罪と教会
2021年12月31日
できるなら、書きたくないことがある。だが、エレミヤの如く、燃え上がるものを抑えられない。いや、預言者気取りをしようと思っているのではないのだが。
我が社は上場なんとか、業績上昇中、社員を大切にすることはもちろん、休暇は年になんとか日……それはもう、理想的な会社であるような宣伝文句。そしてそこに入ればブラック企業だった。
自分たちのことを宣伝するのに、悪い点をわざわざ言う必要はない。大きく嘘ではない点を大げさに掲げ、都合の悪いところは完全に隠す。とんでもない会社のようだが、世の中はそんなものだろう。それを上回る知恵を以て、人々のほうも対処することになる。
だが、その会社の広報担当は、自分の会社の悪いところは承知している。だからこそ、そこをわざわざ言わないようにすることができるのだ。もし、会社の悪いところを知らず、また知ろうともしないで、本気で自分の会社は善良で理想の会社だと確信した上で、宣伝している会社があったとしたら、どうだろうか。滑稽でもあり、救いようがないのではないだろうか。
私は、事細かにあれこれ挙げようとは考えていない。キリスト教は、過去において、どんなに理不尽で酷いことをしてきたかという認識を、キリスト教会がもっているかどうか、これを問いたいのだ。
だが、それを公私どちらにしても、言うことがない。振り返り考え直すということもしていない。社内でも、自社の悪いところはタブーなのかもしれないが、教会もまたそうである。健気に信仰生活をするためには、そんなことを考えてはいけないものだということになっているようにも見える。
もし、悪いところを痛感しているのであれば、それをわざわざ外に見せるということをしない、というのも、分からないでもない。ただ、それでは先の喩えの、わざわざ悪いところを見せない会社とさしてかわりがない。しかしもし、悪いところを認識していないのであれば、滑稽で救いようのないケースに当てはまるだろう。
また、以前の社長のときにはそういうこともあったが、いまは清廉潔白ですよ、と弁明する会社があったとしたら、これもまた比喩の一つとなるかも知れない。というのは、過去のキリスト教の残酷で愚かな行為の数々は、いまの自分たちとは関係がない、と考えているわけなのだから。
過去の過ちも、その当時の当事者は、「善いこと」だと確信してやっていたのだ。それが神の御心であり、神の国をもたらすのに加担するのだという「信仰」を以て、人を殺し、虐待し、権力争いを繰り返し、気の合わない他国を悪魔と呼ばわり、文明を滅ぼしてきたのだ。それを拙いことだと判定したのは、決まって当時からすれば後世なのである。後世の道徳や文化の基準に照らし合わせて、かつての行為はよくないことであったと、ようやく見えるようになってくるのだ。
だから、いま私たちが「善いこと」をしている自分たちに酔い痴れている場合でも、後の文化から振り返れば、とてつもなく悪いことをしていたんだな、と感想を漏らされる可能性が、当然あるわけである。もしそれを鑑みず、いまの自分たちの判断や文化は文句なしに善いことなのだ、と言い張るのだとしたら、まさにそれが、過去の轍を踏むこととなるわけである。
Instagramでいろいろな人の言葉を挙げる人がいて、先日このような、ウィリアム・ブース(イギリスの救世軍を始めた人:1912年没)の言葉を紹介していた。
来る20世紀が直面する最大の危機は、聖霊なしの宗教、キリストなしのキリスト教、悔い改めなしの罪の赦し、再生なしの救い、神なしの政治、そして地獄なしの天国となるであろう。
出典を知らないので、この言葉の真偽や脈絡については分からないが、これを、自分ではない、誰か他人の問題だ、と、読んだキリスト者は思うのではないだろうか。だとすれば、それがすでに、この懸念の実現となっていると私は断言する。このような悪は、誰か他人のことだ。ああ嘆かわしい。自分はこんな人のために祈る……。皆がそう思うからこそ、ブースの言葉は真実となってしまうのだ。
罪という言葉が、教会から絶滅しかけているような気がしている。それは、以前から、品行においてしばしば指摘されてきた。そういう時期があったことを、よくないことだと否定するつもりはない。だが、罪というものに対する、もっと深い理解があるはずだ。実に、そこにこそ、神学が営まれなければならないと私は考えている。神学もまた、罪を素通りしていないか。説教からも、世への訴えからも、罪というものが消えてはいないか。
いったい、罪の認識がなくて、どうしてイエスが救い主となるのだろうか。キリスト教をかつての福音派は、「神・罪・救い」の三本柱から伝えていた。それでよいかどうかをここで決めるつもりはない。だが、罪なるものを消したキリスト信仰は、新約聖書を見る限り、ありえないと思う。ブースは、「悔い改めなしの罪の赦し」と言ったが、その「罪の赦し」すら、絶滅しているのではないかと私は危惧している。
罪などと表向きに言うと、誰も教会に近寄ってこないから。そんなふうに思う人がいるのだろうか。これについては、ここでいま追究をすることは省くことにする。また、罪というようなことばかり考えているのは福音ではない、そんな自虐的な姿勢だから、クリスチャンや教会に魅力が感じられないのだ、という意見を持つ人もいるだろう。自己吟味をすることがすべて自虐だとするのは、一部の新聞でたくさんだと私は思っていたが、罪を自覚することと、罪に気づかず、触れたくもないということとは、全然別のことではないだろうか。
一部の神学校では、聖書を神学の素材のように扱いはするが、聖霊もキリストも悔い改めも罪も復活も扱わないとも聞く。そして、自分に罪があることすらまともに考えたことのないような者が、説教を語る牧師などの立場に就く現実がある。そして、自分や教会のすることは、皆善であるのだという確信犯を演じている。
誤解しないで戴きたい。すべての教会がそうだ、などと申し上げているのではない。だが、すべての教会がそれではない、ということが真であるならば、それをどなたか証明してくださればと願っている。
罪とは何であるか、それを適切に語れる教会は、それでいい。そこに救いはもたらされるだろう。ただし、しつこく「罪」という言葉を出していくべきだ、と私は言っているのでもない。いくら言葉で「罪」と繰り返したとしても、別の意味で受け取られてしまうのでは、むしろ有害となりうる。罪の本質を噛みしめることができるような受け取られ方が可能ならば、それでよいのだ。問題は、罪とは何かを、語る者が痛感していることだ。
自分を問い直さなければならないことを教える姿勢が徹底している教会は、健全である。そこには、命があるだろう。クリスマスに、その命が生まれたのであれば、命ある教会が、闇の中に光を放つことだろう。もちろん、教会という語を、一人ひとりの名前に置き換えることもまた、必要である。私も、その現場の中に身を投じている。自分だけは例外というような態度は取りたくない。そして、自分が当事者であるからこそ、罪を問う言葉を、聖書から紡ぎ出していくのだ。
神の光は、人間の暗闇にこそ、輝くのだから。