【メッセージ】心で見るということ
2021年12月26日
(ヨハネ1:1-18)
わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。(ヨハネ1:34)
◆視覚障害者のはなし
「恋です!」と聞いて、おっ、と反応した方は、ドラマを見ていた方かもしれませんね。先日最終回を迎えた、この秋から冬にかけての連続ドラマです。番組のタイトルは「恋です!〜ヤンキー君と白杖ガール」といいました。
実はこれ、2018年から連載されていたマンガを元にしたドラマで、マンガは当時から話題に上っていました。私も「買うものリスト」に入れていたのですが、買う機会を逸したままにしているうちに、ドラマ化の話が持ち上がっできたのでテレビを楽しみにしていました。
マンガの題はシンプルに「ヤンキー君と白杖ガール」です。盲学校高等部に通うユキコが、ヤンキーのもりおと出会い、もりおがまず好きになるという展開になります。もりおが、極度の弱視であるユキコのことを理解しようと努めることで、読者も弱視者のことを学んでいくようになります。とはいえ、学習マンガではなく、もしジャンルでいうなら、まさしく「ラブコメ」です。面白いのです。
しかし、ユキコを演ずる杉咲花さんの巧さがあって、リアルに感情を揺さぶってくるし、ドラマとして人気が出たのもよく分かります。ドラマの中で、視覚障害者がどのように見えて、また社会でどのような困難を抱えているかを、視聴者も知るようになっていっただろうと思います。私は点字のほうには少し知識がありましたが、中途で弱視者になったユキコは、点字を読むことができず、そのために実際どのような生活感覚があるのか、私も学ぶことが多々ありました。
駅のホームでの転落事故も扱っていて、視覚障害者にとって駅のホームを歩くのは、欄干のない橋を歩くのと同じかそれ以上なのだという喩えは、思わずぞっとしました。
『目の見えない人は世界をどう見ているのか』という光文社新書が、2015年に刊行されています。著者の伊藤亜紗氏は、美学の専門ですが、障害者からの取材が多く、身体についての考察において近年非常に注文されている先生です。私も何冊か手にして、非常に感動しました。この『目の見えない人は世界をどう見ているのか』も、誰も挑戦しなかったようなテーマに対して実証的に取り組んだ、新書ではありますがたいへん優れた作品になっていると思います。この「ヤンキー君と白杖ガール」で真っ先に思い出したのが、この本でした。強くお薦めします。
視覚障害者については、昔から映画でも時折扱われてきたことがあります。ヘレン・ケラーの場合は他の障害もありましたが、「奇跡の人」はよく知られています。チャップリンの「街の灯」、オードリー・ヘプバーンの「暗くなるまで待って」も有名でしょう。谷崎潤一郎の「春琴抄」は、幾度も映画化されています。調べると、田中絹代、京マチ子、山本富士子といった名女優の名が並びますが、私はせいぜい山口百恵といったところです。これも三浦友和でした。また、その後最近も新たに映画がつくられています。
◆洗礼者ヨハネ
映画やドラマの話ばかりしてきましたが、聖書の中でもちょっと映像化してみたい気がする場面をご紹介します。ヨハネによる福音書の最初の章は、冒頭が何か思想書を読んでいるかのように抽象的な言葉が並んでいました。その後具体的な場面になったとき、まず登場するのが、洗礼者ヨハネでした。
1:29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
イエスのことを「神の小羊」と呼ぶ。小羊とは、イスラエルの文化において、神に献げられる動物の代表的なものでした。弱々しい存在ですが、まことにこんな動物を次々と焼いて供えるなど、旧約の規定もどうなのだという気がしないでもありません。しかし文化の問題でもありますし、私たちは動物を殺して日に日に食べているのですから、互いに食習慣や文化をどうのこうのと言うのは控えましょう。
特に過越の小羊という言い方で、たとえばマルコによる福音書はこう記述しています。
14:12 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。
黙示録になると、この小羊のオンパレードとなるのですが、もうそちらに流れることは止めておきましょう。普通この箇所が開かれてメッセージが語られるときには、この「小羊」という言葉を中心に置きます。その時にはこんなふうに黙示録なども登場するよう呼ばれることになるのでしょう。けれども、今日は違います。「小羊」には見向きもしないことにします。「小羊」はイエスのことですから、イエスを語るには「小羊」を主役に置くべきでしょうが、今日は、イエスではなく、洗礼者ヨハネのほうに心を寄せてみようと考えています。
洗礼者ヨハネとは誰でしょう。どの福音書も書かさず登場させているほどに、福音書で重大な役割を与えられている人物ですが、このヨハネによる福音書でも直前に、説明されていました。
1:15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
イエスの到来を先導する担当でした。まず前触れがあり、それからメシアが来るというように当時考えられていましたから、この洗礼者ヨハネこそが、メシアすなわちキリストがこれから来ることを証拠立てる、重要な存在だったのです。洗礼者ヨハネは、ユダヤの荒れ野で人々に悔い改めの洗礼を宣べていました。人々は徐々に、メシアを迎える心準備をしていたことになります。
◆見るということ
洗礼者ヨハネは、「自分の方へイエスが来られるのを見」たのでした。そう、「見た」のです。ヨハネはここで幾度も「見た」と言っています。これは証言となっています。
1:32 そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。
1:33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。
1:34 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
私たちは、感覚的な言葉を、知らず識らずのうちにメタファー、つまり喩えとして使ってしまっています。国民の意見を「聞く」と言っても、きっと音声を聞くという意味ではないでしょう。別れの辛さを「味わう」と普通に言いますが、舌の味ではないはずです。ここでもヨハネが「見た」と言っているのは、視覚的に見たとはとても思えないものが混じっています。イエスが来るのを「見た」のはそれでよいにしても、いま挙げた、「“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」というのは、よほどの超能力者でなければ見えていないだろうと思われます。いくら「わたしはそれを見た」と言っても、これは目に光が入って感覚として知覚したと説明するのは無理な話です。
旧新約聖書で検索すると、見るという言葉は2233節にもわたって訳出されていました。この「見る」という語のメタファーの多様さはまた限りないものがあり、そのすべてを取り上げることはさすがに無理です。ふと私の頭に浮かんだ新約聖書の中の「見る」という表現を、共に味わってみたいと思います。一つひとつを詳しく説明しようとするつもりはありませんから、ご存じの方は思い起こして下さい。初めて聞く方は、聖書にある豊かな表現を感じ取って戴けたらと思います。
心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。(マタイ5:8)
誤解しないようにだけ触れておきますが、神を、物を見るように見るということは、ないというのが聖書の前提です。神を見た者は死ぬとさえ言われていたようですから、ここにある「神を見る」というのは、物体を見るような視覚とは違うことを想定しているのだと思います。
神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。(ヨハネ12:40)
イエスの言葉が届かない人間がいるというときの厳しい言葉です。真実を見ることのない人々は、神に立ち帰らないということなのでしょう。
さらに、次には二つ並べますが、ある共通点があります。お分かりになりますでしょうか。
そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。(ルカ21:27)
『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。(使徒2:17)
「そのとき」と「終わりの時」は、基本的に同じです。将来ある時、神が定めた特別な時のことです。この世の問題が神によりついに決着が付けられる時、審判の時と考えてもらって差し支えないと思われます。人々は、何かしら見るべきものを見るのだというのです。
◆見えるということ
信仰については、私たちは見えるようになりたいと願うことがあります。いったい真理とは何か。救いとは何か。その他人が知り得ないようなことはたくさんあり、神に教えてもらえればと密かに思うこともたくさんあるでしょう。
イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。(マルコ10:51-52)
盲人の目を開く奇蹟の瞬間ですが、現実の視覚障害についてのことを描きつつも、晴眼者でありつつ何も見えていない私たちに対しても、この言葉は突きつけられているような木がします。先ほど、「神は彼らの目を見えなく」するということを知りましたね。
ということはまた、信仰とは、見えないものを信じて、いつか見えることを望むことなのかもしれません。それは、神の言葉は現実になる、という大切な考え方を伝えているとも言えます。
わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(コリント二4:18)
視覚的に見えるものが永遠でないことは、現代科学でも常識となっています。しかし、見えないものは永遠に残るというのが聖書の励ましです。実際私たちも、「愛」という見えないものについて考えるではありませんか。目に見えないものは存在しないのでしょうか。だとしたら抽象概念は一切この世にないはずです。見えなくてもあるのだ、という「信頼」をもつことができたら、私たちはきっと強くなれます。この世界、大切なその人を信用しないで、生きていられるとは思えないのです。
次も、盲人の目を開いた奇蹟の後での言葉です。その奇蹟にケチをつけたエリート宗教者たちが、「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」というイエスの言葉に対して怒りをぶつけます。これに対してイエスが答えます。
見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。(ヨハネ9:41)
いっそ、自分は見えていません、物事が分かっていません、と謙虚でいたのなら、まだよかったのです。自分にはよくないところ、罪があると自覚しているからです。神は、そのような罪は赦してくださることをイエスは知っています。しかし、自分は何でも知っている、自分こそが物事が分かっている、と自負しているというのは、間違った認識をしていますから、自分の内に潜む罪はそのままになっているのです。
「見る」ということ、また後半は「見える」ということについて、いくつかのケースを取り出して味わいました。聖書は「見る」を必ずしも視覚的な事柄だけではなく、いろいろな使い方をしていることを感じました。英語でもsee「見る」が「分かる」でもあったし、それは「会う」ことをも意味していました。将来の特別な時に私たちがイエスに「会う」ことを、イエスの告げた言葉は約束しているように思えないでしょうか。
◆聖書にあるつれない言い方
聖書はこのように、よいことばかり書いてあるようなところだけを取り出すのは、フェアではないと私は考えます。それで、聖書に書いてあるけれども「痛い」ところも取り上げてみようかと思います。
そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。(イザヤ35:5)
「そのとき」とは、先ほど触れました、世の終わりをイメージしてよいかと思います。いまの聖書でこそこのような表現がとられていますが、以前は、いまでは差別用語として用いないことになっている言葉が載っていました。それはまた、聖書の原語がまさにその言葉を使っているからでした。果たして聖書にあるからと言って、障害者の障害がなくなるということを信じるべきでしょうか。中には、そのことに縋るように教会に来るようになった人もいるのではないでしょうか。見えない人の目を開いた記事がたくさんありますが、すべての場面でそのような奇蹟が起こるというように考えることは実際無理ではないでしょうか。
耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。(イザヤ42:18)
直接的にこれを聞くと、何を無茶な、と思われても仕方がありません。もちろん、これは喩えです。神の言葉を聞こうとしない者や、神の業を見ようともしない者たちのことを、批判する表現です。しかし、いまの時代に、この言葉を教会の前の掲示板に書く勇気のある牧師は、いないだろうと思われます。それほどに、刺激のある言葉であるわけです。
しかし上のことは、まだ説明や弁解が可能な範囲にあります。教会がおそらく決して説教で取り上げないであろうような厳しい表現の箇所を、敢えて示すことにします。
5:6 王とその兵はエルサレムに向かい、その地の住民のエブス人を攻めようとした。エブス人はダビデが町に入ることはできないと思い、ダビデに言った。「お前はここに入れまい。目の見えない者、足の不自由な者でも、お前を追い払うことは容易だ。」
5:7 しかしダビデはシオンの要害を陥れた。これがダビデの町である。
5:8 そのとき、ダビデは言った。「エブス人を討とうとする者は皆、水くみのトンネルを通って町に入り、ダビデの命を憎むという足の不自由な者、目の見えない者を討て。」このために、目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない、と言われるようになった。(サムエル下5:6-8)
すみませんが解説めいたものはしません。弁護をしようとも思わないし、非難をしようとも思わないからです。無責任ですが、ごめんなさい。そしてもう一つ、これは祭司の仕事について不適格者のリストです。つまり教会の仕事ができないという条件です。
21:18 だれでも、障害のある者、すなわち、目や足の不自由な者、鼻に欠陥のある者、手足の不釣り合いの者、
21:19 手足の折れた者、
21:20 背中にこぶのある者、目が弱く欠陥のある者、できものや疥癬のある者、睾丸のつぶれた者など、
21:21 祭司アロンの子孫のうちで、以上の障害のある者はだれでも、主に燃やしてささげる献げ物の務めをしてはならない。彼には障害があるから、神に食物をささげる務めをしてはならない。(レビ21:18-23)
聖書を信じるということは、こうした箇所を隠してはならないということだと私は思っています。ごまかしてはならないと考え増す。
先ほど、見えると言い張るところに罪がある、というような話をした、ヨハネによる福音書の箇所も、視覚障害者に対して失礼極まりない話題がずいぶんと続いた末のものでした。
◆ヨハネはイエスを
福音書に付せられた「ヨハネ」と、名前の同じ人物が、今日開いた聖書の箇所にも登場していました。しかしこれは別人です。洗礼者ヨハネとよく呼ばれます。この人はイエスの先導者として用いられた人です。悔い改める必要があるのだと人々に呼びかけ、その後に、イエスが現れてもイエスの言葉を聞き入れる準備を果たした野でした。その時、まだ世間は、イエスの存在について何も知らなかったような時期でした。そのような時に、ヨハネは、歩いてくるイエスの姿を見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と声を挙げた野でした。これがこの箇所の要点に違いありません。イエスは「神の小羊」だということで、その意味を解説していくように、普通の説教は進んで行くのでしょう。しかし、今日は違うところに注目しようと思います。
1:33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。
1:34 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
このわずかな箇所に、ヨハネから見た、ヨハネとイエスとの関係がどう変わっていくか、その過程がよく現れているように私には感じられました。つまり、ヨハネはイエスを、こうする段階を経たのです。
1 知らなかった
2 見た
3 証しした
これが、ヨハネの経験というばかりでなく、私たちの、いえ、この私の歩みでもあったということを、ご紹介することにします。もうしばらくお付き合いください。
1 知らなかった
もちろん私は、イエスを知りませんでした。名前は聞きました。そして宗教としてのキリスト教も聞いていました。けれども、それは西洋文明をつくった宗教であり、その西洋文明の故に世界は危機に陥っていると考えていました。これを潰さなければ平和にはならない、とさえ思っていました。
また、一般的に日本人の感覚からすれば、キリストとはどういう人物かというと、「死刑になった罪人」あたりではないでしょうか。いつか、小学生がそういう反応をしたのを見て、驚かされました。私たちは死刑囚を礼拝しているわけです。しかし死刑囚というだけで崇められたら、あらゆる凶悪犯が神になってしまいます。「神」という言葉の元の意味からして、聖書の指し示す神とは違い、上に立つ者や優れた能力の持ち主を「神」と呼ぶこの文化なのですが、そうなるとなんでも神になりうるし、現になっているわけです。
2 見た
ヨハネははっきりと見たと証言します。水で洗礼を授けている自分の前で、イエスは神の霊を受けたのです。そのような霊が本当に鳩の姿であったのかどうか、それは、それを見たヨハネだけが言い得ることであって、私たちにはどうだか分かりません。もしも、まやかしを見て、それを神だ、霊だ、と騒いだとしたらどうでしょう。宗教団体が社会で騒ぎを起こすときには、しばしばこれが絡んでいるように思われます。具体的に例示しませんが、キリスト教系の新しい宗教の中にもありますし、キリストの霊はこう言っている、などといけしゃあしゃあと言って、それに対してキリスト教側も黙っている、そんな団体もあります。
もしいまの世にイエスが現れたらどうしますか。自分はイエスについて行きます、と胸を張りますか。あの当時のようなあんな現れ方を現在したら、間違いなく怪しいですよ。そんなのについていくようだと、他の宗教にもついていくタイプです、きっと。私はというと、絶対に今現れたイエスの反対側に立つでしょう。妙な自信があります。
私たちは自分を過大評価しがちです。あの当時そばにいても、イエスを慕い、味方でいるのに、そしてイエスを捨てて逃げるなどはしない、など。こんな人こそ、聖書をよく読んで戴きたい。その読み方だけは、してはならないのです。
続くコロナ禍を思います。私たちの体験のないこと、少し前の常識からすれば、完全に異常なことが、当然のように続いています。先が見えない中で、デマに振り回されます。何が正しい情報なのか、曲がりなりにも統一されている時には、大勢に従えばそれでよかったのですが、玉石混交の意見が飛び交うなか、大声で主張するテレビ出演者に従うのがよいような気にさせられていることはないでしょうか。単純にああだこうだと知ったかぶりをしたような、不確かな情報でしかない思い込みを拡散すると、今度は加害側に立つことになるかもしれないのです。
そのうち何が正しいことかが次第に分かってくると、そして結果がひとつ定まってくると、自分が妙なことをして拡散していたことも気分良く忘れ、まるで最初からそう思っていた、などと弱者の味方であり続けているような欺瞞さえ、厚かましくも簡単にできるのです。そしてそのような自分の姿について、自分では気づかないのです。
私たちは、いったい何を見ているのでしょう。
元に戻りますが、ヨハネは見たと言っています。霊が鳩のようにイエスの上に降るのを見たことについては、神から受けたことも含めて、ここには三度も繰り返しています。それがどのようであったのか、少なくとも私は決めることはできません。視覚的・光学的なものではないだろうとすると、それは心の目で見たということなのでしょうか。
そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、(ルカ24:45)
心の目を開いてくださるように。(エフェソ1:18)
この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。(コリント二14:4)
どうも私たちの心の目というものは、大切なものについて勘違いをすることが多いかのようです。ひとつの視覚的なメタファーである、この「心の目」ということは、心でこそ知ることかできること、というように捉えてみましょうか。魂で感じるもの、霊にとって分かるもの、そのように理解してみましょうか。
いわゆる視覚では分かりません。霊的に知るとしか言い様のないような体験をヨハネはしたのでしょう。それを、はっきりと「見た」とヨハネは言います。今日開いた箇所の直前には「いまだかつて、神を見た者はいない」(18)とも書かれていました。
そのような意味で、つまり心の目でなら、私は神を見たと言えます。間違いなく見ました。信仰の目とでも言えばよいのかどうか分かりませんが。自らの罪を痛感し、イエス・キリストの十字架を見上げたときに、そうした目が与えられうると私は受け止めています。
3 証しした
この「見た」ということは、確実に認識したこと、確信を以てそうだと断言できることを意味します。ヨハネは見たから、この方こそ神の子だと証ししたのです。証し、それは確かな証拠としての証言をすることです。目撃証言です。見たという証言は、それを経験していなければできるものではありません。私もまた、まずはさしあたり自分に関しては、真実だというので、強く言い張ることのできるわけです。それは、命がけの証人になれるということです。よく知られているように、「証人」という語は、聖書以来西洋の言語では、同時に「殉教」のような、命がけの出来事を同時に意味します。命を懸けて、自分の見たことは本当だと告白するのです。
◆生きづらさを超えて
さて、かつて知らなかったけれども、いまや見て、証しする。ヨハネの態度の中に、私たちは心によく押えておくべきことに気づかされました。しかし、私たちは本当にそんなことができるのでしょうか。いえ、そうするようにすでに促されているのだとすれば、できているのでしょうか。隣人に向けて、自分は聖書を読んでいるとか、信仰をもっているとか、話していますでしょうか。それ以前に、信仰しても生活ぶりもよくならないし、自分がよい人間に変わったわけでもないなどと振り返ることしかできないかもしれません。代わり映えのしない自分は、よけいに惨めさを覚える、そんなことがあるような気がします。
しかし、「生きづらさ」を抱えた中で、証しするなどできっこないという思いの人がいるかもしれない。「生きづらさ」とは近ごろよく話題に上る言葉ですが、特に定義することなく今風の使われ方で使いますね。
テレビドラマ「恋です!〜ヤンキー君と白杖ガール」をご覧の方はお分かりだと思いますが、そこに登場するキャラクターの多くは何らかの「生きづらさ」を抱えています。主人公とその仲間は、極度の弱視者か全盲です。親がおらず不良になり顔に傷をもつことでまともな人間だと見られないのがそのお相手のもりお。その傷をつけたのは、元不良でもりおのライバルはですが、彼は同性愛者。この人を好きになったユキコの姉は片思いのまま「推し」として見守るだけ。その他彼らを取り巻く人はそれぞれ働き口がなかったり、配偶者を喪ったり、恋心が断たれたり、何か満たされない境遇の人たちばかり、まさに生きづらい者ばかりです。
クリスチャンだからいつもハレルヤと喜びの毎日、だなんて幻想に囚われてはいけません。それで教会で幸せそうな笑顔を演じては疲れ切って帰るなどという人がいてもおかしくはないのです。教会に行くと疲れるとか、逆に空しくなるとか、あっても決して不信仰ではないし、不道徳でもないと思います。それがあたりまえの人間です。だから先般教会で、苦労を思いやられて、「疲れた」と口にすることができた人は、よかったと思いました。教会の礼拝直後に「疲れた」と吐き出したのは、イエスに重荷を預けることができたようなもので、それでこその信仰だと思うからです。
教会で「生きづらさ」を覚えるなど、とんでもない、などと自分で決めてしまってはいませんか。中には、昔のように、それをけしからんと一蹴する威勢のいい牧師がいるかもしれませんけれども。
教会には、きっと何かがある。そのような思いで、勇気を振り絞って教会を訪ねてくる人がいます。苦しみや寂しさを抱えて、縋るように来る人がいます。でも礼拝にいつも加わる信徒であっても、それとそんなに違わないところがあっても構わないと思うのです。
ただ、その人はイエス・キリストを見上げることを知っています。十字架のイエスを見上げるそのとき、キリストが私たちの立つ岩となり、立ち上がらせてくれるということを知っているならば、何かしら復興する可能性があるはずです。いえ、きっと力を受けるでしょう。
その人は、イエス・キリストを「見た」わけです。この方は、世の罪、私の罪を取り除く方です。それを見て、自分の言葉でこの方のことを告白できたならば、行き詰まりのように見える暗闇に光が射し、未来へ続く道が必ず明るく照らされるのだと私は信じています。聖書がそのように告げていると思うからです。
聖書の言葉が、その光をもたらします。神の声を響かせます。その救いの力を私たちは、心の目で「見る」ことができるのです。まさにこの自分を通して、神が働いたということを証言することが、できるようになるのです。聖書があなたの光となることを、願ってやみません。