疫病と知恵

2022年2月1日

疫病は、長らく正体不明だった。ワクチンの歴史は200年、ウイルスが見出されてからは100年しか経っていない。疫病は古代から確実にあったにも関わらず、原因も分からず、治療法も確定しない歴史が続いた。
 
ヨーロッパの人口を激減させたペストの歴史は、そうとうに厳しかったはずだが、17世紀の流行についてダニエル・デフォーにより残されている記録からしても、殆ど為す術がなかった様子がよく分かる。
 
日本において、疫病に対して人間がどう対応したかについての文化的な資料が紹介されている本があった。『日本疫病図説』という、笠間書院から2021年5月に発行されたものである。豊富なカラー写真で、日本人が疫病にどう対してきたかを知ることができる。
 
そこには、情けないくらいの迷信も多々あり、言葉の洒落によって病気を封じるお札や呪いのようなものさえ広まり、信じられていたようだ。誰か知恵がある人が考えたのか、尤もらしいストーリーが編まれるなどもする。この本には、源為朝が疫病をやっつけるなどといった伝説に縋る絵なども掲載されていた。
 
こうした信仰は、まさに鰯の頭も信心からというようなもので、科学的には意味のないものが多いのだが、明治時代まで、日本人が疫病に対して考えていたことは、殆ど変わっていないということがよく分かった。
 
くだらない、などと現代人がそれを嗤えないのは、明らかだろう。その本にも紹介されていたアマビエ(アマビコ)が、現代社会を席巻したではないか。こんなの迷信だけどね、などと言いながらも、やっていることはまさに信仰の行為であった。また、こうすればコロナウイルスを防ぐことができる、といった意味のないデマに、キリスト教の指導的立場にある人がまんまと振り回され、デマを拡散していたのには、些かショックを受けた。人間、信仰があると言いながらも、簡単に迷信に引っかかってしまうのだ。
 
ウイルスが歴史的に長らく見つからなかったのも、無理もない。見えなかったのだ。見えないけれどもあるんだよ、という詩は全然違う世界のものだが、私たちはウイルスの存在を、いまや疑っていない。ごく一部、コロナは陰謀だ、存在しない、と駅前で看板を立ててチラシを配る人々がいるが、どうか一度実際に医療機関に行くとよいだろう。命を懸けて労力を使い果たしている人々をコケにするようなことを自分がしているのだ、と気づかなければならない。
 
ウイルスは実在する。では悪魔はどうだろう。悪魔は実在しない、という主義の人がいる。自由主義神学や文献批判に長けた学者あるいはそうした立場をとる人は、悪魔は実在しないと断言する。もちろん、黒い衣裳で、矢印の尻尾の付いた悪魔が実在する、と言うのには勇気が要るだろう。擬人化することに抵抗する気持ちは分かる。しかし、そこで「実在」とは何かということが問われなければならない。
 
擬人化すると、殆どそれは偶像崇拝のようになる。だが、教義の教化の必要から、識字率の低かった時代、絵によって教えるということは当然なされていた。日本でも、絵心経と言う、般若心経を絵で示したものがある。また、地獄絵図によって、地獄の恐ろしさを教え、仏教信仰に導くというような方便も有効だったはずだ。キリスト教でも同様で、ステンドグラスや絵画は、多くの場合、そうした目的で図像化した教義を語るものだった。そのときに、悪魔が擬人化されたとしても、非難するべきことではないとすべきだろう。
 
足のない幽霊が恐ろしかったため、円山応挙の幽霊図が評判になって幽霊の図像が決まっていったように、悪魔もまた、一定の姿が描かれるようになっただ。からといって、その心情を否定することが現代人の優越感のためになされるとすれば、寂しい気がする。
 
芸術としていまは捉えられているが、ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の天井画には、神が人間の形で描かれている。ダニエル書にある「日の老いたる者」という言葉が、神を老人に見立てたのだろうか。こうしたイメージをすべて偶像だとか、ナンセンスだとか決めつけてしまうのは、心の豊かさを踏みにじるように感じてならないのだが、いけないだろうか。
 
イスラム教だと、一切の偶像を避けるために、アラベスクと呼ばれる模様以上の図像を刻むことを忌み嫌う。キリスト教もそのくらい徹底すればよかったのかもしれないが、どうやらその道は採らなかった。
 
日本人の豊かな感性は、疫病について、決して医学的に適切なものばかりではなかったけれども、命懸けの世の中において、少しでもと心の平安を求め、また互いに励まし合ったものと思う。見えないものに対する恐れがあったにも拘わらず、それを克服しようともがいていた。
 
いまや、軽々しいデマが簡単に流せる時代であるから、さも真実のように嘘を広めてはいけない。これもまた簡単に日々流し続ける、自称キリスト教徒もいるので、やめてほしいと思う。絶対的に正しい知識というものが確定しない現状はもどかしいが、私たちは少しでも公的な情報を信頼して、穏やかな社会生活ができたらいいと願う。そして公的な情報に問題があるならば、それを指摘して、その情報を修正していくことが望ましいと考える。できるだけ誤謬の少ない道を、利権や政治目的の立場からでなく、人類が共有できる知恵と知識という見方から、選んでいくようにするのが、さしあたり最善ではないだろうかと思うものである。



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