道しるべは、私を、そして人々を、最高のところを教えてくれる案内です。もうここにあるだけで、もうそこが目的地ですらあるような、そんな道しるべを、キリストと聖書の中に、私たちは与えられているのです。