【メッセージ】心閉ざして構わない
2021年11月21日
(詩編147:4-14)
主はあなたの城門のかんぬきを堅固にし
あなたの中に住む子らを祝福してくださる。
あなたの国境に平和を置き
あなたを最良の麦に飽かせてくださる。(詩編147:13-14)
「心を閉ざす」という言葉は、それだけでは冷たい響きをもたらすことがあります。もっと心を開きなさい。そんなお説教をしたくなるかもしれません。「引きこもり」という言葉が近年注目されていますが、一時の若者のイメージから、最近では壮年の間での問題としてもまた大きく取り上げられるようにもなってきました。面倒を見るその親が高齢になっていくのです。
コロナ禍では「巣ごもり」という言葉も流行しました。いわゆる「引きこもり」だった人は、これで気が楽になったに違いない、などといった無責任な言明も飛び交いました。少しそう感じる人がいたかもしれませんが、決してそう決めつけてはいけないだろうと思います。さらに、元来外に出回っていた人が「巣ごもり」の故に、精神的に不安定になるということも懸念されました。
真面目なわけです。外出しないでください、というかけ声に忠実に従ったからこそ、苦しくなる。他方、それでも自分は特別なのさと、緊急事態宣言が出たその時に、都心を歩き回るばかりか、その様子をSNSにひけらかすような「偉い」人も一部にいました。子どもたちがそれを見たらどんな思いを抱くか、そんな想像力が欠落していたのだと思います。
本当に子どもたちは、苦しい生活を強いられました。外で遊べない。必要があって買物に出ても、何をしているかと怒鳴られました。小学校の運動場でふだん元気に遊んでいても、近隣から苦情が舞い込むというような世情の中、子どもたちはコロナ禍で本当によく我慢していたと思います。
先ほどのいわゆる「引きこもり」の人の話に戻りますが、その人それぞれに事情が違うでしょうし、もし理由や原因が挙げられたとしても、それも様々でしょう。外に出られないという物理的な情況の他に、心も閉ざして射る、というふうにも言われますが、これもまたいろいろな場合があるだろうと思われます。でも、たとえ心閉ざしたとしても、とても心優しい人が多いのだろうと私は推測します。
私も、そんなに誰にでもオープンであっけらかんとしているような面はありませんし、大学時代にはどちらかというと「籠もって」哲学書を読んでいた方ですから、少しですが心理が分からないわけではありません。もちろん私などは、哲学科のメンバーとの対話に明け暮れていましたから、本当に何年も外に出られないような人のことが分かるなどと、軽々しく口にするつもりはあません。
ただ、たとえばこう考える人もいることを知っています。――どうにも世の中は汚い。正しく生きようと思うのに、そんなことは間抜けだと笑われる。要領よく、うまいことやっていけば、いろいろ悪いこともして当然であり、真面目に生きるなんてナンセンスだ、と笑われる。もし外に出て行けば、そういう悪い考えに流されていくかもしれない。そんな自分にはなりたくない。
とてもきれいな心ではありませんか。そして、キリスト教会には、しばしばこうしたことを求めて訪れる人がいます。そこには美しいもの、真実なものがあって、それを堂々と口にしてよい場所なのではないか。教会はそんなきれいなところではないだろうか。少しびくびくしながらも、そんな期待をして、教会の戸を叩く人が。……いま、スレてしまった人も、最初はそうだったのではありませんか。
なんでも受け容れる、そんなことのできない人は、世の中にたくさんいるのだろうと思います。また、それでよいのではないかと思います。結局ひとは、自分に都合のよいことは受け容れるが、都合のわるいことは受け容れない、そうした歩みをしているのでしょうが、ある「引きこもり」の人は、そんなふうに振り分けるようなことをする自分が、なんだか自己中心的で、許せないというふうに思っていました。世と交われば、自分がどんどん汚れていってしまう、それを恐れ、避けようとするために、外へ出て行けないようになっていったのです。
今日は、そのような気持ちの分かる方に、ひとつ握ってもらえればという願いをこめながら、この詩を共に読んでみようと考えています。
147:13 主はあなたの城門のかんぬきを堅固にし/あなたの中に住む子らを祝福してくださる。
147:14 あなたの国境に平和を置き/あなたを最良の麦に飽かせてくださる。
この部分を軸にして、心を閉ざすことの大切さについて、思いを巡らせてみましょう。
いま挙げた箇所は、詩編147編の中程にあります。今回この147編の全体を取り出さず、最初と最後をカットしました。少しもったいない気もします。後でぜひ全体を味わって戴きたいと思います。どんな歌だって、途中だけを聞いて終わるよりは、曲全体を聞いたほうがいいに決まっていますから。
その中程ですが、ここには祝福の約束があることに、目を留めてください。自分に都合のよいところにひとは注目しがちですが、今日はそこから入りましょう。神がこのように祝福してくださる。この約束をありがたく受け止めましょう。但しこの詩人は、無条件というわけではなくて、そこへ至る道あるいは条件として、これに先立つ箇所に、どんな人が望ましいのか、三つのタイプを明らかにしているように見えます。
それは「貧しい人々」(6)、「主を畏れる人」(11)、「主の慈しみを待ち望む人」(11)です。「○○○人」という形で取り上げられる人です。これらの一つひとつに、まず心を置いていきましょう。
1 貧しい人々
147:6 主は貧しい人々を励まし/逆らう者を地に倒される。
ここにまず登場したのが、「貧しい人々」です。主が励ましてくれます。頼もしいことです。今の世でも貧しい人々はたくさんいます。経済生活が成り立たないような日々を送るということですが、考えてみれば、私自身がさしあたり困難に陥らずに生活しているというのは、奇蹟のようなものだと自覚しています。私は経済観念がありませんし、金に固執もありません。しかし社会で生きていくには金が必要だということが分からないほどの者でもありません。子どもの頃から、自分が金を稼ぐというような様子を想像することがありませんでした。きっと幸せだったのでしょう。でも、毎日お風呂に入っていたわけではないし、母も内職をしていた頃があって、何か贅沢なものを食べていたという記憶もありません。それでも子どもが卑屈にならないように、親は上手に扱ってくれていたのだと思います。
さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。(ルカ6:20)
マタイの山上の説教の場合には「心の貧しい人々」でした。さらに言えば「霊に貧しい人々」とも読めるような語でした。イエス・キリストもまた、「貧しい人々」のことを言っています。
興味深いのは、新約聖書に16回用いられている「貧しい人々」ですが、その殆どが福音書であり、さらに、そのすべてが、施しを与えられるべき人々のことを指しているということです。唯一、「心の」が付くことにより、何のことだろうと考えさせるのが、マタイによる福音書の例の山上の説教なのでした。
ですから、主が励ますこの「貧しい人々」も、事実貧困に喘ぐ人々のことであり、施しを要するような人々のことであったと理解して差し支えないと思われます。彼らは貧しさの故に、律法を守る生活をすることができませんでした。そのため、律法を守ることで自分は「神の民」だと誇るのが、ファリサイ派の人々や律法学者であったとして、イエスと対立していました。彼らはその貧しい人々を罪人と呼び、「神の民」ではないから「地の民」だと軽蔑していたのです。
日曜日に仕事を休むことができて、教会に来ているキリスト者の中には、なかなか教会に来られない人のことを、信仰をなくしたのかとか、仕事だといってもなんとかして来るようにすればいいのにとか、妙に思うことがなきにしもあらずです。熱心な信徒ほどそうなる可能性がありますし、事実非常に熱心な教会では、説教の中でそのような見解を述べるところすらあります。いろいろな説教を読んでみると、かつては今よりも多かったようです。私もそうした古いタイプでしたから、一度めげてしまい、日曜日を休みにしてくれという条件で会社に残り、給料が激減する道を選びました。なにもそれを後悔などはしていませんが、同時にまた、日曜日に休めない方々の辛さも分かりますから悪く思ったことはないと言えます。ただ、たとえばこのように日曜日に働かなければ生活が成り立たないという構造だけを見ると、かつての「地の民」が現代と無縁であるようには私には思えないのです。
私たちは、自分の思い描く通りの信仰生活がなかなかできるものではありません。できていれば、実に恵まれているものと捉えて然るべきではないでしょぅか。ホームレス支援のために教会全体で働いているところがあります。本当に頭が下がります。主が貧しい人々を励ますというのは、真実なのだと証していることを思います。
しかしまた、私はマタイ風に、心における貧しさというものも、否定するわけにはゆかないだろうとも考えます。ダビデが詩編で歌いました。
51:19 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。
確かにダビデは、あの大きな過ちを通じてこの詩をよみました。私たちもまた、大きなショックを受けたときに、このような心になるだろうと思います。けれども、それならそれで、その時のことを、神の言葉により探りを入れられ、また神の言葉で救われたという経験があるはずですから、それをはっきりと証しましょう。また、神の前に、日々砕かれる心を以て祈ることを、一日も忘れてはいたくないものだと私は思うのですが、如何でしょうか。
2 主を畏れる人
147:11 主が望まれるのは主を畏れる人
主が望まれるのだそうです。私たちが、神にこうしてくださいと望む時にさえ、本当にしてくださるだろうかという疑いが理性の方から漏れてこないでしょうか。そんなことはないと言い切れる人は幸いです。しかし主なる神のほうから私たちに望んでいるとなると、そこに疑いというものがあってよいものかどうか、私は疑問です。主は私たちを信じています。
新しい聖書では、私たちが神を信仰するというようにかつて訳されていたところを、神の真実だと訳してきました。これは属格という活用の仕方、私たちの日本語でいえば「の」という助詞の使い方にまつわる訳の変更で、近年その説が学問的にも認められつつあるのを思い切って採用してきました。私たちは、神に信頼されているという、絶大な栄誉をすでに受けているという考え方があるのです。
いずれにせよ、主は私たちを信頼し、望んでいるひとつの姿がここに示されています。「主を畏れる人」です。「おそれる」という日本語は、「恐れる」「怖れる」のような書き方が一般的で、これらはまさに恐怖すること、こわがることを意味しています。
日本人の中には、キリスト教の神が、裁きの神であり、まさに恐怖の対象であるかのように感じられているのではないか、という分析があります。多神教の神とは異なる一神教の神では、その要素もこの神の中に入れられてしまうのかもしれません。歴史的に、なんとかこの神がその厳しさ一色の神ではないことを伝えるために、英語だとGodというものを「天主」と訳したのがカトリックでした。プロテスタントでは「神」としました。中国からの訳語を使うならば、その他に「天帝」というものがあったそうですが、「神」としたら、神道への親しみから受け容れられると考えたのでしょうか。この辺りは様々な研究がありますので、関心をお持ちでしたら、調べてみるとよろしいかと思います。
私は、物事を考えるときに、しばしば「逆はどうか」「そうでないものの場合はどうか」という問いを立てる癖があります。ちょっとそのことだけを聞いたら、そうだなと思えてしまうとき、他の可能性を同時に対照的に意識することで、別の観点に気づかされることが多々あるからです。
ここで「主を畏れる人」を主が望んでいるとありました。これに対して、「主を畏れない人」というのが考えられます。神を神として怖れない、というような形で考えればよいのでしょうか。それもよいでしょう。ぜひ考えましょう。神を少しも怖れないようなタイプの人、あるいはそのような生き方も、あるように思います。そしてそれを避けるのは、キリスト者にとっては、それほど困難ではないと思われます。私たちは決して、神を蔑ろにしてはいないだろうし、神の力を聖書から知らされていますから、軽んじるということは基本的にないと思われます。
しかし、「主を畏れる人」には、別の対照があります。それは「人を畏れる人」という見方です。あまりもう拘泥はしませんが、私たち、けっこう人を怖れますね。もちろん、人間何をするか分からないということで、電車に同乗する人々に疑心暗鬼にもなりますし、中には遺産争いで家族や親族が自分を殺しかねないなどと怖れるということもあるかもしれません。いや、そういう極端なことではなくても、たとえば職場では上司の機嫌を損ねないように怖れていることはあるでしょう。客からのクレームを怖れている店員もいるでしょうし、モンスターペアレントを怖れる教師、しかも教師にとっては校長や生徒ですら、怖れる対象である場合も多々ありますから、大変です。おまけに過労が当然という情況を怖れるとするならば、四面楚歌以上でもありそうです。
新型コロナウイルスを怖れてもいるでしょう。しかしウイルスというよりも、この感染症というものは、やはり人を怖れているようなものではないでしょうか。人が移動すれば間違いなくウイルスも移動します。というより、ウイルスは人が移動しなければ自ら移動することができないわけです。私たちは神よりもなお、人のほうを怖れて日々生活しているような気がします。
古代であれば、もっと人を怖れることが多かったことでしょう。何をされるか分からないということもありますし、王や支配者の機嫌を損ねたらその場で死罪となりかねません。法制度や社会治安が今とは異なりますから、比較にならないくらい、恐い日常であったのではないかと想像します。
たんなる恐怖とは違いますが、イザヤ書の中に面白いフレーズがあります。
2:22 人間に頼るのをやめよ/鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか。
偶像を拝することを厳しく戒めている場面ですが、どんなに頼ってみてもしょせん人間は、鼻で息をするだけの者でしかないではないか、と言い放つのです。すると神は鼻で息をしないのか、などという方向に走るのではなくて、有限で死すべき人間にばかり気を奪われず、恐るべきは主なる神である、ということに気づかせようとしていたのだと思います。
マタイによる福音書には、人々を恐れるなと強調している場面があります。これのほうが、より直接的であるかもしれません。
10:28 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
3 待ち望む人
147:11 主が望まれるのは主を畏れる人/主の慈しみを待ち望む人。
同じく、主が望まれる代表例として、「主の慈しみを待ち望む人」が挙げられていました。少し急ぎますので、簡単に指摘しておくに留めますが、待ち望むというのは、近年私たちの内で益々劣化している能力であるような気がしてなりません。情報機器や移動手段が発達すると、早く物事ができて便利なようですが、逆にじっくり待つことができなくなりました。すぐに苛々します。私も、パソコンが古くなって動作が遅くなったときに、実に苛々して吠えていました。
主に対しては、焦らないこと、絶望しないこと、決して諦めないこと、そんなことを朧気に考えます。子どもは待つことができる名人だと私は感心しますが、いまそのことについては割愛します。
神の祝福を受けるに相応しい型を、「貧しい人々」(6)、「主を畏れる人」(11)、「主の慈しみを待ち望む人」(11)と辿ってきました。ではこのような人に対して、主は何をもたらすのでしょうか。最後に、今日取り上げた詩の最後のところに目を留めて、祝福のイメージを豊かに戴くことと致しましょう。13節と14節を、四つに分けて味わってみます。
147:13 主はあなたの城門のかんぬきを堅固にし
エルサレムは、城壁都市でした。中東での町は、荒涼とした地の中の一角でありましたから、周囲を強固な壁で囲んでおかなければ、敵の襲来に対して丸腰となってしまいます。そうした城壁を打ち破る話は旧約聖書にもいくつもありますし、革命の描写の中にもその構造からいえるようなものがあります。アッシリアなどの周辺の帝国は、そうした城壁での戦いの様子を描いたレリーフなどを遺してくれています。ここに寄り道するといつまでも話が終わりませんので、残念ながら割愛することにします。なお、古代日本は、中国から文化を次々と輸入しましたが、しかし「生け贄」の制度や、「城壁都市」については、輸入しませんでした。何か合わなかったのでしょう。
城壁の出入り口は何々の門と呼ばれるものがいくつかあり、使徒言行録などにも、いくつも登場します。城門には閂がかけられています。日本の城にもありますね。預言者エリシャが、アラム軍の攻撃に対する籠城の中で破滅しそうだったサマリアについて、その解放を預言したとき、王の侍従はそんなことはありえない、と言ったものだから、エリシャはその侍従の死を告げます。果たして、奇蹟的に解放されたイスラエルの住民たちが興奮して走り出したときに、その侍従は門のところで民に踏み倒されて死んだのでした。
夜になると、門は閉じられます。すると怪しい者は町の中に侵入できなくなります。心の閂を強固にするということは、この門を閉じて、閂をかけるということです。怪しい者、悪しき者が、心の中に侵入できなくなるように、閉じるのです。
心の中には、神でなければ埋められない空洞がある。そのようなことを、数学者で物理学者であり、信仰の哲学者パスカルが言ったと言います。古来修道院では、そのような観点から世を離れ、ひたすらキリストと一致した生活を目指していたのではないかと思われます。トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて(イミタチオエ・クリスチ)』を読んだことがない方、いらしたら、ぜひどこかでお読みになることをお薦めします。プロテスタントは最初から小馬鹿にするかのようにして、こうした徳のための書物を読まないことが多いのですが、一説には聖書に次いで多く読まれた本だとも言われるこの本、お気楽な思い込みの生活に、きっと釘を刺すものとなることでしょう。もしかすると、自分の中にいるキリストと思っていたものが、いかに混ぜ物の中ですっかり色褪せ、薄められ、味も効力もないものになっていたかということを、思い知らされるかもしれません。
もちろん、この世のことに興味をもってはならない、というような禁欲が正しいのだ、などと言うつもりはありません。しかし、カトリックの「霊操」というものを知ったプロテスタントの方は、何らかのショックを受けたことと思います。また、箴言はこのように言っています。
4:23 何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。
こうして私たちは、この詩の次の節が、生き生きとここにつながってくることを覚えます。こう書かれていました。
147:14 あなたの国境に平和を置き
国境線のようなものが当時あったようには思えませんが、あったとすれば城壁都市の城壁がそのひとつの形であったかもしれません。もちろん、城壁の外に農場があり、牧場があったでしょうが、都市は明確に城壁で区切られていました。門を閉じ、閂をかけることにより、都市の治安は守られます。平和がもたらされます。この平和は、なあなあの何もなしというイメージとは違うことを、私たちはすでに学びました。厳しい緊張と、時に戦いの後に訪れるものです。戦いの勝利の後に実現するタイプの安らぎであり、共に生きることとなります。そして、この揺るがぬ平安は、人間が自分で作り出すものではありません。神から与えられるものとしか思えません。ここの主語はずっと「主」ですから、主なる神が平和を置いたことになります。まさにエルサレムというのは、「平和」という意味の語から生まれた名でもありました。
今度は、これら二つの節の後半を一度に並べて読みましょう。
147:13 あなたの中に住む子らを祝福してくださる。
147:14 あなたを最良の麦に飽かせてくださる。
これらはレトリック的にも、同じことを表しているとみるしかありません。麦もひとつの象徴で、祝福のひとつの姿を示して、あらゆることを意味していることになります。神の祝福を私たちは浴びています。ルカによる福音書には、強引なほどにまで神の祝福がぶつけられる印象的なフレーズがあります。
6:38 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。
詩編では、「あなた」と呼んでいますが、基本的にはこれはエルサレムのことであり、イスラエルの民族なのでしょう。住人は守られ、産物が与えられます。生きるために必要なものが与えられます。このエルサレムを神殿を中核に据えるならば、ここに教会の姿を見てもよいのではないかと思います。
そうなると、教会が門を閉ざして、閂をかけることが推奨されているかのような図式になりかねませんが、そうではないでしょう。教会が、秘密結社のようになったり、仲良し倶楽部を楽しんだりすることが好ましくないのは当然です。そこには、絶えず人が訪れるべきです。この世の中に、まだたくさんいます。そう、今日延々と見つめてきた人々です。「貧しい人・主を畏れる人・待ち望む人」が、教会の門の外にいます。旧約の時代にはそのように呼ばれていたのですが、新約になると、教会の門は、別の形を以て現れます。イエス・キリストという門です。
イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。(ヨハネ10:7)
さあ、このイエス・キリストという門はどんなふうであるのか、この名を信じればどんなすばらしいことがあるのか――それを今からお話しするならば、今までの時間よりもさらに長い時間が必要になるでしょう。教会は、このことを、常時語っています。また、語っていなければ、教会ではありません。そして、それを語る場としての日曜日毎の礼拝があります。そこには、揺るがぬ生き方への道を照らす光があるでしょう。
最初に取り上げましたが、心を閉ざすことに対して世の中の偏見や無理解があります。そうしたものから教会はできるだけ、理解する方向へと進みたいと願っています。そのために、教会は実は門を閉ざすことに意義を見出しているのだ、と申しました。門を閉じ、閂をかけて、自分の心を大切にすること、そこにひとつの価値があるのだと考えていると告げました。但し、そこにはイエス・キリストがいてくださる、そのときに、心を閉ざすことが喜びになるのだと、私たちは見ています。その門そのものがイエス・キリストであるというふうにも思えるし、それを皆さんに知って戴きたいといつも願っています。そこに祝福がある、と信じているのです。