長男

2021年12月21日

長男の出産は、とにかく初めてのことなので、一つひとつが驚きであり、冒険であった。父である私ですらそうだったので、母たる立場の妻からすれば、なおさらであったことだろう。
 
「こんにちは、赤ちゃん。私がママよ」というような言葉を、産まれた後で告げるのは、男ですよね。作詞者の永六輔さんは、ある女性に見破られたという。女性にとり、赤ちゃんは、外に出る前からずっと呼びかける対象であるから、産まれてからいまさら「私がママよ」などとは思わないからだそうだ。この歌詞は、永六輔さんが、中村八大さんの赤ちゃんを祝ってプレゼントした歌詞を、ママの歌につくりかえたのだ。
 
妻にとり、芽生えた新しい生命は、共に生きる同志だった。そこから話して聞かせられることを、私はその都度書き留めた。そして、出産の時までのことを、原稿用紙数百枚分に相当する、ひとつの読み物としてまとめあげていた。題は「ちっちゃいやつ」と付けた。時にシリアスに、時にユーモラスに、妊娠から出産までのあらゆる出来事をそこに描くつもりだった。
 
それは、神に守られた歩みだった。切迫流産状態を乗り越えて、また心臓に不安をもつ妻故の困難も克服して、長男は誕生した。
 
初めての子育てであるため、どうも手厳しく育てたようだった。これが二番目となると、だいぶ緩む。なんとかなるだろうという感じにもなるし、長男の出会う新たな事態への対応が常に大問題となるものだからだ。三番目になると、どうにでもなるというくらいに余裕ばかりとなってしまい、よく言われる、長男の性格、次男の性格云々というのは、親の子育てに対する態度の問題である部分が大きいのではないかとも理解できるように思う。
 
京都の、ハイツという名の、しっかりした建物の部屋を借りて住んでいた。やがて、具合の悪い幼児の長男を連れて病院に行くと、喘息だという。それも、決して軽くないものだった。原因は、ダニだった。一階のその部屋は、温度湿度その他、ダニの温床となっていたのだった。そのことに、無知だったのだ。
 
ここから目覚めて、喘息について学んだ。しかし、症状は悪くなる一方であった。夜中に眠れず、壁に寄りかかって座位をとり、起坐呼吸でようやく息ができるというようなありさまで、代われるものなら代わってやりたいと思いながらもそれはままならず、祈り続ける毎日であった。
 
好意的な医師にお世話になった。国に申請をして、治療費が支援されることとなった。
 
そう言えば、金銭的に、こうした制度に、幾度助けられてきたことだろう。稼ぎに疎い私では毎日の生活がやっとであった中で、子どもたちが学校に上がり机が要るというような時に、時の首相が子どもたちに一律金を出すなどと突然言い始め、それで机が買えたのだった。阪神淡路大震災を経験した私たちは、福岡に来ても、誰も入っていなかったような地震保険に加入していたものだから、福岡西方沖地震のときに、マンションの反対側のタイルが数枚剥がれただけで、保険金が下りたため、学費が助かったというようなこともあった。このコロナ禍での給付金も、時に適った形で助かっている。
 
戻ろう。治療の故に症状は改善されたが、京都市内の環境では、それ以上は回復が見込めなかった。このこともあった。いつか私の故郷の福岡に行くということはぼんやりと描いていた未来絵図ではあったが、喘息のために、ということが背中を押すこととなり、福岡で暮らすようになった。
 
大学院時代の奨学金は、アルバイトの故にそれなりに貯えられてあったから、家も買えた。都市部から少し離れたところで、窓から緑も見える。交通の便もよいため、都市に出て行くにも苦労はしない。私の親の実家へも、車があれば20分余りで行ける。それで京都で暮らす最後の数ヶ月を、自動車学校に通い、運転免許も取得した。
 
空気がきれいなのは、京都とは比較しようがないくらいだった。そして、長男の喘息はみるみるよくなっていったのだ。そしてその後、喘息児だったことなど全く思わせないように育っていった。
 
長男は東京で仕事を始めた。結婚もした。私の母が逝ったときに夫婦ともに来てくれ、その時が時かなと思い、「ちっちゃいやつ」を渡した。
 
今日は、その長男の誕生日である。あれを書いたときの、私の年齢になったのだ。



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