真摯に
2022年1月8日
進学塾では、小学生も児童とは呼ばず、生徒と呼ぶ。もちろん中学生や高校生は生徒だ。そして、そこで何が行われるかというと、ジャンルとしては教育である。
だが同時に、この生徒たちは、お客様でもある。とくに小学生の場合は、その背後に保護者がいるということを常に意識して接することが常識となっている。
先日、トラブルがあった。塾が出している通塾バスの到着が遅れ、最初の授業の前半が欠けてしまった生徒がいたのだ。数人の生徒が、授業途中から加わることとなった。
幸いというか、帰りのバスは、授業終了後30分後くらいに出発することになっていた。そこへ私の出番がきた。授業そのものの担当ではなかったが、そのとき手の空く私に、その子たちの遅れた分の授業をするようにという指令だった。
それを補うだけの授業をすることは簡単だったが、遅れることになった彼らは、ずいぶん不安な思いを抱いたのではなかったかと想像した。それで私は、その頁の問題に似た問題の解き方を教えた。一見難しい問題が、簡単に解けてしまう秘密だ。
遅れたことは、彼らのせいではもちろんないのだが、やはり途中から参加するというのは、彼らには不都合なことであり、ある種の損をしたことになるだろう。そのまま内容を補ったとしても、その損した気持ちがなくなるかどうかというと、私はそんなふうにはならないと思った。食料品を買い、レジの間違いがあったとき、クレジットカードでの支払いを取り消せば、客は何も損を感じないはずがないからである。
たぶん正式な授業の中では決して説明されなかったような、特別なテクニックを聞いたという点を私は強調した。これで、自分は「得をした」という気持ちになってほしかったからである。到着が遅れて不安を抱き、損をしたと潜在的にでも感じたであろう彼らに、むしろ得をしたと思わせる。それが、塾たるもののサービスであると考えたわけである。
教会とは、そうした損得勘定を計算する場ではない。だが、平日へとへとになりながら、やっとのことで礼拝に出る、そんな信徒もいる。京都の母教会の牧師は、その激務を知る信徒が説教中に舟を漕いでいるのを、あたたかく見守ってくれた。そこにいることが恵みです、と言って、自分の説教を夢の中で聞くことを肯定してくれたのである。逆に言えば、一週間の猛烈な疲れを抱えてさえも、教会の礼拝に来るとき、そこで次の一週間を生きる力をもらいたいと思って来ている場合がある。いやいや、神を礼拝にくるのが義務なのであって、説教から「得」になることを求めるなどというのは不信仰だ、そんなことを言う厳しい牧師がいるかもしれない。だがそれは昔の話だと私は思いたい。
一見にこにこ平和そうにしていながらも、実は生活苦に喘ぎつつそこに来ている人がいるかもしれない。病気の不安を懐いたまま、あるいは寿命の限界を突きつけられた中で礼拝に来ている人がいるかもしれない。この礼拝で何か光を受けなかったら自殺を心に決めているような人がいないとも限らない。
そんな人に、「得」というと語弊があるが、慰め力づけるようなメッセージを、あるいは真摯に呼びかけるメッセージを、牧師は常に想定しているだろうか。そこにぎりぎりの心の状態で来ているという事態を想定して、言葉を伝えようという心構えをもっているだろうか。
どうせ誰も聞いていないのだし、当たり障りのない、説教ごっこでもしていればよいさ、というような思いで、精一杯時間を犠牲にして作文を作ったのだぞ、というような姿勢が、ひしひしと伝わってくるような説教を、私は聞いたことがある。というよりも、その人はそういう話しかできないと言ったほうが正確であった。自分が、そうした経験なしに、自分の意志で牧師を目指した、あるいはまわりからちやほやされて何でも許されて牧師の免状をもらったのだとすれば、この人にひとの痛みを知ってほしいというほうが、無理な話であるのだろう。
この授業で、生徒は勉強が嫌いになってしまうかもしれない。逆に、この授業で、生徒は勉強の面白さを感じてくれるかもしれない。そして、受験という、ひとつ人生を変える場面に、自分の授業が、大きな影響を与えるかもしれない。この緊張感は、私から離れない。それがうまくいっているかどうか、それは分からない。だが、その心構えだけは忘れない。そうして、生徒の一人ひとりの顔を絶え間なく一瞬一瞬確認しながら、呼びかけるように話す。
受験半年前に構成されたそのクラスの生徒たちは、実に貧弱だった。彼らを鍛えなければならない。だが厳しくすればよいのでもないし、優しくすればよいのでもない。どうするか。まずは信頼関係を築く。これが肝要である。それさえできれば、後は押すなり引くなり、どうとでもなる。信頼関係が失せたところには、何をどうやってもダメなのである。
信頼関係さえ結ばれれば、真摯に呼びかけ続ける。すると、半年後、とんでもない力を彼らは発揮するようになった。彼らは、確かに成長する。人は変わることができるということを実感するとき、やってみてよかったと思う。もちろんそれは、自分がそのようにできることではないことも、私は知っている。