教会への思い
2021年12月9日
教会に文句を言ってはならない、という人もいる。特に牧会している立場からすれば、それは極悪のように感じるかもしれない。理念としてはそうである。ただ、組織としての教会は完全なものではないのだから、それに対してものが言いづらい人たちの代わりにと思い、私は、言うべきことがあれば言いたいと思っている。
また、教会組織に属するが故に、気づかないような問題点には、気づいた者が指摘する義務があると考えている。それが誤解であるにしても、誤解が生じた以上、その誤解を解くことには意味があるはずだから、問わないよりは問うたほうがよいという意見をもっている。
しかしまた、自分は何もしないのに、汗を流している人の揚げ足を取るようなことをするべきではない、とも考えている。だからなおさら、汗を流しているが故に歪んでいくという人間の性質も、警戒を怠ってはならないと考える者である。
そう、ファリサイ派や律法学者がそうだった。福音書で、どうしてあれほどイエスが彼らを目の敵にしているのか。たとえばパウロは、彼らのことをそれほどには非難しない。福音書の時代から、使徒言行録の時代になると、ファリサイ派という名前は、パウロの肩書きのほかには基本的に現れなくなる。パウロ書簡の方が時代的には古く、福音書は後である。パウロの後に書かれた福音書が、パウロの時代には問題となっていなかったかもしれないようなグループのことを、極悪人のように描いているのは何故なのだろう。これは多くの人に考えて戴きたい。もちろん、パウロ自身の故郷のようなものだから、という説明はできるかもしれないが、パウロ以外の人による文書も、少しも触れないのである。
パウロが敵視していたのは、もしかすると、同じキリストの道を自認するグループなのではなかったか、という説がある。まだユダヤ戦争によりエルサレムを中心とするユダヤ教組織が壊滅する以前であるから、パウロの時代にも、まだファリサイ派などの権威はあったに違いない。神殿祭儀もまだ行われていただろう。いくらパウロ自身がそうしたエリート集団の出身であるとはいえ、また、彼らに迫害を受けた様子は確かにあるのに、イエスのような態度は取っていない。
もちろん、ユダヤ人たちに、あなたたちはイエスを殺したのだ、と突きつける場面はある。しかし、その向こうには、復活が見えており、救いがあると示しているように見えるのだ。
それに比べると、ガラテヤ書で特に、割礼をしなければ救われないぞ、と騙そうとしているグループがあることに対しては、恐ろしい牙をむく。包皮のみならず、全部切り取ってしまえ、と吠えるほどである。このグループは何か。ユダヤ教そのものではないはずだ。イエスの救いを伝えつつ、割礼を義務づけようとしているのである。
教会組織で満悦している姿は、パウロが敵視した相手たちと、もしかすると重なるかもしれない。私はその可能性を否定できないでいる。だから、問題点があるのではないか、と試しに提示してみるのである。
しかし、教会の中には、たとえばホームレスの人々のためになんとかしようと働いているグループや人々がある。たとえばこども食堂を、日常的には難しくても時々でも開いて、地域の子どもたちや親たちの助けとなっている教会もある。事情のある子どもを外に出しづらい親が孤独にならないように、交流の場を設けている教会もある。
頭が下がる。ありがたいと思っている。かつてそうだったように、可能なら若い力がそうした働きを支えてほしいと願っているが、いまは逆に高齢の方々が、使える時間をそうした働きのために用いてくださっていることも多い。若者であれ、年配の方であれ、敬服する。
それがこのコロナ禍だからという働きもあるが、それとは関係なく、以前から継続していたものも数多い。そしてその実行力は尊い。上よりの助けがあるようにと願う。
教会は、建物ではない、とよく説明される。その通り、信仰共同体としての教会は、建物のことでは断じてない。しかし、教会はまた、組織でもない。宗教団体として組織形成をしないと存立できない仕組みになっているが、主の名のもとに少しの人数でも集まるならばそこに主はいることが、聖書には約束されている。だからやはり、組織でもないと言いたい。組織は、組織保持のために、トカゲの尻尾はもちろんのこと、歯車としての部品たる個人を手段にするようになることがある。
ぎこちない言い方ではあるが、人々の働きの中に、教会たるものの本質を見たい。神の言葉を受けた者たちが、神の出来事を実現するために働くその営みが、教会であるものと見たい。もちろん、その人々こそが教会の本体である。神に生かされ、命を受けたその一人ひとりが、信頼関係の中で神の国からの派遣員のごとくに、愛というものが絵空事でないということを、証明する、それが教会であってほしいと願うばかりである。