【メッセージ】委ねる信仰と行動と

2021年11月28日

(イザヤ11:1-10)

その日が来れば
エッサイの根は
すべての民の旗印として立てられ
国々はそれを求めて集う。
そのとどまるところは栄光に輝く。(イザヤ11:10)
 
私は学生の時、まず木造の古いアパートに住んでいました。そこは京都。京の底冷えは応えました。猫の額ほどの庭めいた空間は、洗濯機を置けば、風呂を沸かす装置がやっと操作できるくらいしか残りません。そこはトタンの波板で区切られており、下のほうが空いていました。
 
そこは、猫の通路でした。最初は猫の足が時折見えるということくらいでしたが、そのうち私が遊び心で、出汁に使う煮干しを小さな縁側に置いておくと、猫が食べて行くようになりました。それがくり返されると、猫もこちらを信用するのか、私に触らせてくれる猫も現れるし、部屋の中にまで入ってくる子も出てきました。
 
夜は私の布団の上に寝る子もいて、お陰で私は猫の生態について存分に知ることができました。さらに下宿生活での猫のことを話すと何時間でも話せるように思いますが、ここでやめておきます。けれども、猫の話はまだ続きます。
 
妻が猫の肉球を触ったことがないといいます。山の中に猫がいる場所は知っていましたが、野生の猫は触らせてもらえそうにないので、猫カフェなるところに行ってみることにしました。ちょうど、コロナ禍が始まったばかりで、私が仕事に行かない日が始まった頃でした。
 
猫がえらく可愛いものだと実感した妻でしたが、やがて非常事態宣言が発令され、猫カフェに行くこともできなくなりました。それに、猫カフェへ行けば映画代くらいが一度で飛んでしまいます。そんなあるとき、自粛生活の中で散歩のために広々とした公園に行ったとき、猫たちを見かけました。
 
調べると、そこには猫が住んでいるそうです。野良猫ではなく「地域猫」と呼びます。飼い主がいないけれどもちゃんと世話をするということで、地域の理解や協力のために、公園などに住んでいるということです。私たちの行った猫カフェは、保護した猫を育て、良い引き取り手を募っているような店でしたが、公園のほうは、公園の中で保護されているという感じでした。
 
人が密になることもない空間であり、散歩などのコースにもなっています。それから時々、その公園に行くことになりました。すると、決まった地域に決まった猫がいることを知ります。また、ボランティアの方々が、朝晩猫たちに餌をやっていることも分かりました。
 
教会の礼拝がリモートになることが多くなり、私たちはリモート礼拝の後、その公園を訪れることが多くなりました。すると、顔なじみの猫ができますから、自分たちで勝手に名前をつけて触れあっていました。猫たちも慣れたもので、人間にも近づいてきて撫でられることを快感にしているような猫も多々いました。そして、妻にはお気に入りの猫もできました。
 
あるとき、そのお気に入りの猫のところにいると、ボランティアの方がやってきました。妻は思いきって尋ねました。この猫の名前は? 実は、ボランティアの方々があちこちで餌を与えているとき、猫の名を呼んで集めていることを知っていたのです。私たちはその猫の名前を知り、喜びました。いつもツンデレで、ちっとも愛想良くないし、目つきもきつくて、いかにも可愛いというふうではないのですが、妻はその猫をそれ以後名前で呼ぶことができるようになり、ますます好きになっていきました。
 
そんな生活が続いた先月、やはりボランティアの方々に声をかけると、その地域猫のウェブサイトがあることを教えてくれました。そしてボランティアを募集していることや、なにより餌代が必要だということも聞きました。妻は、息子の入試の願書を送るとき、同時にその猫たちのためにいくらか送金をしました。
 
そのうち、私たち夫婦が週に一度は現れるので顔が知られるようになり、ボランティアの方々に「こんにちは」と挨拶されるようになりました。そんなある日、また私たちが一人の方に話しかけました。ひとり、洟が出てばかりの子がいるのが気になっていたからです。すると、その方はいろいろ話してくれました。どんな薬を呑ませ、また動物病院に連れて行き治療をしたか、それはその子ばかりでなく、いろいろな子が、どんな病気でああしてこうして、と分かります。私たちは名前こそ知りませんが、言われればどの猫のことなのかは分かります。ボランティアの方は、病気のきつい子は、自分の家に連れ帰り、安全なところでしばらく面倒をみるのだそうです。それなのに、病気が治ってまた公園に戻れば、餌の時間のほかは全く関心を寄せてくれないつれなさもあるなどと言って、笑っていました。
 
そうした病院代も寄付だけで賄っていることになりますが、餌代も含めて大変困っているそうです。小さく折りたたんだ名詞状のカードを私たちはもらいました。毎週通う私たちは、只で猫を撫でさせてもらっているのですから、猫カフェに行ったと思えば、いくらか協力ができそうだと思いました。
 
猫の嫌いな方、くだらない話にお付き合いありがとうございました。なんで猫なんだ、困っている人間もたくさんいるんだから、そんな協力をするくらいならば、人を助けるために使ったらどうなんだ、という非難もあろうかと思います。でも、同じ時、同じ場所に産まれて出会った小さな命のために心を痛め、労苦している方々は、そうした役割のために召されたに違いないと私は思っています。それとはまた別に、人を助けるための役割が、また誰かに与えられているに違いない、と。
 
ボランティアの方々は、ご自身でも猫を好きであるのでしょうけれども、ほかにまた猫を可愛いと思う私たちの代わりに、毎日多くの時間を使って、猫たちが日々生きる世話をしてくれているのです。本当に頭が下がります。心から尊敬します。
 
じゃあ、小さな命を守るということは分かったけれど、だったら信仰をもって祈っていたらよいのではないか、と仰る人はいないでしょうか。なぜって、神は小さな者を大切にする方なのだから、放っておいても神がなんとかして下さるのではないか。そう信じて祈っていた方が、信仰的なのではないか。
 
どう思いますか。本当にそうでしょうか。
 
神に祈ることは、大切です。神に委ねるというのは、信仰の根幹です。それどころか、自分が出しゃばろうとすることを、聖書は戒めるようなことがあります。
 
主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。(出エジプト14:14)
 
戦いの場面が、旧約聖書にはずいぶんとありますが、その中には、神に祈ったところ、敵軍が同士討ちで滅んだとか、何故か翌朝誰もいなくなっていたとか、不思議な話も多々あります。つまりは、主の戦いであるということ、神は民を護るということ、そんなことを告げているのだろうと思いますが、だからこそ、主に祈り求めることこそが大切だ、ということに、ケチをつけるつもりは更々ありません。
 
アジアでは近年、香港やミャンマーで、政治的な弾圧がなされました。日本ではその国の人々のために祈りました。でも、それで?
 
震災や水害などの被災者が大変な目に遭い、苦しい生活を強いられました。精神的な打撃も癒しようがないと思われます。その人たちのために祈りました。でも、それで?
 
私たちは、自分には直接関係のないことであれば、信仰をもって祈ることができる、神に委ねることができる、などと言うと暴言のように聞こえるかもしれません。しかし、世界平和のために、とはいくらでも口に出して祈れますが、隣の人と仲直りができるように、とは祈りにくいのではないでしょうか。家族や兄弟などとのよろしくない関係を、信仰をもって祈る人は、世界平和のために祈る人よりも、少ないのではないでしょうか。
 
病気や餌のないままに放置された猫を、神は守ってくださいますよね、どうかお願いします、と言うのは、信仰深いのでしょうか。たんに自分が責任や痛みを負うことが嫌なので、神に丸投げしているだけとは違うのでしょうか。「神に委ねる」という言葉で言えば聞こえは良いのですが、単に「神に丸投げ」しているという実態があるとすれば、福音書で散々聞いてきた「偽善」ということに、ならないかと私は懸念します。
 
「神に委ねる」ことと、「自ら行動する」こと。どちらが大切なのか、という話は、キリスト教の世界ではベタなものかもしれませんが、極めて日常的なものであり、決して簡単には解決できないものだと私は思います。もっと単純に言うと、「信仰」と「行い」という問題に還元される、例の問題です。
 
パウロはローマ書で「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」(3:28)と言いましたし、ヤコブ書は「これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」(2:24)と言っています。いろいろな解釈や説明はありますが、ほぼ真っ向から対立する言明ではないでしょうか。それを、理屈をつけてうまく説明してやった、というような態度は、私は好きではありません。まるで、その謎を解いた自分はすごいだろう、とほくそ笑んでいるようなふうに見えて仕方がないのです。
 
この対立を認める牧師は、「信仰」と「行い」を、車の両輪のようなものだ、と語ることがあります。まだこの方が自然で好きです。そもそもヤコブ書自体、パウロ寄りになりすぎた言い草に対して待ったをかけるような意図から書かれたかもしれない、という理解もありますし、「信仰だけによる」のではない、としている分、バランスのとれた理解を私たちに与えてくれるような気もします。
 
クリスマスの時季、教会は、イエスの誕生を祝う構えに入ります。クリスマス礼拝の三週間前からは、イエスの誕生を待つための準備を始め、聖書もそうした内容から選ばれます。代表的なものは、マタイとルカの福音書です。そこから、いわゆる生誕物語とその周辺が取り上げられ、その場面から深い信仰と思想を読み取ることになります。しかし、他の福音書や、旧約聖書が開かれることもあります。特に旧約聖書は、このイエスの出現について、預言をしているという前提になっていますから、その前提となるような箇所が扱われることが多いと思われます。
 
今日開きます旧約聖書のイザヤ書も、そうした箇所のひとつです。冒頭の「エッサイ」(1)というのは、イスラエルの歴史のキーポイントに立つダビデ王の父親の名前です。イザヤという預言者は、ダビデよりもずっと後の時代の人ですから、最後の「その日が来れば/エッサイの根は」(10)とある以上、ダビデその人のことが言われているのではないと言えます。「ダビデ」と呼ばれたのは、ダビデの子孫をイメージしているはずです。そして新約聖書は最初の頁を開くと、イエス・キリストの系図が退屈なほどに記され、その要の場所にダビデの名が現れることになります。「キリスト」とはヘブライ語では「メシア」のことですから、ここには、イスラエルがいつか現れる民族の救い主のことが預言されていることになります。
 
このメシアは、神の霊により働くようですが、今日は「弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する」(4)をまず押えておきたいと思います。イスラエルから現れる救い主は、弱い人や貧しい人を救う、と言っているように聞こえます。
 
この後、「平和」な幻が描かれます。有名な箇所ですから一度見ておきましょう。
 
11:6 狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。
11:7 牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
11:8 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。
 
ありえない風景です。それくらい、メシアはあらゆる傷つけ合いを超越した世界をもたらす、とでもいうことでしょうか。獅子の穴に投げ込まれたダニエルという預言者もいましたから、よほど聖書は、互いに争わない姿を理想として掲げたいのであるように見受けられます。
 
このような時が必ず来る。イスラエルの民は、それを将来に期待します。そして待ち続けます。現実には、悲惨な滅亡を体験し、祖国から連れ去られるという屈辱も味わいました。まことに敵のした残虐な仕打ちは、トラウマになるほど酷かったはずですが、それに逆らうこともできず、嘆きながら、憎しみながら、生き地獄のような風景に胸をえぐられるような体験をして、生きていたことになります。我が幼子は占領してきた敵により岩にぶつけられて次々と殺されます。皮を剥がれ、釜ゆでにされ、首と手足をばらばらに切り刻まれる息子たちを見つめる母親の気丈な態度を描く場面も、旧約聖書続編にありました。ゼデキヤ王は、息子たちを虐殺される場面を見納めに目をえぐられ、バビロンに連れて行かれたのでした。
 
想像するだけで胸が苦しくなるようなことが聖書にはたくさん書かれています。詩編の一部は、こうした悪夢のような出来事に対して、神に、敵を滅ぼしてくれ、呪ってくれ、と歌います。教会は、そういう詩を、礼拝の場から一切追い出しました。しかし、それでイスラエルにあった信仰の、大事なところを無視することになりはしないでしょうか。聖書のみ、と豪語するプロテスタントが、恣意的に、聖書の一部を無視してよいのでしょうか。
 
こういうわけですから、このイスラエルが救い主を待つというのは、祈っていればきっとメシアが来ると待ち望んだ、などという生やさしい問題ではないのです。祈って、主よなんとかしてください、というような丸投げではないのです。できるならば、この手で敵の首を切り落としその身体を切り刻んでやりたいほどの憎しみに包まれながらも、それが現実にできない情況の中で、神よ復讐してください、と命がけで祈っているのです。自分で殺したけれども、殺すことができないから、神よ殺してください、と祈るのです。
 
それにしても、注意しなければなりません。「行い」は軽く見られたわけではないのです。このときイスラエル民族は、逆らおうにも逆らうことができませんでした。しかし、マカバイ書などを見ていると、勇敢に戦うことを使命とし、また必要としている様子がよく伝わってきます。「信仰」に基づいて「行い」を伴ってこそ、のイスラエルでした。神に委ねる思いのままに、
 
そこでひとつ、逆を考えるというのは、問題を考えて行き詰まったときに有効な方法だということを思い出しましょう。「神に委ねる」思いと共に、「自ら行動する」ということに反するのは、どのような態度なのでしょうか。
 
どちらも否定したものは、「神に委ねもしないが自ら行動もしない」ということで、ここでは論外でしょう。この人は凡そ何をしているのかすら、怪しくなります。それとも、臆病な故に、なんとかしようと思ってもうろたえたり怯えたりして何もできない、という様子でしょうか。それは気の毒な様子ですが、いまここで考えようとしていることとはまた別の話であるとしておきます。
 
後者だけを否定すると、「神に委ねて、自ら行動をしない」ということになります。私は今日、猫を放置するのが信仰であるようには考えたくない、と申しました。神に「丸投げ」することが好ましいとは思えない、と。
 
それでは前者だけを否定してみましょう。「自ら行動して、神に委ねない」となります。行動力があるのは頼もしいものです。私はそれだけで尊敬したくなります。しかし、こと信仰の世界で考えると、これが一番恐いかもしれません。
 
人間は、歴史上、これをずいぶんとやってきたのではないかと思うからです。しっかり行動はしました。自ら考えたことに従い、やってきました。教会の教えに反する者を殺しました。神の名を掲げて殺戮しました。正しい神を信じていない者は滅ぼしてもよいという正義感から、文明を滅亡させました。神は優秀なわが民族を選んだとして、ユダヤ民族を物のように絶滅させる計画を実行しました。
 
自分は聖書をこのように読んだ。聖書は真理である。だから自分のすることは真理である。このような、誤った三段論法によって、取り返しのつかないことを人間はやってきました。これらはどれも、キリスト教を名乗る人々により、なされてきたことです。
 
本当なら、そこでこそ、神は悪を滅ぼすであろう、と待った方がよかったのです。神に委ねず、自らの手で「天誅」とばかりに行動を起こそうとするのは、尊皇攘夷派で倒幕を図った「天誅組」で十分です。だのに、人間は、たとえキリスト教を自称していようが、いつの間にか自分自身を神としていこうとする生き物なのです。厄介なことに、自分がいつしか、神を道具にしてしまおうとする、そのことにさえ気づきません。神の名の下に、自分が偉くなったかのように振舞うことを平気で行います。
 
それから、ひとつの叫びとして共感しないわけではないのですが、「神はなぜ私たちの思うとおりのことをしないのか」という疑問をぶつけて、神は存在しないと言い放つ場合もあります。疫病や災害を起こす神はいらない、とばかりに正論をとなえる場合もあります。私はそこに、「自ら行動して、神に委ねない」スピリットを感じて仕方がないのです。
 
しかし必要な「霊」はどういうものだったか、振り返ってみましょう。
 
11:2 その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。
 
「霊」というところを除いて並べると、本質的なものが見えてくるような気がします。つまり、「知恵と識別・思慮と勇気」です。知恵が必要です。然りは然り、否は否、と識別する眼差しが必要です。それから思慮が必要です。たぶん大丈夫だ、という根拠のない安心ではありません。世間的にはここでやめるのは失礼だ、などというような組織的制度的なやり方を、事の次第によっては破る勇気が必要なのです。神はきっと私が思うように、よくしてくださる。心配はいらない。なんとかなる。このような考えが「信仰」の正体ではないのだと受け止めたいものです。
 
11:9 大地は主を知る知識で満たされる。
 
最後の方でもう一度「主を知る」が登場しました。「知る」というのは、私たちの感覚でいう知識ではありません。体験を伴って人格全体でぶつかり交わることです。神についての知識があるというだけでは、主を知ったことにはなりません。神を見たり神の声を聞くことはありません、とよく言われますが、そんなことはないと思います。テレビや動画を見るようなものとは違うにしても、「神を見た」「神の声を聞いた」としか説明できないようなことは、ありうるのです。
 
それは、劇的な聖霊体験をもつことだ、とは申しません。また、ここでいう「主を知る」霊は、最初にメシアに与えられたものとして表されていました。イエスはまさにそのようにして、父なる神と深い交わりをもっていたのですから、適切に表現されていると思います。そして次に、やがてくる日に、大地が「主を知る」知識に満ちるとされていますから、今度は私たちにその「主を知る」出来事が、及ぶのです。すでにその知識を受けた人もいますが、まだの人もいます。これからで結構です。ただ、これからそうなるように祈り求めることは忘れないでください。その求める生き方が、あなたを必ず神との出会いに導いていきます。
 
11:10 その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。
 
エッサイの根がキリストであるとするなら、全世界の民の前で君臨する日がくることを伝えています。大地全体のすべての国々が、その許に集まります。そこは栄光の神の国です。
 
私たちは、なすべきことをなすが、結果は主に委ねてよいでしょう。そのような生き方を教えてくれた人の言葉を最後にご紹介します。中村哲さんのことは、その死後広く知られるようになりましたが、福岡は、彼をよく知り、送り出した地元として、誇らしく思うと共に、残念に思う気持ちもより強い地です。医者として赴任しながら、医療だけではなく、アフガニスタンの荒野に水を流して作物の育つ土地に変えていきました。そして2019年12月、反政府のグループによってでしょうか、銃弾に倒れました。
 
2013年に発行された『天、共に在り』という本の帯には、「道で倒れている人がいたら手を差し伸べる――それは普通のことです」と書かれてありました。この言葉はこの本の他には現れないそうです。しかし、「なぜアフガニスタンで活動するのですか」と質問されたとき、中村哲さんは、その言葉を答えていたということが、最近の本(『わたしは「セロ弾きのゴーシュ」 中村哲が本当に伝えたかったこと』)の中で明らかにされています。中村哲さんは福岡のある教会の一員でしたし、日本に帰る度にその団体を中心に各地の教会で講演をしていましたから、当然信仰という根本のところはあったに違いないのですが、哲さんが「自ら行動する」理由には、この自然な思いがあったということが分かります。なぜそこまで行動できるのですか。それは、
 
「道で倒れている人がいたら手を差し伸べる――それは普通のことです」
 
イエス・キリストも、この世に来たことについて、もしかすると「普通のことです」とお答えになった可能性を、クリスマス前に、ちょっと考えてみるのもよいような気がします。



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