正にそれこそ気をつけよ
2022年2月5日
悪魔からの荒野での誘惑は、マタイとルカにあり、順番が違うんだ。その理由はさ……こんな、謎解き好みの読み方も、聖書を解釈し研究するにあたり、一度は必要な営みだろうとは思います。けれども、それで満足していても、何にもなりません。そこに留まっていたら、聖書をむしろ弄ぶこととなり、ひとは変わることも救われることもありません。
イエスが、悪魔からの恐ろしい、そして心の隙間を突いてくるその誘いに立ち向かったということは、イエス自身の歩みの決定的なスタートとなったのです。それは後に続く人間への忠告となったのでもあると、私たちは少なくとも察知する必要があるのです。私たちはこのお手本を注意深く見つめ、大いに学ばなければなりません。
「神の子なら」と悪魔がもちかけた条件は、直接人間ができることではありませんが、イエスに従う弟子たちもまた神の子と呼ばれているものだとすると、私たちにも無関係なことだとは思えなくなります。もちろん、イエスだからこその誘惑です。私たちが安易に神の子だという自負をもつような真似は厳に慎まなければなりません。
「俺にひれ伏すならば」と悪魔が迫ってきます。これならストレートに私たち人間にも及び得るかもしれません。主にのみ仕えよ、というイエスの結論は、私たちにいま届いているでしょうか。この言葉によって悪魔は去ります。二度と近づかないという意味ではありません。イスカリオテのユダを通じて迫り、イエスの運命に決定的な一撃を食らわします。
但し、それは人類のすべての救いのための条件となったとするなら、悪魔もまた、神の救いのギアにはまっていると見ることも可能でしょう。それは「試みる者」とも呼ばれます。人はいつでも試みられるのです。神の言葉を信じると口にしながら、自分の都合の良いようにそれを利用することが、いくらでもできるし、またやらかしているのです。
だから、この誘惑を他人事のように見てはいけません。こうして聖書に耳を傾けている正にその時、その瞬間に、そこから背を向けてどんどん逸れていくというリスクがあることを、聖書は警告していのだと受け止めることが求められています。聖書を解釈しているその行為そのものが、悪魔に乗せられている可能性を警戒する弁えすら必要なのです。