ブレないように
2022年1月28日
なにも文章で飯を食っているわけではないが、私はそれなりに、文章を書くことについては経験をもっている。それで、作文の指導をすることがある。
背景を詳述はしないが、中三の受験生に、高校受験のための作文指導を突如担当することになった。小学生へ注意した話を同じように中学生にも聞かせることになる。すべてが同じとは言わないが、作文を書くことについての注意点がそう大きく違うわけではない。
さすが中三、書く文章は比較的落ち着いている。小学生よりも語彙も増えるし、視野が広くなっている。書くことについて、どうしてよいか分からないというレベルの生徒はいない。
だが何十枚と見ていると、傾向のようなものが見えてくる。いま、それを単純化して、文章を書くことに慣れている子と、まとまった文章を書くことを日常せず、ぎこちなく書く子とにタイプを分けてみることにする。つまり、書き慣れた子と、書き慣れない子というふうに捉える。
もちろん、書き慣れた子は、表現やもちかけ方が巧い。それは見たらすぐに分かる。中にはなかなかのテクニシャンもいる。逆に、書き慣れない子は、明らかにぎこちない。面白い文章にはならず、小学生が書くような無器用さが伝わってくる。
だがこれは、課題作文である。入試会場で突然課題が与えられ、それに対して書くのである。結論から言うと、書き慣れた子はえてして、課題に応じたものになっていない。論点が途中からブレていくのである。そして、結論部分は、最初のテーゼとは違うものになっている、そうした例を多数見かけた。逆に、書き慣れない子は、何も洗練されたものを感じさせないのだが、たいてい、論点はブレていない。型どおりに書いているから、課題そのものにはきちんと応じているのである。
書き慣れない子は、型をはみ出るような器用さを持ち合わせていない。まるで公式に数字を正直に当てはめて計算するだけの、数学の苦手な生徒のように、要領は悪いが、要求に合ったものをそこに書いている。恐らく指導された通りに、メモをきっちり取り、その筋道に言葉を努力してつないでいったのだろう。たどたどしい印象を与えることもあるが、筋は通っていると思える場合が目立った。
他方、書き慣れた子は、自分が書けるという自負もあるのか、堅いメモをするよりも、頭に浮かんだことを早く書きたい衝動に駆られるのかもしれない。メモも大雑把で、器用に書き綴っていく。慣れているからだ。書いていくうちに、頭にまたアイディアが浮かぶこともあろう。これも書いておいたほうがよい、という気にもなるし、もっとこうした方がよくなるぞ、という名案も浮かんでくる。そして、なかなか洒落た作品ができた、とうれしくなる。――もちろんこれはただの想像であるが、どうもできあがった作文を見ると、このような心理があったに違いないというものになっている。初めのものと最後が違うことを言っていたり、課題の要求と違うことを楽しそうに論じていたりするものが多々見られるのである。
このブレは、文章を書く技術としてはスムーズである生徒に顕著であった。
分かっているさ。自分は大丈夫だから。それは自信でもあり、頼もしいとは思う。ポジティブに考え、行動できるというのは長所に数えるべきことなのであろう。だが、その思いが、自分で気づかないうちに、本筋から逸れていくことがあるものだと教えられる。しかも、自分ではうまくいったという認識しかしていないということがあるのだ、と。
信仰生活にも、まさにそれがある。「愚直」という言葉が、時折心に浮かんでくるのだが、そのようであれ、という神からの呼びかけであるものと受け止めたい。要領が悪いと言われても、ブレない生き方ができたらいいと思うのであった。