事の深刻さ

2022年1月30日

新型コロナウイルス感染症の新規感染者は驚異的に増えている。これが保健医療の場でどれほど深刻なことになっているか、あまり気づかれていないように見えるために、まず知ることからと思い、少しだけ簡潔に綴る。
 
新規感染者の増大は、この二年間のことが参考にならないほどに、濃厚接触者が感染者より遙かに多い人数として数えられているということである。医療従事者は、基本的にこれまで現場においては濃厚接触者にはならなかった。その道の最善がなされていたのである。しかし、いまのようになると、家族などの経由で、医療従事者が私的な領域で濃厚接触者に次々とカウントされていくようになる。
 
病院には、いま、患者が殺到している。検査のために訪れる人もいる。ただでさえ業務が何倍にも増えている。そこへ、スタッフが濃厚接触者扱いとなると、欠勤が必然となる。新たな措置でそれが短期間でよいように改善されてはいるが、とにかくスタッフが減るのである。小さな医院で、5人が動いていたとき、1人が欠けると、20%人員が減る。勘違いをしてはならない。算数を思い出して戴きたい。このとき、そのスタッフの業務は25%増加するのである。2人欠けると、人員が40%減ることで、業務は1.5倍を超えてしまう。
 
さらに、三回目のワクチン接種のため、休日出勤を、地域保健所が各医院に頼み込む。
 
あとは想像にお任せする。逼迫は必定であり、殆ど破綻寸前なのである。この逼迫だけで、感染者の扱いが自宅待機などに変わっていくことはよく報道されている。だから、かかったらこわいね、という程度の認識しか一般にはなされていないように見える。
 
違うのだ。あなたが、あるいはあなたの大切な誰かが、何かの発作を起こしても、突然倒れても、そして交通事故に遭っても、誰もなにもしてくれないかもしれない、という覚悟が必要な情況になっているのだ。
 
いまよりずっと新規感染者が少なかったとき、私は、バイク事故に遭って大の字になった人を迎える救急車がまず遅かったのと、その場から1時間ほど動かなかったのを目撃している。これはいまでは当たり前になっているのではないかと懸念する。
 
とどめは、教会関係から、祈りが消えていることだ。だから、この深刻な事態への気づきも想像力も生じることなく、礼拝に集まっても大丈夫でしょ、と明るい。実に無邪気に、濃厚接触者を増やして、保健医療を破壊することを助長している上に、世の人を罪人呼ばわりし、自分たちは神の民だと歌を歌う。
 
これが、イエスの敵だった人々の姿でなくて、なんであろうかと思う。
 
もちろん、教会がすべてそうだと言っているのではない。だが、すべての教会がそうではない、とは言えないことは確かである。あまりにも自分の姿を見ようともせず、愛の欠片もないような自己愛に浸っていないか、少しばかり想像力を働かせて戴きたいと願うのだ。国が命ずるからオンライン礼拝、感染者数が増えたからオンライン礼拝、という程度の、まるで自由のない、流されて支配されるままの態度が教会というものなのか、と問い直して戴きたいのだ。
 
祈って戴きたい。そして、命を守ることに、協力して戴きたい。私も、訴えることについてしばらくの間、甘かったと悔やんでいる。毎日、この命懸けで労している人々を、神が守ってくださるようにと願い続けている。それで何ができるということでもないが、まず自分が、軽い気持ちにならないようにと戒めるだけでも、意味はあるだろうとは考えた。ただ、自己義認はしない。だから、せめて、祈って戴きたいというお願いだけを、結論としたい。



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