アドベントを迎えて

2021年12月1日

伝統的に「待降節」という語が温かい。12月というよりも、クリスマスまでのひとときという意味で迎えてもよいかと思う。クリスマス礼拝までの四回の礼拝は、クリスマスを待つという意味を濃くしたプログラムや説教を、教会は用意するのが普通である。「アドベント」は「アドベンチャー」という語にも関係する語で、あるところに向かってやってくる、到着する、そうした意味合いをもつ言葉になる。「アドベンチャー」だと、未来の意味合いがこめられて、これから起ころうとすることへのワクワク感が伴うのだろうか。
 
北半球では冬真っ盛りであるが、もともと日照時間の最も短い時季を指定しただけのことであって、イエスが冬に生まれたという証拠は何ひとつない。北半球世界の思い入れだけで、その誕生の時季を決めたのである。
 
そんなことを持ち出すと、ムードがなくなると言われるかもしれないからやめよう。
 
去る11月25日の東京新聞のコラムに、ディケンズの『クリスマス・キャロル』が取り上げられた。この時季にはよく出てくる素材だし、後半は政治経済の話になってしまうのだが、主人公スクルージは、「クリスマスを憎んでいる」と紹介し、「くだらない」と考えていたとしている。「クリスマスに人が優しく、おおらかな気持ちになるのが理解できない」からである。
 
キリスト教会でもクリスマスを祝うのですか、という笑いのネタは、ある落語家の創作落語に基づくのかもしれないが、キリストのいない「クリスマス」をは確かに、「くだらない」一面があることは否めない。しかしそこに、「優しく、おおらかな気持ちになる」ものがあるとすると、妙に見下す心のほうが、さもしいものに見えてくるような気がするのは、年齢と共に丸くなった私のなまくらさからくるのだろうか。
 
その私が厳しく断ずるときには、だからそれなりの意味がある。然りは然り、否は否である。それは、狭い了見での私の基準による道徳や思い込みによるものではない。神の言葉を語ることへの最小限の条件である。あいにくその自覚ができるということが、実は条件に適うことであり、その自覚ができないということが、それを満たしていないという、皮肉な事態がそこにある。
 
ある人は、聖書のストーリーと、それなりの教訓は口にすることができる。だが、聖書の物語の中に自分が入ってその中の出来事を体験していないから、その人は聖書から命を受けていない。聖書の言葉がその口から出る以上、その言葉が聞く者を救うことができない、とは言わない。しかし、その説教自体は空しいものとなる。
 
世の人は時に、なぜ二千年前の出来事がこの私と関係があるのか、という思いを抱き、聖書を勧めるクリスチャンにぶつけてくる。十字架は自分とは関係がない、それはある意味で当然思うことであろう。このときその十字架は、自分とは無関係な「過去」でしかない。ギリシア語文法ではその過去形は「アオリスト」と呼ぶので、ご存じの方はそちらで理解戴きたい。十字架をアオリストで呼ぶとき、その十字架は自分と何ら関係のない、ただの過去の出来事として見られていることになる。そこでは十字架は、ストーリーとしては認めても、ただのストーリーなのである。
 
パウロにとり十字架は、そうではなかった。直接十字架を見たのか、あるいはそのイエスの死に加担したのか、その辺りは謎であるが、パウロにとりイエスの十字架は、神との真の出会い、救いというものの第一の存在であった。パウロにとっては、イエスの十字架は自分と強く結びついている。十字架は他人事ではない。自分自身を変えたもの、違う世界が目の前に見える者に変えたものである。絶望から救い、パウロからすれば滅びから救い、永遠の命を与えるための決定的な出来事であった。
 
パウロの心には――そして私もそうなのだが――、今もなお十字架のイエスがそこにいる。今私が何かをするにしても、常にすでにそこにある姿である。パウロはこの十字架のイエスについて述べるときに、アオリストを使わなかった。「現在完了形」を使った。これは英語でもそうだが、ギリシア語ではさしあたり過去の出来事を述べるにしても、その出来事が今の自分に強い影響を与えていること、今の自分に関係があることを示すはたらきがある。時に、今もなお続いているという様子を表すこともできる。十字架という過去の出来事を物語るときには、自分と深い関わりがある物語となるわけである。この物語は、ストーリーではない。これを今風に、「ナラティブ」と呼ぶことにしよう。そこには、自分がその物語の中に参入しているという構造がある、そういう理解で呼ぶことにする。
 
例えば聖書では、ユダヤの祭儀が生活文化としても前提されている。動物を犠牲にして殺すことで、人間の罪が赦されるという考え方が古来あった。だから、キリストの救いは、その文化の中では確実に「贖い」として語られた。しかし文化の異なる現代日本の私になどは、「贖い」という理解はピンとこないことがある。しかし、日本にも、代わりに罪を引き受ける者がいることで、当人が許されるという構造はあったし、当然理解もできる。
 
当時十字架は、最高度に残酷な死刑方法であり、これ以上ないという罪を罰するためのものであった。聖書の中では、時のユダヤの権力者や、それに乗せられた群衆が、しきりに「十字架につけろ」と叫んだことで、イエスの十字架刑が決まったことが見てとれる。これがただのストーリーでしかないのなら、アオリストでいい。しかしパウロは現在完了形で描写した。自分との関係を外れて、十字架を語ることをしなかった。
 
私はそんな文法によって知ったのではない。初めから、自分の目の前に十字架のイエスが現れたし、それは今も常にそうである。だから後から知って、パウロさんもそうでしたか、と言うだけのことである。
 
ただ、イエス自身がどんな意図や思いで十字架への道を歩んだなどについては、私はそれがどうのこうの評するような気持ちはさらさらない。自ら十字架で死ぬのだ、と予告してから架かったのだとしたら滑稽ではないか、という見方もあるが、それは人間の感覚に過ぎないと考える。神の意図を知り尽くしたような姿勢は私は取らない。神の前では私はただのしもべに過ぎない。ただ、その神により、十字架のイエスという決定的な出来事により、救われたことは頑として譲らない。これを確かなこととして私は口にするしかないのであって、そうして行く証人として歩んでいくしかない者なのである。
 
その十字架へと続く道が、イエスの誕生から動き始めたとすると、その誕生を記念するクリスマスというものは、今から見れば、結末の分かっている連続ドラマの初回放送のようなものであろう。私たちは、心してこの初回から、そのドラマの中にナラティブとして語り参加し、登場し、体験する者でありたい。そしてアドベントは、このドラマの予告編でもあったのである。映画の予告編は実に魅力的に映画を紹介する。アドベントは、イエス・キリストを魅力的に、期待させるような形で、紹介する時でもあればよいと願っている。
 
但し、このナラティブは、十字架で終わりはしない。復活が待っている。だがいまは、その点については話を延ばさないでおくことにしよう。



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