【メッセージ】あなたの物語を

2021年12月5日

(ミカ4:1-4)

多くの国々が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
主はわたしたちに道を示される。
わたしたちはその道を歩もう」と。
主の教えはシオンから
御言葉はエルサレムから出る。(ミカ4:2)
 
生涯最後の日、何を食べたいか。「最後の晩餐」などと洒落て呼ぶこともあるようですが、日本人だと「寿司」や「白米」のようなのが人気なのだとか。
 
年齢を重ねてくると、自分の人生の仕舞い方を考える人が多くなります。就職活動のことを「就活」と略したことに寄せて、「終活」とも言いますが、これはさしずめ「終末活動」ということになるのでしょうか。但し、本当は「人生の終わりのための活動」なのだそうです。
 
亡くなった親の荷物を片付けるとき、もの悲しい気持ちになります。荷物が多いのはかなわない、と妻が私に忠告しました。私の蔵書は、鉄筋コンクリートでなければ底が抜けるに違いないほどの量です。それを全部天国に持って行けるわけではないのだからね、と諭されますが、幾度処分しても、また増殖していきます。財産はそんなふうに増えることはありませんが、本は次々と子孫を増やしていきます。
 
悲しい話をします。我が子が若くして世を去ったとき、その親はその子の部屋をそのままにずっと置いておくという話を聞きます。逆に、思いを断ち切るかのように、苦しんだ末に全部始末した方もいました。京都アニメーションの放火殺人事件の被害者の、ある父親の姿がテレビで紹介されたとき、そこまで報じられていましたので、ただ見るだけの者までもが辛い思いになりました。
 
聖書によく登場する「終わりの日」というのは、自分が死ぬ日という意味ではありません。それは、いつか将来のある日のことです。しばしば預言者が見た、幻の時のことをいいます。将来という設定なので、たまだかつて誰も見たことがありません。神からその幻を見せられた結果、それを神の言葉として預かり、世の人々に知らせるという役目を負った人物のことを、預言者といいます。だから、未来を予め告げる「予言者」ではなくて、神の言葉を預かった「預言者」という表記にしています。
 
預言者は、神に見せられたものを、言葉にして遺しました。さて、私たちの目の前には、その言葉が届けられています。その言葉を私たちが知り、そこから、初めにかの預言者が見たものは何だったのだろう、と想像します。言葉だけが媒介していますから、私たちが読んで想像したものが、最初の幻と一致するという可能性は極めて低いものです。あなたが「これこの景色を見た」と言葉で私に伝えても、あなたが見たとおりの景色を私が想像することは無理であるのと同様です。
 
テクストと呼ばれる、共通のものを互いに共有したとしても、各人がその背後に考える意味は、一致することが極めて困難です。学問は、できるだけそれが一致するような言語を用いるようになった稀なケースで、近代科学は、その一致度が非常に高くなったものだと言うことができるでしょう。しかし、今でもなお、殆どのものが、最初の原体験を完全に誰かに伝えることは不可能です。
 
今日はミカ書を開きました。ミカの見た幻が書かれているにしても、私たちは言葉しか手にしていません。しかしミカの幻の完全な再現は不可能であるにしても、この言葉という窓から、私たちなりに、いくらか自由にその向こうにある風景を味わい楽しんでみましょう。むしろ、私たちは、そしてあなたは、これらの言葉から、自由に風景を思い描きたいと思います。この言葉を原作として映画を作るとしたら、どんな場面を画にしますか。どんな人物を登場させ、どんなストーリーにしましょうか。あなたが監督であり主演であるとしたら、どんな物語を描きますか。そんなことを楽しむひとときを今日は得たいと思います。
 
4:1 終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい
4:2 多くの国々が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。
4:3 主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。
4:4 人はそれぞれ自分のぶどうの木の下/いちじくの木の下に座り/脅かすものは何もないと/万軍の主の口が語られた。
 
どんな景色が想像できましたか。自分の想像でよいのです。ミカの見たものそのものと違うかしらなどと案ずる必要はありません。違うのが当然なのですから。だから聖書を勝手に読んではいけないなどという、教義的なタブーは気にしないようにしましょう。但し、ミカはいったいどういうものを見て体験したが故に、こうした言葉を選び置いたのか、という点を少し想像する余裕があれば、より充実した空想となるでしょう。日本語であるために、本当のミカとはだいぶズレが生じることは仕方がありません。また、文化的背景も異なりますから、同じその言葉でも、思い描くものが全然違うというこも、言葉の宿命です。
 
たとえば、虹は何色でしょうか。日本人は教育されて、七色ということに慣れています。しかし世界的に七つという指摘はそう多くはないようです。六色くらいが標準で、中には五色くらいで済ませている文化もあるでしょう。逆に、白い色について私たちは基本的に一つの呼び名しか使わず、せいぜいアイボリーを区別するくらいのものですが、イヌイットでは両手の指では足りないくらいあるのではないか、という話を聞いたことがあります。
 
もはや古典のような役割を担った、鈴木孝夫氏の『ことばと文化』には、衝撃的な指摘がありました。私たちが「唇」と訳す英語の「lip」からは、髭が生えるというのです。つまり「lip」という語が指す領域は、日本語でいう「唇」よりも広範囲であるという説明でした。
 
ともあれ、今日はあなたが思い描いたそのイメージを大切にしてください。いつか将来、神がこの世界を創造し直すとき、信じられないような平和な世界となる、というふうなイメージをもったとすれば、きっと誰もが手を取り合って心が通うはずです。こうして、今日のメッセージは基本的にもう終わりです。
 
因みに、私がここから映画を作るならば、次の言葉のところをどーんとメインにしようと思いました。
 
4:2 多くの国々が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。
 
全世界の人々が、この神の前に集まってくるのです。主の言葉がそこから発されています。ここが世界の中心です。愛を叫んだっておかしくない。凄くありません?
 
それであなたは、どんな物語をこの聖書の箇所から考えましたか。妙に、聖書的知識や神学研究に魂を抜かれてかのように、いかにもお決まりの優等生の答えしか浮かんでこなかったのではないでしょうね。あるいは、この箇所は、エホバの証人について知識がある人、あるいはその訪問を受けたり、印刷物を目にしたりした人には、たいへん有名なところであることから、心に留まった人がいるかもしれません。「もはや戦うことを学ばない」がために、子どもを柔道や剣道の授業に絶対に参加させないのですね。1990年代に、神戸でこれにまつわる裁判があったことが知られています。
 
さて、物語は、一人ひとりそれぞれにあってよいと思います。あなたは自分の人生の主人公に違いないのですから。「自分の人生の中では 誰もがみな主人公」と、さだまさしが歌い上げたことを思い出す人がいるかもしれません。
 
ひとは、この世界でたくさんの不条理に出会います。自分の意のままにならないこと、それは世の常であるにしても、どうしても納得のいかない事態に巻き込まれ、嫌でたまらないことをしなければならなくなる、あるいはとうてい肯定できないことが目の前で起こる、そんな経験を、誰もがすることだろうと思います。
 
そのとき、現実からある意味で逃避すること、何らかの形でその現実の束縛を逃れることが、税神衛生上必要になるとされます。その役割を果たすのが、「物語」であると説明する人がいます。ひとつの「物語」にすることにより、現実の中で頽れそうな自分が、立ち上がることができるのだ、と。
 
それは、「物語」を読むということでも可能です。ひとは、出会った本の中で、その登場人物になり、あるいはその場面に生きる体験をします。そのとき、自分の体験とその物語の体験が一致しないであるにしても、何かしらひとの生き方として響き合うものがあるときに、物語の中の人物のひとつの体験を、自分の「物語」の一部として経験することができるのであって、そのとき、自分の傷ついた心が、物語られることによって、癒されていくというのです。
 
大学では、この「物語」について最も深いところを探究する文学部が、恰も世の中に不要なものであるかのように扱われてきています。詳しく説明すると長くなりすぎるのですが、コロナ禍でも、文化や芸術などなくなればいい、みたいな声がそこかしこで飛び交いました。医療が大事だという建前を前面に出す割には、医療従事者への差別が後を絶ちませんでした。経済至上主義が唯一の真理であるかのように歩き始めたのは、大学でも経済に役立つ分野、科学技術と国際関係は有用だからと優遇され、文学部関係は暇人の道楽のように見なされ、予算も削られ、学部廃止へと向けられるような動向が、近年益々強まっています。伝統芸能であっても芸術には金は出せんと政治家が正論ぶって言い放つような世の中です。
 
しかし、ひとの心を救うのは、「物語」を始め、芸術であり文化であるのです。金や技術は生活に必要ですが、心を救うには非力ではないでしょうか。
 
多くの文学作品が、ひとの心を救う力をもっています。中でも聖書は、神の言葉と信じるにせよ信じないにせよ、かなり優れた「物語」でありますし、もし信じるならば、絶大な力をもつ命の言葉となるものです。少なくとも、世の多くの人が、その「物語」に魅力を覚えていることに違いはありません。
 
その聖書についてまとめる前に、もう少しだけ寄り道をすることをお許し下さい。「物語」について、幾つかの角度から問い直してみることにします。
 
1 千夜一夜物語
 
9世紀ごろからまとまっていったと思われる、イスラム文化の優れた説話集です。英語では「アラビアンナイト」と紹介されました。私はクラシック音楽を聞き始めた頃に出会った、リムスキー・コルサコフの「シェヘラザード」が大好きです。シェヘラザードという娘が、王に殺されぬために毎夜毎夜物語を紡いでいくというストーリーですが、その物語の中に、シンドバッドやアラジン、アリババなどの私たちにも身近なものが含まれています。
 
「千夜一夜物語」としては、手塚治虫によるエロチックな映画(1969年)を思い出される人、いらっしゃるでしょうか。元の話とはだいぶ違いますが、大人のためのアニメーション映画としては、日本初の作品ではなかったでしょうか。子どもの頃に何度かテレビで見ていたので、普通にテレビで放映されていたという時代は、おおらかだったということかもしれません。
 
ササン朝ペルシアのシャフリヤールという王画、妻の不貞を知り女性不信に陥ります。その結果、妻を殺した後、街の娘を宮殿に呼び入れては一夜の後に殺すということをくり返すのでした。そこへ招き入れられたシェヘラザードは、興味深い物語を王に聞かせ、明日もまた話すからと言い、命永らえ続けるのです。こうして毎夜の物語が王の心を次第に癒やしていきます。
 
千夜一夜物語は、聖書の中の、次のエピソードを思い起こさせます。サウル王に招き入れられて、少年ダビデが竪琴を鳴らして王の心を癒やしていたという話があります。サウルは時折悪霊に襲われていたらしく、あるいは精神的な弱さをもっていたとも考えられるのですが、ダビデの音楽は精神療法のひとつとしての音楽療法を意味していたと理解可能です。ダビデは詩編の多くの詩を作っていますから、私は、その音楽には言葉が載っていたのではないかと想像します。日本で言えば、平家物語のように、弾き語りをすることで、なにかしら物語を聞かせていたのではないか、と想像するのです。
 
2 竹取物語
 
次は、日本最古の物語といわれる「竹取物語」です。ここから日本には何々物語と称するものが多々生まれました。とくに紀元千年頃に生まれたと思われる「源氏物語」は世界的に見ても、その文学性の高さと、当時女性作家がこれだけの著作をなしたという点で、特筆すべきものと言われます。
 
「竹取物語」は、子どもたちに向けては「かぐや姫」の物語として知られ、ジブリのアニメ映画にもなりました。「源氏物語」は無理なのですが、中学生の国語の教科書に、古文の学習のために掲載されています。小学生にも認知度は高かったのですが、尋ねてみると、かぐや姫が月に帰って話が終わった、と皆思っていました。
 
おや、皆さまもそれで終わりだと勘違いしていませんでしたか。ところが物語では、かぐや姫が、帝に手紙と薬を遺していました。不死の薬です。しかし帝はあまりの悲しさに、かぐや姫がいないのなら不死の薬も何の役に立とうかと嘆き、最も天に近いという山に兵士たちと共に赴き、そこで手紙と薬を焼きました。その山の名こそ、富士の山というのだという終わり方だったのです。兵士をたくさん連れて行ったので武士に富む「富士」と記されていますが、あるいは不死の薬だったので「ふじ」という意味も重ねているのではないかという説があります。
 
これも聞くだけで、聖書につながるものが感じられただろうと思います。永遠の命を得ることを求めた人々が福音書に現れますし、イエスを信じる者には永遠の命を与えるということが、新約聖書の知らせる良いニュースなのでした。但し、聖書のいう永遠の命は、竹取物語のいう不死とは同じものではないはずです。それでも、永遠への憧れが人間にはどこにもあったのでしょう。自然の摂理としてそれがままならぬ儚さに美を覚えた日本人と、自然を超えた神に創られた者として永遠を諦めることのなかったユダヤの考え方との違いであるようにも思えます。
 
3 自らつくる物語
 
今日私たちは、ミカの預言から、自分なりの「物語」を考えてみました。如何でしたか。心理療法のひとつに、箱庭療法というものがあります。砂地の小さな箱庭に、自由に庭を作ってもらうのですが、どのようなものをつくるかにより、クライアントの心理状態を読み取ろうとするものです。また、子どもには絵を描かせるという方法もあります。顔のない母親の絵を描いたり、自分の絵に手がなかったりすると、子どもの心の奥の叫びが伝わってくる、などと言います。子どもは、ボキャブラリーが少ないこともあるし、自分の状態を言葉にして伝えることがやはり苦手です。私たちも、どのように説明してよいか分からないことがありますが、子どもにとっては経験も少ないので、益々言葉では自分の状態を語ることができません。私たちも、海外で病院に行ったとしたら、どう表現して伝えてよいか、慌てるだろうと思います。箱庭や絵は、言葉が見つからない時にも、その心を映し出すための場として有効に働くことになります。
 
言葉にならない「物語」が、そこに現れます。「物語」は言葉という形でそこに書かれたり、話されたりするでしょうが、それを受けた側も、言葉にならないまでも、それに併せて何か自分なりの「物語」を紡ぐことになるのではないでしょうか。感情移入したとしたら正にそうでしょうし、自分だったらどうすると考えてみるのもひとつです。映画を観た後に、なんとも言えず胸がいっぱいになることがありませんか。わけもなく涙がこぼれてくることはありませんか。私はすぐに泣くので、妻に、そこで泣くのか、とずいぶん笑われたこともありますが、言葉で説明できなくとも、ぐっときて涙がぽろぽろということもしばしばです。
 
聖書は、明確に言葉により語られた「物語」です。一般に「物語」は架空のもの、フィクションであるわけですが、聖書については、必ずしも空想の嘘事だと決める必要はありません。逆に、事実に基づいた伝記や実録であっても、私たちは「物語」と呼びますから、聖書もやはりひとつの「物語」と言っても差し支えないでしょう。
 
聖書は教会で開かれるとき、一定の権威のもとにか、あるいはいっそのこと聖霊の働きによって、と申し上げますが、神がその語られる言葉を実現していくことになる、生きた「物語」となります。この「物語」は、神がこの世の現実となっていくための場となるのです。
 
哲学者のヘーゲルは、理性とも呼ぶ精神なるものが、自己を実現していく過程として、世界の歴史を説明しようとしました。それが歴史であり、世界の現実だというのです。全盛期のナポレオンを知って、あれが世界精神だと興奮したというエピソードも伝わっています。それは哲学思想ではありますが、ある意味でそれは聖書の示す構造をなかなかよく理解した考え方だと言えると思います。
 
私たちの間で語られる神の言葉は、命を与える言葉としてそこに現れ、それが新しいものを創造し、現実のものとなってゆく。死んでいた魂に過ぎなかった私が、神の言葉に生かされて喜びを与えられ、その神の言葉を命の言葉としてさらにまた伝えようとしている、こんな奇蹟がどこにあろうかと私自身では捉えているくらいですから、皆さまにもお一人ひとりに、神との出会いの「物語」があり、神に生かされるように変えられた出来事があっただろうと思います。それは、あなただけの「物語」であり、あなたに相応しいユニークな「物語」であったことになるでしょう。
 
あなたの出会ったその神が、確かに現実であった、そう考えて揺るがないとするなら、それが、あなたが「神を信じている」ということになるのだと思います。それは、私たちが自分の都合のよいように、自分の利を神さまよろしく、というように要請するものではありません。私たちが思い描いた通りに神が現れるのではないのです。人の思いを超えていますから、私から見れば、何をしてくるか分からないのが神という存在です。私は、その神の前にしもべとしてひれ伏すしかない者です。
 
神の計画が分かったとか、神を理解したとか、そんなことは、口が裂けても言えませんね。神の「物語」を、自分の気に入るように勝手に作り替えることはできません。人の思いのままに変更することなど、できないのです。時折、「神は〜のはず」と確信を以て語る説教や説明がありますが、とんでもないことです。人間の側が、神はこれこれをなさるはず・なさらないはず、などと決めることは、全くできないのです。推測は許されますが、神を操作して従えるような真似は、してはならないのです。
 
私たちは今日、預言書から自分の「物語」に気づく営みに挑んでみました。預言者の書を読んでも、預言者が本当に経験したそのものを全部知ることは、私たちには不可能なことを前提しました。それでもその書を通じて、自分はこのように読んだという経験が許されているものと考えました。しかも、信じる、つまり信頼するということは、神の与えたその書を通じて、読む自分がそこから神と出会う「物語」を思い描くことができるのだという安心と共にあるものでした。
 
そこにあるのはひとつの同じ文章でしょう。けれども、読む一人ひとりが異なるそれぞれの「物語」を立てるようになります。神は、一人ひとりに違う恵を与えることができるお方です。違う信仰を与え、違う救いを経験させます。ただ、神は聖書の言葉から、聖書の言葉を通じて、その人を救うというところが、言なる神のなさる業の特質です。私たちの側の思い描く神の姿に陶酔して救われるというものではありません。そうであったなら、そもそも神の言葉としての聖書は必要なかったことになるはずです。神などいらないが私は神に救われた、などということはありえないのです。
 
従って、教義をよく理解すればそれを信じて救われる、ということには警戒しなければなりません。神との出会いのために与えられているのは、聖書の言葉です。プロテスタントが見出した「聖書のみ」という合言葉は、このようなところにこそ強く生かされる必要があると私は捉えています。すると、教義がひとを救うのではないわけですから、聖書はこのように解釈しなければならない、こう読まなければ救いなどない、というような呪縛からも、解放されるとよい場合があることになりましょう。
 
あなたは聖書の言葉から、あなたが登場する「物語」を知るでしょう。神がいて、あなたがいる。聖書の中には、あなたが登場できる舞台がいくらでもあります。聖書の「物語」には、あなたが登場できるのです。あなたが登場できる「物語」はあなただけのものとして成立します。他の人の「物語」は、また別の展開をしてよいわけです。あなたは、あなただけにぴったりの物語を、聖書から与えられます。聖書はあなたの心の穴を埋め、あなたの心をピンポイントで救い出す「物語」を、あなたにプレゼントしてくれるでしょう。クリスマスは、イエス・キリストが来て下さったということを見つめる時です。あなただけの、クリスマス物語を、今年、生きてください。神は、必ず与えてくださいます。



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