金子みすゞの「土」

2022年2月9日

テレビ番組「100分de名著」で、金子みすゞの新たな面をじっくり聞くことができた。改めて味わってみたいと思い、詩集を求めた。やがて、「土」に出会った。
 
 
  こッつん こッつん
  打(ぶ)たれる土は
  よい畠になって
  よい麦生むよ。
 
  朝から晩まで
  踏まれる土は
  よい路(みち)になって
  車を通すよ。
 
 
詩はこれが半分であることは、後半がうっすら目に映るから分かる。私はここで目を上げて、後半を想像してみることにした。みすゞは、逆転の視点をもたらすのではないか、と予想されるからだ。また、悲哀の感情を陰に有しているのではないか、という点も、想像の根拠にすべきだと思った。その角度から、私だったら、この後半の詩をどのように作るか、を考えたのである。
 
打たれる土、踏まれる土に、みすゞは自分の姿を重ねるのではないかと思った。だから、打たれるような、踏まれるような、辛いことを受け続けてきた自分も、きっと誰かの役に立っているのだろう、そんなふうに目を向けるのではないか、と想像したのである。
 
だが、待てよ。そんなに露骨に、自分の姿を表に出すだろうか。みすゞのことだから、何かの象徴で、辛い自分の姿を代弁させるのではないだろうか、とも考えた。
 
そうして、詩の後半を見る。
 
 
  打たれぬ土は
  踏まれぬ土は
  要らない土か。
 
  いえいえそれは
  名のない草の
  お宿をするよ。
 
 
私は、自分の心のさもしさを恥じた。確かに、みすゞは、別の視点を提供していた。だが、私の想像ともまた別の視点だった。打たれない土、踏まれない土の立場に目を向けたのだった。打たれた土こそ役に立つ、踏まれた土こそ役に立つ、それはそれで麗しい。苦しい立場の人を慰める言葉にもなるだろう。だが、そのように注目したならば、今度は、打たれない土、踏まれない土がどう感じるだろうか、そこにみすゞは心を寄せたのである。
 
ある文学者が、病人について、自分が病人だということで、同情されたり援助されたりもするし、多少のわがままを言っても聞いてもらえる点をとりあげて、病人ということで人を支配する力を得ているのではないか、というような見方をしていたように記憶している。病人だから弱いのではなく、むしろ強権を発動できるのだという逆説的な捉え方である。
 
もしこの角度から「土」の前半を見れば、打たれた土は、自分が不幸を受けたことで、役立つ存在となったことを誇りうることになる。踏まれた土は、不幸を受けたが、役立つ存在となったと誇ることができるかもしれない。それを前提すると、ここで嫌な気持ちになるのは、打たれない土である。踏まれない土である。自分はのほほんと、辛い目に遭わずにいる。だから活躍できる機会が与えられないではないか、と妬む可能性があるのではないだろうか。
 
たとえば、同じ好成績をテストでとったとしても、普通に勉強している自分と異なり、家が貧乏で家事に追われて勉強時間もない子がもう一人だったとしたら、その子のほうが褒められるに違いない。
 
みすゞが、こんなことを思い描いていたのかどうかは分からない。たぶん違うと思う。ただ、私はこんな背景を想像した。打たれない土、踏まれない土は、何の役にも立たないのか。この詩は、そうではないと声をかける。あらゆる場面で、「はみご」になった者がいることに気づき、その心を慰めようとするのだ。不幸な目に遭うかどうかはまた別の問題だよ、呑気でいるようなあなたも、ほら、ちゃんと草を生やしてあげているじゃないの。
 
ただし、その草もまた、名もない草である。世の人に注目されるような立派な草花のために役立っている、というような自負をもつと、また威張ってしまうから、この世でまるで何の価値もないような、そんな草のためにあなたは役立っているのだよ、という呼びかけが、私の心に響いてきたのである。
 
みすゞの真意がどうであれ、私には、こんな物語が見えてきた。そしてそれは、聖書の精神と、きっと重なるものであると思っている。いったい、聖書の何と重なるのだ、とお思いの方もいるだろうが、そこは、それぞれの方の感じ方に委ねることにしたい。



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