Facebookを教会が使う目的と教会の将来
2021年12月7日
Facebookは、すでに盛りを過ぎたらしい。また盛り返すことがあるかもしれないからデマめいたことは言いたくないが、たとえばアメリカの若い世代からは、Facebookは明らかに時代遅れとなっている。それももう数年前から言われている。ネイティブなデジタル世代、いわゆる「Z世代」ははっきりとそう結論を下している。
万一そういう話を初めて聞いたというアダルトがいたら、私のへたな説明を放り出して、少しばかり検索をしてみるとよい。どういう感覚でそのようになっているか、説明してくれている論者はたくさんいる。若い世代の多くは、Facebookを使ったことがないわけではないにしても、もう使わないようになっている。そうしたサービスの中でトップがFacebookなのだ。
その波は日本でも同様だと言われる。しかし、アダルトなキリスト者や教会が、ウェブ空間に入ってくることができるようになったとき、Facebookこそ若者への伝道の切り札だ、というような勘違いをしている場合が、少なからずあるような心配を私はしている。Facebookで教会を紹介するのは、若者向けでなんと最新の手段なのだろう、などともしも考えていたら、それは、流行語を使えば若者にウケると勘違いして痛い目で見られている大人と同じような悲劇である。
もちろん、Facebookがだめだなどと言っているわけではない。中高年の交わりの場としてはわりと有効であるように見える。普通なら声をかけることもできないような有名人に、簡単に声をかけたり、「お友達」になったりできるのは快感かもしれない。有名人の投稿に「いいね」をするのが生きがいのようになっている人がいるかもしれない。私のように、流行とは無縁な思惑があって、読まれもしないやたら長い文章を連投するのは、例外的なのだろう。その意味では、カントの「非社交的社交性」がすっかり身についているのかもしれない。尤も、カントの社交はかなり豊かである面もあったようなので、これはひきこもりのようなことを言っているわけではない。
そもそもアカウントをもっていないと見ることもできないという、窓もないスナックのように閉じられた空間でしかないFacebookだと、広く知らせるような機能をもたせることは不可能なのであって、twitterのほうがよほどオープンである。
あくまでも親しい仲間との連絡や通知のために、という程度でFacebookを使うというのなら、まだまだ利用価値もあり、有用でもあろう。そして、教会が若い世代に働きかけるつもりであるならば、たえず若者文化やその考え方や指向などを知ろうと努めなければなるまい。その上で、ちょっと知った上っ面の知識で、若い世代のことが分かった、などと勘違いをすることのないようにするべきであろう。
聖書を読むことが必要だと信仰においては考えられるが、文章の読解が苦痛でしかないような子どもたちが、次々と増殖している。他方で、驚くほどの文才をもつ若者がいることも事実であり、両極化しているように見える中、「ことば」の宗教であるキリスト教には、愛と知恵とが求められている厄介な時代になっている。
歴史の中で化石のようになっている、教義論争などをしている場合ではないのである。