それはわたしのことだ

2021年11月25日

小学生の国語の授業で、ある文章を読み解くことがあった。小学校のクラスで、互いにプレゼント交換をすることになり、それぞれ手作りのものを提出し、皆に配った。先生は、それを心をこめてつくったものを受け取ることを学ぶ機会としたかったのだが、うち一人が、あまりに雑なものに下手な絵が施されているものを、「これはひどすぎます」と皆に見せた。すると、クラスの皆が大笑いをした。それを作った当人が発覚する場面が続くのだが、それはいまは置いておこう。
 
義務教育における国語は、言葉の学習ももちろんあるが、教える内容はかなりの度合いで、道徳である。中学の古文に源氏物語が使えないのはそのためである。私はこの問題で、登場人物の気持ちを選択肢から選ぶなどという程度ではつまらないと思い、生徒たち(小学生)に問うた。
 
もしもこの場面にあなたがいたら、どうするでしょうか。
 
すると、子どもたちは声を揃えて、「笑わない」と言った。物語のその後の展開を読んだ後でもあるから、「笑わない」のがある意味で「正解」であることを、皆知っている。苟も塾に通っている生徒である。正解を答えたい心理があるのは当然だ。私が、本当にそうか、とくり返しても、彼らは揺らぐことなく、「笑わない」としか言わなかった。
 
もちろん、本当に、笑ったらそれを作った人が傷つくということを真っ先に考えて、とても笑えないという子が存在することは分かっている。だが、物語の中でも、たぶん殆どクラス全員が笑っているのであり、だからこそその後の展開があったのである。いくら良い子揃いのクラスであっても、誰も笑わないなどということが、ありうるだろうか。
 
私はないと思う。悪気はない。だが、「思わず」笑ってしまう子のほうが多いだろうと予想する。
 
待てよ。自分が実際その場にいたら、どうするだろうか。自分も笑うかもしれないな。いや、きっと笑うだろう。こんなふうに考えることができるのが、おとなというものなのだろう。
 
現に、こうした事態は、教会の礼拝の説教においても、あるのではないか。牧師はもちろん悪気のない冗談のつもりである。だからその冗談に思わず笑ってしまうというのが日常的だ。確かにすべる場合もあるが、牧師に慣れ親しんだ会衆は、冗談を言っているからそれを面白がるのが礼儀だ、と考えているかもしれない。考えるまでもなく、そう反応することだろう。
 
けれども、よく考えてみれば、それはある立場の人や、どうかするとある特定の人を、傷つけることがあるかもしれない。一瞬のうちにそれに気づき、笑わない信徒も当然いるわけだ。それを聞いたら、それをある立場の人が嫌な気持ちにならないか、傷つかないか、そのように反応するのである。これは私も経験したことだ。
 
酷い場合には、名前こそ出さなくとも、明らかにある誰かのことをあてこすりながら、説教の場で非難していた「説教」を聞いたこともある。牧師の中には、それを実行まではせずとも、その誘惑に駆られた人がきっといることだろう。そういうことを書いていた人もいた。
 
礼拝における説教というもので優れているのは、「あっ、それはわたしのことだ」と聞く誰かが感じた説教である。単に「あなたは祝福されています」「あなたは神に愛されています」だけしか語らない説教のことを、ここで言っているのではない。それは全員が「わたしのことだ」と思うだろう。そうではない。優れた説教は、通例誰もが、それは自分のことではない、と思い過ごしているようなことについて、「それはわたしのことだ」と気づかせることができる。
 
国語の授業では、私にはそれができなかった。説教ではないので、仕方がないということにさせて戴くことにする。



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