コミュニケーション能力
2021年11月15日
上白石萌歌さんについてご存じない方は、申し訳ないが少しばかり検索をして戴きたい。映画「羊と鋼の森」での姉妹共演で私はよく知るようになったが、姉の萌音さんのラジオ番組にゲストで出演していたのが最初だったかもしれない。「未来のミライ」での声も新鮮だったが、「いだてん」の前畑秀子役も好演していた。ラジオ番組をレギュラーでパーソナリティとして務めるのは今年の春からだが、それを聞くと、彼女のコミュニケーション能力の高さに驚かされる。
そもそも多忙な芸能活動の中、高校も進学校に通い、いまは大学で美学や芸術論のような学びをしていると聞く。休暇ができたら読書三昧という場合もあるというその活字中毒じみた読書量にもよるのかもしれないけれども、初めて出会ったゲストとでも、こんなに親しく話ができるものかといつも感心している。
すぐに友だちとなる。たとえば、今度そのお店に行きましょう、社交辞令のようには聞こえない。現に、そうしてお友だちになった相手が、別のラジオ番組で、彼女とお店に行った話をしているのも聞いた。そして確かに親しい友だちのように萌歌さんのことを自然に話しているのだ。先日初めて会ったはずだったのに。
羨ましい能力あるいは才能だと感じる。あるいは、性質というのか、賜物というのか。私とは正反対である。つきあいも悪いし、言葉には棘があるし、偉そうな口の利き方もするし、好んで話そうとするタイプではないだろうと思う。
それでも、人の悩みのような相談はよく受けた。理由はよく分からない。時に、なにかぴしゃりと言ってほしいようなことが、人にはあるのだろうか。あるいは、それなりに傾聴する姿勢が私にはあるように見えたのだろうか。
ひとつには、秘密を安易に漏らしたり、人のことを軽々しく悪く言ったりしないなどの点を感じていたのかもしれない。私は必ずしもそれに値するような人間であるとは思えないが、それでも、何かしら「信頼」してもらえたのかもしれない。一部、非常に心ない人がいて、まるで信頼とは正反対でいじめぬかれたことはあったが、概ね、何らかの誠実さは認めてくださったのかもしれない。いやいや、誠実などということはないということは私の自己評価だが、それはそれとして、一定の「信頼」を置かれたということは、むしろこちらが感謝しなければならないと思っている。
そんな私が、特定の人について厳しい、辛辣な評価をしたために、それを聞いたある人を驚かせてしまったこともある。一部、確かにそのような評価をせざるをえない人もいる。ご本人が公表している情報や意見からして、多少推測の部分を入れて私が判断したにせよ、どうしようもなく酷いという場合があると、それを肯定することは、断じてできないのである。
放っておけばよい、それも一理あるが、それができない場合もある。ともかく、判断を必要とする場面においては、嘘はつけない。無責任な嘘は、それを信じた人の運命を狂わすことすらある。この辺り、少しはカントを読んだ影響があるのかもしれないが、もちろんカント先生のような原則に従ったものの考え方をしているわけではない。ただ、放っておくと多くの人によくない影響を与えてしまうという事態にあっては、機会が与えられれば、嘘を言うことはできないのだ。
あのお堅いカント先生は、ああみえて社交的には非常に面白がられ、サロン的な人気があったそうだから、話はうまかったのだろうと思うし、コミュニケーション能力は高かっただろうと思われる。それに時間を取られるということもなかったようなので、おつきあいも規律正しかったのではないだろうか。
私は、置かれたその場で何をすべきか、ということには目が行くが、どうにも日常的に多大な貢献をすることもできないでいる。行動として労をとって世のため人のために尽くしている人には、ほんとうに頭が下がる。敬服の意を表すしかない。
哲学者タレスだって、いざという時には行動を示して哲学の意義を示したというから、私もそんな「いざ」という時がありうるのだろうか。そればかりは、いまの私には分からない。せめて、口先だけと非難されてもなお、嘘はつかないでいきたいと願っている。