一切関係がありません
2021年11月7日
トイレの香りみたい。
いやいや、それは本物のキンモクセイだってば。
確かに、あるある。ぬいぐるみみたいに可愛い。
いや違う、本物があってこそのぬいぐるみのはず。
本当にあったのか、「教会でもクリスマスをするんですね」という逸話が語られることがある。これはどうやら、三遊亭円右の「クリスマス」という落語で広まったネタであるらしい。子どもたちが歩きながらそんな会話をする場面が最初のほうで出てくるのだ。それよりむしろ最近では、お寺でもクリスマス会をするところがあるとも聞く。逆にまた、ハロウィンをもじって、オレンジ色と黒の飾りをたっぷり掲示板に示した上で、「HAPPY HOWRIN(法輪)」と書いていた寺は、お見事である。
フェイクが本物のような顔をして、あるいはフェイクの方が身近になってしまったものも多いだろう。カニカマなんて、カニじゃないほうのしか食べたことのない人が多そうな気がするし、シメジと呼んでいるものも、ホンシメジですらないのが当然のように流通している。
キリスト教会の案内によく、「当教会は、統一協会(統一原理)、エホバの証人(ものみの塔)、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)とは一切関係がありません」のような言葉が記されている。そしてそこには書かれないが、教会内では、こうした団体の事を「異端」という名で呼んでいる。
こういう言い方に対して、提言をする人がいる。待てよ、と顧みるわけだ。向こうから見れば、他のキリスト教会の方が「異端」であることになりはしないか。また、このような言い方をすることで、キリスト教会たちが、自分たちは正統なのだ、という思いに浸っている事になりはしないか。こうした見方が、一般社会でなされるかと思ったら、どうやら当のキリスト教会の内部からも声があるらしい。
近年の人権的な配慮からしても、悪い観点ではないと思う。ほんの何十年か前までは、同性愛を犯罪として裁いていたキリスト教会が、いまやLGBTQの味方みたいな顔をしている場合もある。異端問題にしても、中世の歴史を学んだならば、口にはできないほどの残虐さと不条理さを、教会自体が神と正義の名のもとに平気でやっていたことが分かる。
だから顧みることを悪いとは思わないが、教会案内には、「一切関係がありません」としか書かれていない。彼らとはどうしても相容れない、信仰の根本部分があるのだから、この表現ならば決してそれ以上の意図を示していることにはならないだろう。
確かに、付き合いもないし、信仰の話もできない。驚くほどのことはない。カトリックとプロテスタントでさえ、そんな感じだったのだ。むしろ、この二つの勢力は、相当長い間、多くの殺人をやり合う戦争をすらしていたのであり、今でも危ないところがあるようだ。ルターの宗教改革から500年に共に礼拝を献げたことは、一部で大きなニュースになったが、ルター派のほかにどれほど賛同したか分からない。
だから、「一切関係がありません」の響きに不穏なものを感じさせるものがあるのは分かるが、さしあたり事実を述べているだけという形をとっている、という辺りでよいのではないだろうか。
関係がない。これを神から突きつけられたらショックである。油を用意していなかった五人の女性に対して主人は「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」(マタイ25章)と言った。なんと冷たい言葉か、とも思うが、他にも「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」(マタイ22章)と、王子の婚宴のためにかき集めてきた人々の中の一人に厳しい仕打ちをした話がある。こうした厳しさは、やはり「おまえとは関係がない」ということの現れではないかと思われる。
興味深いことに、聖書の中に「関係」と訳される語はかなり少ない。特に、神と人間との関係という、私もよく使う捉え方については、ひとつの場合を除いて、聖書でそう邦訳された箇所はない。そのひとつというのが、次の箇所である。
死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。(ペトロ一4:6)
私たちは、悪い者たちとの「関係はない」と言いたいものである。そして、常に自分のいる側が正しく、自分は正義の味方でいたいと考えている。だが、訳出は少なかろうが、私たちは神との「関係」の内にあるとき、命を受けるのだと思う。それは「関係」という語によってではなく、「つながる」とか「内にいる」とか、いろいろな表現で扱われているように思われる。改めて、「神との関係」を問い直す機会としたいと思うのであった。
わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き
彼らの顎から軛を取り去り
身をかがめて食べさせた。(ホセア11:4)
できれば切り離して関係なきものとしたい時、あるいは何らかの事情で関係が切れてしまった時、それでもつながっているということを示すものを「絆」という。家畜を杭などにつなぐ紐のことだ。特に、これを「ほだし」と読んだときには、抗えない力であることを強く示す。「情に絆される」という言葉に今その意味が残っている。イエス・キリストが、その絆として、血まみれの姿でそこにいる。私はその情景を、いつも目の前に見ている。