罪の赦しによる救い
2021年12月27日
幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。
主に先立って行き、その道を整え、
主の民に罪の赦しによる救いを
知らせるからである。(ルカ1:76-77)
洗礼者ヨハネのことを父ザカリアが祝している言葉であるが、ともかくもキリスト者たちが、このヨハネのことをどう理解していたか、ということを示している。それは、私たちにも、そのように理解すべきだという指示にもなっている。
ここに「主に先立って行」くようになるというフレーズがある。まさにそのように、ヨハネは、イエスが登場する道をまず先行し、人々に悔い改めの必要なことを考えさせる大きな仕事をしたことが、この後に描かれることになる。その説明を、この父親の預言により伝えていたことになるだろう。
これはヨハネだけなのだろうか。ある説教が、よいところに目をつけた。いまここにいる私たちも、何かできることがあるのではないだろうか。そして、現代に生きる私たちもまた、救い主イエスに先立って生まれた者ではないか、ということを最後に告げた。
だが、ここで当然聞く者は、引っかかりをもつ。これはどういう意味なのか、分かりにくいのである。ただ、私たちはこの時代の中で語る必要があるというようなことが言われて結ばれた。先ほどの引っかかりについての説明があるかと期待したが、その疑問が解決されるようなことはなく、無難な結論が急に持ち出されて終わったのであった。
この流れが不自然であったことは、手話通訳者が気づいていた。手話通訳者というものは、ただ音声言語を手話言語に置き換えて伝えるものではない。常に意味を考え、意味を伝えようとする。それで話の流れが確実に伝わるように努めるのであるが、ここのところはそれがついにつかめなかったという。喩えて言えば、手話通訳は英文和訳の「意訳」をする必要があるのだが、このときには納得できないままの「直訳」しかできなかった、ということだ。
私は勝手に考えていた。自分の中での理解を進めていた。忠実に話し手の意図を掴もうとするのではなく、自分の中で生まれた考えをつくるのだ。時にそれはよくない癖なのかもしれない。が、語られた言葉を通して、自分に神がどう呼びかけてきたのか、ということに対する応答であるのだとすると、説教のまっとうな聞き方ではないか、とも考えている。
その私は、現代に生きる私たちもまた、救い主イエスに先立って生まれた、ということの意味を、このように考えていた。洗礼者ヨハネは、イエスの地上生涯のための降誕に、まさに半年ほど「先行して」生まれ、宣教的にも「先行して」活動した。ではいまの私たちはどうなのか。ヨハネと同じように、「罪の赦しによる救いを知らせる」ことができるし、求められている。それは、再び来られるイエスに「先行して」いることになりはしないか。イエスが世に来るのは、二度とされている。一度目のイエスに先行したのはヨハネであった。二度目のイエスに先行しているのが私たちである。そしてこのヨハネのしたことを、今の私たちもまた、することができるし、するように求められている、と理解するのである。
手話通訳者は、このような言い方であったのなら、意味がよく分かると言った。
しかし、私はさらに考えていた。先の言葉に続いて、次のような言葉が並んでいる。
これは我らの神の憐れみの心による。
この憐れみによって、
高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、
我らの歩みを平和の道に導く。(ルカ1:78-79)
本当に私たちは、否、私は、洗礼者ヨハネなのだろうか。いや、ここにある「暗闇と死の陰に座している者たち」の一人ではないのか。そう考えたのである。
クリスチャンの中には、自分はイエスに救われたと思い、もう暗闇になどいないから、そうした罪ということなどもう意識しないで、明るく生きていくだけだ、というように思っている人がいる。もう罪などという問題からは卒業したのだ、と考えているのだ。
そうだろうか。それはむしろ、ここにある「平和の道」を踏み外すことになりはしないだろうか。踏み外したことにすら気づかず、またその道そのものを見失っているのではないか、と問いたいのである。黙示録には、そんな教会への叱責もあった。
キリストが再び来られるとき、すべては肯定されるのだろうか。それは、人の思う希望的観測なのであって、自分の理想に、神を合わせ、定めてしまおうとすることなのではないだろうか。
そうではなく、暗いところを知ることが必要ではないのだろうか。私たちは依然として、「罪の赦しによる救い」というものを見つめ続けていくべきではないのだろうか。暗いところを知る者こそ、光が光であることを知ると思うのだ。蛍光灯の照らす部屋の中でろうそくを灯してもその明るさを光として認識することはないが、部屋を暗くすれば、ろうそくの光が輝いて見える。まさに、光は暗闇の中で輝いているのだ。自分が光だと思い込んでいる者は、光の存在に気づかないし、そんな光など必要ないと自分を信じるばかりとなる。だがそれでは、平和の道にはつながらないのではないか。
罪を罪として知ること、これを蔑ろにしてはならない。それはしばしば誤解されているように、品行の問題ではない。もちろん犯罪でもないし、性行のことでもない。ファリサイ派や律法学者は、品行抜群で文句のつけようのない生活をしていたはずだ。それを何故イエスは執拗に攻撃したのか。罪ということを知るには、この辺りについて知ることがどうしても必要である。そうでないと、イエスの十字架が、よそよそしくなってしまう。「罪の赦しによる救い」を知らせることは、この前提があってのことだとするべきではないのだろうか。